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小話 彼の隣に並んだら2






手が、ぷるぷると震えている。

白くて、ふんわりと優しい肌触りの生地が、手の揺れに合わせてさらりと揺れた。

鼓動が速くて、頭がぼーっとしている。ふわふわと落ち着かなくて、なんだか気が遠くなる手前のような、頼りない意識に足元から崩れてしまいそうだ。

けれどそうならないのは、隣に立つ彼の腕が、私の腰を引き寄せていてくれるからで・・・。

緊張が限界値を超えそうな自分が情けなくて顔を上げると、彼が深い緑の瞳をゆっくりと瞬かせて、そして微笑む。

黒い衣装が似合っている彼は、私にペンを握らせたきり何も言わずに寄り添っている。どうやら助けてくれるわけではなさそうだ。

・・・分かっている。私が自分の意志で、手を伸ばすべきなのだ。

彼が、台に広げられた紙を一瞥する。そして再び私に視線を戻したのが分かって、私は握り締めたペンに意識を集中して、深呼吸をした。





「ねーぇー、やめよーよぉー」

涙目で私を見下ろす彼女が、ハンカチを握り締めて訴えた。

私はそれに苦笑を返して、椅子から立ち上がる。

「・・・もう泣いちゃったの?」

赤い髪の彼女は、その色のイメージ通りに明るく朗らかだ。けれど、それ以上に涙もろい。気が強くてシュウに向かって罵詈雑言を吐いた経験がある割りに、情に厚くて甘えん坊さんだ。

一緒に過ごした年月はそれほど長くはないと思うのに、私達は幼い頃から一緒にいたかのように仲良くなれた。それはたぶん、塞ぎ込んで途方に暮れていた私に、何も特別なことをせず普通に接してくれた彼女のおかげだと思う。

院長もそうだったけれど、必要以上に私のことを知ろうとせず、けれど傍に居てくれた。

照明の光を柔らかく反射するサテンのワンピースの淡いオレンジ色が、そんな彼女の赤い髪によく映えている。

私は他人を抱きしめる習慣のないところから来たから、迷った挙句にやはり照れくさくて、彼女のハンカチを握り締めていない方の手を両手で包んでみたりして。

着たことのないものを着ているからなのか、なんだか自分の仕草がいつもよりも思慮深くなっている気がする。それが可笑しくて思わず頬が緩んだ。

「ひどい、こっちは泣いてるっていうのにー!」

・・・あ、噴火した。

「あー・・・アン、ごめん。違うの。

 なんか、お互いいつもと違う格好で、可笑しくって」

言葉と一緒に涙がぽろぽろと零れた彼女に謝って、素直な気持ちを吐き出す。

すると彼女は、一瞬きょとん、としてからまた喚いた。

「可笑しくなんかないもん!

 ・・・結婚なんかしないでよぉぉっ」

「うーん・・・」

彼女の手を擦りながら何と答えるべきか考えるけれど、眉を八の字にして微笑むしかなかった。なにしろ今日はそのために真っ白なドレスを着ているのだ。

えぐえぐしている彼女の肩に手を置いた私は、ぽんぽん、と軽く叩いた。

「ごめん、それは無理」

「ミーナのばかぁぁっ」

「うん、ごめんね」

「うぅぅぅ・・・」

どう頑張ってもアンの望むような回答を用意できなかった私は、仕方なく彼女が落ち着くまで待つことにする。握った手を擦り、彼女が鼻をすする様子をじっと見守って。

「ほんとに結婚しちゃうんだ・・・」

「ん、しちゃう」

ため息混じりに呟いた彼女に、駄目押しで頷くと、盛大なため息を吐かれてしまった。

「寂しいなぁ・・・」

目じりに溜まった涙をハンカチの隅で吸い取った彼女の、噴火した感情がみるみる萎んでいくのが分かって、私は苦笑してしまう。

「そんな、別に遠くに行くわけじゃないんだけどな」

「うん、分かってるんだけど・・・」

「・・・けど?」

「・・・寂しいんだもん」

「今まで通り、お茶したり出かけたり、出来るのに?」

「うん・・・子守も続けるんでしょ?」

「そうだよ。王宮でも会えるし、今までと変わらないでしょ?」

話している通り、私は結婚しても子守を続けることになっていた。本当に、これまでと何ら変わりない生活が続くことになっているのだ。何か変化があるとすれば、彼が参加しなくてはいけないような行事があるとして、私の同伴が必要になることがあるかも知れないくらいだ。

・・・とは言うものの、そういうことに参加出来る王族が少ないためで、陛下の子どもであるオーディエ皇子やリオン君がそういったことを務められるようになれば、彼の出番も少なくなる。陛下の従兄弟、という肩書きが必要とされなくなるのも、時間の問題だ。その代わり、今度は10の瞳という肩書きを背負うことになるのだけれど・・・。

「今度、うちに遊びに来て。ノルガも一緒に、4人で食事でもしようよ。

 客間もあるから、夜通し飲んでも大丈夫だし・・・ね?」

囁くように話してみたら、彼女がこくん、と頷いて、私はほっと息を吐いた。


ノックの音に返事をすると遠慮がちにドアが開いて、彼女と同じ赤い髪が揺れてひょっこりノルガが顔を出した。

「・・・う、」

こちらから見ると、ノルガの顔だけが見えている。呻いた彼の目が、大きく見開いた。

私はアンの手を両手で包んだまま、彼女と一緒にそんな彼をじっと見てみる。よく考えたら、アンの彼なのだ。部屋の中に入らないなんて、一体どうしたのだろう。

そうして、ほんの一瞬が過ぎた頃だった。突然、だった。

「・・・わぁぁぁっ」

「えぇっ・・・?!」

大声を張り上げて歓声を上げた彼が、勢いよく部屋に飛び込んでくる。そして、私達の目の前で目をきらきらさせた。

・・・戸惑って声を漏らしたアンは、あまり視界に入っていないようだ。

「えっと、ノルガ・・・?」

どうしたの、と私が言おうとした時だ。赤い髪の向こうに、黒い服が見えた。

「勝手に入るなと言っただろう」

ため息混じりに言いながら部屋に入って来たシュウが、ノルガが開けっ放しにしたドアを閉めて近づいて来る。ノルガを咎めている言葉の割りに、その表情は穏やかだ。

「あ、団長」

ぱっ、と振り返ったノルガが呟いたのに対して、彼は軽くその頭を小突く。それを見ていたアンが、ため息を吐いてノルガを見遣った。

「あのね、何してんのよ。

 ミーナはあたしと話してたの!」

・・・そこじゃないと思うんだけどな。

思ったことの全てを口にすることは良いことではない、と知っている私は、浮かんだものを頭の隅に追いやって、私の隣に並んだ彼を見上げる。

・・・今日も綺麗だな。黒い正装に、深い緑色が透き通ってよく映えて・・・。

いつもに増して甘さを滲ませるその瞳を細めた彼は、私のこめかみに口を寄せてから赤い髪の2人に視線を移した。

「今日は、ありがとう」

「・・・う、うん」

まさか素直な感謝の言葉を聞かされるとは思いもしなかったのか、アンが微妙な表情を浮かべて曖昧に頷く。まさに目が点だ。そして視線が泳ぎ始める。

完全に戸惑っているアンを尻目に、ノルガの方は咎められたことも意に介さなかったようで、にこにこしていた。

「ミイナちゃんおめでとう、すっごい可愛いよ。

 黒い髪に、白がよく映えて綺麗!」

「・・・あ、ありがと」

一瞬言葉に詰まってしまったのは、隣の彼が鼻で笑うのを耳にしてしまったからで。

「今回は俺が結い上げた」

自慢気に言い放った彼を、アンが凝視した。

「蒼鬼が・・・?!」

「意外か」

「そりゃもー・・・いや、そりゃそうか。溺愛してるもんね、ミーナのこと」

「・・・否定はしない」

完全に私は蚊帳の外だけれど、それでも普段まともな会話が成立することの少ない2人が、会話をしているのを見ているのは楽しいし、嬉しい。2人共私の大切な人だから。

もしかしたら、同じようなことをノルガも思ってくれていたのだろうか。ふいに視線が合って、困ったような表情で微笑まれてしまった。

「ノルガは、アンの髪を結ってあげてるの?」

けれど、ふと浮かんだ疑問を口にした刹那、私以外の3人の表情が固まった。私としては、この何気ない質問が場を凍りつかせるだなんて思いもしなかったのだ。出て行ってしまった言葉を回収するわけにもいかず、ただ内心慌ててシュウを見上げる。

すると彼は、ほんの少し視線を左右に揺らしてから小声で教えてくれた。

「その質問は、今後は控えた方がいい」

「・・・理由も教えてあげた方がいいよ、きっと」

彼の言葉に続いて、アンが腕を組んでため息をつく。

「あのぅ・・・?」

その質問は良くない、と言いたいらしい2人を目の当たりにして初めて、私は自分の疑問がこの世界の常識からずれていることに気がついた。それなら是非、理由も教えて頂きたいものだ。

窺うようにして彼の目を見つめると、やはり視線が揺れる。そんな彼を一瞥したノルガが、顔を赤らめたアンの頭をぽん、と軽く叩いて私に向かって口を開いた。

「この世界の女性が髪を結い上げるようになった、起源みたいなものがあってさ・・・」

「大昔・・・なんだろうな、きっと。

 この世界には、奴隷がいた」

ノルガが話し始めたのを合図に、シュウが口を開く。

先に話しを始めたノルガは、シュウが口を挟んだのを受けて、そっと口を閉じた。そして静かにアンの隣に佇んだまま、私を見る。

私は頷いて、シュウを見上げて話を聞こうと意識を集中した。

「奴隷は、金のある家に買われて言いつけられたことを何でもこなす。

 今で言うメイド、シェフ、庭師・・・何でもだ。否とは言えない。奴隷だからな。

 そんな中、見た目の良い奴隷は、寝室に侍らされたりもしていたらしい。

 ・・・いわゆる夜の相手だな。

 そして、夜の相手をした奴隷は、ことが終わった翌朝の身支度の世話をしていた。

 そういう人間を羨んだ奴らが自分で髪を結い上げて、あたかも自分にも夜の奴隷がいる、と

 見せかけた。奴隷がいることは、財力の証みたいなもんだったからな。

 で・・・そういう事情とは無縁の連中が、結い上げた髪を真似始めて、今に至る」

「・・・知らなかった。でも、どうして?

 どうして、ノルガがアンの髪を結ったかどうか、訊いたらダメなの?」

そういう背景があって、女性が髪を結い上げるようになったことは理解出来たけれど・・・。

この際だから、と頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、それまで説明してくれていたシュウが困ったカオをした。

代わりに口を開いたのはノルガだったけれど・・・。

「そういうことがあって、今では人前で髪を下ろすのはふしだらだ、って言われてて。

 だから、なんていうかその・・・」

その彼も、途中で言葉を切って口ごもってしまった。

そして、それまで少しの間黙っていたシュウが口を開いたかと思えば、低い声で呟く。

「・・・少し2人にしてもらえるか」

「え?」

聞き返した私が見たのは、彼が額に手を当てて沈痛な面持ちで俯いている姿だった。

・・・今日の私達は確か、新郎新婦のはずなのだけれど。甘い雰囲気は一体どこへ。


彼のひと言に、アンとノルガが連れ立って部屋を出て行く。静寂が満ちる中、彼が小さく息を吐いて私に耳打ちした。

「男が女の髪を結い上げてはいけない、というわけではない。ただ・・・」

「ただ?」

間近にある彼の瞳に、どういうわけか意地悪な光が灯る。

「奴隷まで堕ちても構わない、という意思表示みたいなものか。

 他人に言わなければ、相手だけがその意志を汲み取って、それで終わりだな」

「どれい・・・?」

その言葉の意味が掴みきれずに小首を傾げると、彼は頬を緩めてから息を漏らして、私の頬をひと撫でした。目から、甘い何かが零れている気がする。

「ああ。

 相手に溺れているから、身も心も尽くします・・・とでも言ってるようなものだ」

「・・・そ、そうでしたか・・・」

衝撃的な内容に、そう相槌を打ったきり言葉が出てこなくなった私は、俯いて思い出していた。

初めて部屋に泊まった翌朝・・・あの時はまだ寮に部屋を借りていたのだった・・・彼は私の髪を結い上げてくれたのだ。そんなこと一体どこで覚えてきたのかと、ささやかな嫉妬を感じてしまったのを覚えている。

まさか、あの時のあれにそんな意味があったなんて、思いもしないではないか。今になって告知するなんて・・・。

考えを巡らせた私は急に恥ずかしさがこみ上げて、顔を扇いで深呼吸をする。

すると、彼はそんな私に苦笑した。

「俺がお前の髪を結うのは別に、誰に知られても構わないんだが・・・。

 誰かにそれを尋ねるのは、やめておいた方が無難だな。若干、生々しくて気まずい」

「はい・・・」

確かに、男女の濃い関係を匂わせる質問だ。抉るような、と言ってもいいくらいの、艶やかさを超えたものが漂ってしまう。

私は彼の言葉に頭を垂れた。まだまだ私の知らない、この世界の暗黙の了解があるのだと分かって。

「あまり気にするな。

 あいつらは、お前が渡り人だと知ってるんだ。悪気がないのも分かってるだろ」

言いながら私の頬に触れた彼の手が、そっと力を込めた。その力に抗わずに顔を上げた私は、優しく細められた瞳に、目だけで頷く。

「そんなことより、」

心地良いバリトンの声が、輪をかけて柔らかくなる。吐息がかかるくらいの近さで、彼は囁いた。目を合わせれば、深い緑の瞳がほんの少しだけ揺れる。

「これからも、ミナの髪を結わせて欲しい」

「・・・なんか、プロポーズの言葉みたいだね」

否応なしに跳ね上がった鼓動を感じた私は、悔し紛れに囁いた。

彼はそんな私を、小さく笑う。

「似たようなものだ」

「泣く子も黙る蒼鬼が、結っちゃうの?」

こういう時、彼が何の裏もなく言葉を紡いでいると分かるのに、私は彼を試してしまう。悪い癖だ。好きだから、いつも少しだけ不安なのだと言えば、彼の目に可愛らしく映るかも知れないのに。

頬の上を、彼の親指がゆっくり上下する。

「それに私、注文多い・・・」

「損はさせない」

「・・・それなら、」

ほんの少しだけ彼の声が硬くなったのを聞いた私は、その深い緑の瞳を見つめた。吐息がかかって、彼の目の中に私が移り込んでいる。

「・・・髪を洗うところから、して欲しい・・・」

そう囁いて、目を閉じた。瞼の向こうで、彼の呼吸が一瞬止まったのが分かる。

「任せておけ」

言葉が耳に入るのとほとんど同時に、熱が近づいてくる。あと少し、ほんの数ミリで触れる、というところまで来て・・・ノックの音が響いた。

私は目を開けて、彼は動きを止める。ぶつかる寸前、といった距離まで彼が来ていたことを実感して、鼓動が跳ねた。

「・・・いいの?」

ドアの向こうにいる誰かに返事をしない彼に囁くと、その目が細められる。まだ、そこから零れる甘い何かがあることに気づいた私は、彼の代わりに自分が返事をしようとして、迷ってしまう。

そして、そうやって一瞬迷った隙に唇が重ねられて、すぐに離れる。触れた体温が離れると、急に寂しい気持ちになるから不思議だ。

その寂しさがカオに出てしまっていたのだろうか、彼が苦笑しながら囁いた。

「もう一度ノックがあれば開ける」

次に重なった唇は、角度を変え息継ぎをしては、何度も何度もその熱をくれる。そうして、いつの間にか私の息は上がっていた。




結局、彼がドアを開けたのは3度目のノックに、顔を顰めた後だった。







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