10
「しっかし、君が王宮で働くことになるとはねぇ」
しみじみと、隣のシートに座ったリュケル先生が誰にともなく言う。
「わかってます、私みたいな馬の骨が行っていい場所じゃないと思います自分でも!」
半ばやけくそになって、私は窓の外に流れる田園風景を眺めた。
昨日は朝から大変だった。
午前中は、隣に座るリュケル医師から、拷問のような採血を受けた。
筆舌に尽くしがたいとはこのことで、本当に拷問なのではないかとユタさんに尋ねてみたくなるほど、今回の採血は鳥肌が立った。
そして午後からは院長と一緒にお買い物。これも大変だった。
院長は自分には女の子がいないそうで、女の子と買い物に行って、他愛もないお喋りをしながら街を歩くことが夢だったらしい。
だからといって、日が沈むまで遊び歩かなくてもいいだろうに。
孤児院に帰ってからはお世話になった人達に挨拶をして歩いた後、慌てて荷物を纏めていたら、すっかり夜も更けてしまった。
そして疲れてベッドに倒れこんだら意識が沈んでいって、気づいたら朝がきていて、慌てて支度をした私は、リュケル先生と列車に乗っているというわけだ。
ついに私は、2年間暮らした小さな孤児院を出て、自立への第一歩を踏み出すことになる。
・・・決意も新たに、列車のシートに腰掛けていたところで、冒頭の会話に戻るのだけれど・・・。
「そういえば、リュケル先生は王立病院に用があるんですよね?」
「うん?」
窓の外を眺めたままの問いかけに、先生もうわの空で答える。
振り返って見ると、彼は孤児院から持ってきた本を読んでいるようだった。
そのまま周りを見回してみると、私達の他に乗客はまばらだ。
それはそうだ。私達が乗っているのは、ただでさえ高い列車の、特等車両なのだから。
乗り込んだ時に普通車両の中を通ったけど、シートの幅はほぼ倍あるし、天井には豪奢な照明が輝いてるし・・・高級ホテルのロビーかのような印象を受ける。
院長はさらっと、切符は取ったから、と言っていたけれど・・・そういうレベルの話じゃないと思うのだ。孤児院経営の前に何をしていたかは知らないけれど、こんなふうにお金を使える人だったのか。
空恐ろしい金額に違いないだろうから、これ以上掘り下げて考えるのはやめておこう。
そしてこの隣の彼も、特等車両に臆する様子もなく、自分の家のリビングにでも居るかのように、優雅に足を組んで寛いでいる。
もといた世界でも医者はお金持ち、というイメージがあるのか、同僚がしきりに飲み会に参加していたけれど・・・きっとこの世界でも、そのイメージは適用されるのだろう。
いっそのこと、気持ちが良いくらいの寛ぎっぷりでもある。
なんとなく自分の中で納得して、彼に話しかけてみることにした私は、そっと口を開いた。
「私、王都へは行ったことがなくて。
やっぱり大きい、経済の中心のような街ですか?」
あちらの世界で暮らしていた首都の雰囲気を思い出し、なんとなくイメージを膨らませる。
お城があって、碁盤のように細かく通りが広がっていて・・・。
「うーん・・・王都で出歩いたこと、あんまりないからなぁ・・・」
「病院にこもってるってことですか?」
本から視線を上げて、先生が言った。
「まぁそんなとこかな」
「そっかぁ・・・」
詳しい話は聞けないけれど、自分の目で確かめればいいか。
そう結論付けて、私は再び窓の外を眺めた。
列車は滑るように進んでいく。田園風景から、だんだんと石壁の建物が目につくようになってきた。王都までは、もう少しだろうか。
緊張と不安がじわじわと胸の中を広がっていく感覚に、私は自然と胸元のコインに指先で触れていた。
まだ身に着けて間もないけれど、胸元に手をやれば触れるそれは、王都に行く覚悟を自分の中に探すのに大いに役立っているのだ。
今も触れていれば、なんとなく、気分が落ち着いてくる。
すると隣の彼が、私のその指先をそっと掴んだ。
ずいぶんぼんやりしていたようで、私は我に返って彼の方を振り向いた。
診察の時でも尋ねてから触れるというのに、一体どうしたというのか。
「何、」
するんですか、と言おうとして、彼の目の鋭さに息を飲んだ。
一瞬で何も考えられなくなる。
こんな怖い顔したリュケル先生なんか、私は知らない。
「君、このコインどうしたの・・・?」
やけに艶やかな低い声。
指は離してもらえたけれど、彼はすっと身を寄せてきて、今度は直接コインを触られた。
ほんの一瞬、彼の指先が私の胸元を掠めて、硬直しているはずなのに、体は正直に怖いと震える。
顔が近い。
「どうした、って・・・」
ぴったりと閉じてしまいそうな喉をこじ開けて言葉を紡ぐと、彼はコインに目を落として尋ねた。
「蒼鬼からもらったんでしょ・・・?」
やはりコインの紋章を見れば、分かる人には分かるのか・・・。
先生の異様な雰囲気を感じつつ、否定しても仕方ないので私は頷いた。
「・・・はい。後見人になってくれるそうなので・・・」
「ふぅん、そう」
先生の瞳は、未だに何かを探るように鋭いまま。
私の耳にはただ、列車が線路を進んでいく澄んだ音が響いていた。
いや、これは私の心臓の音なのかも知れない。
「そうなんだ・・・蒼鬼と、ねぇ・・・」
そう言い終わった瞬間に、先生が鼻にしわを寄せて、顔を顰めた。
そして、静かに言う。
「ねぇ、ミイナ・・・」
コインを触っていた手が、私の頬を撫でた。
思わず息を飲む。
先生の思惑が全く掴めず、私の頭は混乱するばかりだった。
「あ、あの、先生・・・?」
「ん・・・?」
「その、手を、離してもらえます・・・?」
もっと強く不快感を示すことが出来たら、どんなに気が楽だろう。
しかし先生は私の精一杯の拒絶にも、あろうことか効果音が聞こえそうなくらいに、ニヤリと悪い顔をして、さらに顔を近づけてきた。
「・・・っ?!
ちょ・・・っと、せんせぇ・・・っ!」
必死に仰け反って先生の顔を避けようとすると、窓に頭がぶつかった。
がつん、と痛みが広がるけれど、そんなことはどうでもいい。
先生は自分の顔を私の首筋に埋めるように、しかも私が避けられないのを分かっていてなお、じわじわとこちらの反応を楽しむように近づけて・・・。
「あの!
別の車両にイケメンがいましたからぜひそちらへどうぞ!」
私も必死だ。
他人が被害を被ろうとも、この際どうでも良かった。
しかし彼は私の提案を受け入れる気はないらしい。
他に彼を止める台詞が思い浮かばない私は力を込めて、両腕でその頭ごと押し返そうとするけれど、一切びくともしなかった。
完全に成人男性だ。
絶望的なことに、私の抵抗が意味を成さないと悟ってしまった。
目をぎゅっと瞑っていると、首筋のあたりに唇のような、湿った感触が。
ぞぞぞっ、と総毛立つのが分かる。
不快で歪んだ口元から、可笑しな悲鳴が漏れた。
「ねぇ、ミイナ」
そのままの姿勢で、先生が言う。
言葉を発するたびに唇が動いて、その振動が頭のてっぺんまで突き抜けていく感覚に、唇をかみ締めた。
「・・・うぅぅ・・・」
「勘違いしてるみたいだけどね、」
言いながら、彼の手が私の頬から腰へと、すーっと伸びていった。
次は何をされるのかと心臓がさらに騒ぎ出した時、先生の体が離れて呼吸が楽になる。
解放されたと思った途端に、無意識に顔の緊張が解けた。
そこで先生の顔が視界の真ん中に割り込んできて、私は思わず息を止める。
「僕が好きなのはミイナだよ」
「・・・え?」
先生は、至極真面目な表情で、私の顔を覗き込む。
その手が私の腰を撫でているのが気になって仕方ないけれど、反応してはいけない気がした。
「僕が好きなのは、ミイナだけ。
ずっと、ずっと見てたんだよ」
とろん、とした甘い表情になって、先生が顔を近づけてきた。
それだけは絶対に嫌だ!
心の中で叫んだのと同時に、べちん!と小気味良い音がして、彼は額を押さえたまま唖然とした表情で、息を荒げたまま固まっていた私を見ていた。
「あ・・・」
はっと我に返って、慌てて手を引っ込める。
唇を死守するのに必死で考える暇もなかったけれど、状況から察するに、どうやら先生の額を思いっきり引っぱたいたようだった。
でも謝る必要がないのは、さすがの私でも分かる。
すると、ひりひりしているのか、額をさすりつつ、先生が急に真面目な顔で言った。
「本当に、君が好きなんだよ」
その瞳に鋭さはなく、どこか子犬のような媚が見て取れる。
色気で溢れた視線が、悲しげに揺れた。
「王立病院に勤務していた時に、たまたま孤児院に立ち寄ったことがあってね。
その時に君を見かけたんだ」
心なしか、いつもより声のトーンが低い彼が、だんだんと普通の男性に見えてくる。
「どうしても傍で見ていたくて、医務室の医師を交代させたんだけど・・・。
院長が、邪な気持ちがあるのなら勤務させるわけにはいかない、って言うから」
そこまで言って、先生が遠い目をする。
「仕方なく男色めいた言動をしていたってわけ。
でもそのおかげで、ミイナにも警戒されずに触れることが出来たんだけどね・・・」
発言が犯罪者のような彼に、やはり同情するべきではない、と私は悟った。
「じゃあ、先生は女性が好き・・・なんですか・・・?」
尋ねると、先生は嬉しそうに頷いて口を開く。
「うん。やっとミイナに恋愛の対象として認識してもらえる日が来たんだね~。
もう孤児院を出た身だし、何しても院長のお咎めもないことだし」
「・・・あの、犯罪のにおいがしますけど、何か変なこと考えてないですよね・・・?!」
腰にまとわりついた手をてしてし払って、先生を睨みつける。
ここで甘いことを言ったら、こういう思い込みの激しそうなタイプは、極端な行動に出るような気がして、私は口元を引き締めた。
「犯罪って・・・失礼だね。
もう自分を偽る必要がなくなったから、今だって本格的に求愛、」
「どんな行為でも双方の合意がない場合は、犯罪です」
さっきのは求愛だったのか。突然愛をぶつけられても困る。
私は大きなため息をついた。
「犯罪まがいに迫られても、私が先生を好きになることはありません!」
いい加減離れて下さい、と付け加えて先生の体を押しやる。
今度は私の力でも、ちゃんと自分のシートに戻ってくれた。
とても残念そうだったけれど、もう子犬の目をしても駄目なものは駄目なのだ。
「君は確か、渡り人だったね」
列車がもうすぐ王都に着く、という頃になって、先生は急に真面目な顔をして私に言った。
その確認が、一体何を意味しているのか分からずに、首を傾げる。
「きっと王宮について、何も知らないと思うから忠告のつもりで話すよ」
言われるまま、私は首を縦に振った。
きちんとした話なら、真面目に聞いておきたいからだ。
「今では渡り人も、世の中に受け入れられて普通に生活してるけどね、
それまでは戸籍も作れず、誰かの庇護を受けないと生きていけなかったんだよ」
「え・・・?」
「庇護を受けるってことは、強い人間・・・例えば権力や財力のある人間。
ちょうど蒼鬼のように地位も武力もある人間に、守ってもらうこと」
庇護だなんて、便利で聞こえのいい言葉だよねぇ・・・と先生がこぼす。
「でもそれは、昔の話ですよね・・・?」
窓の外からは初夏の日差しが降り注いで、さっきまで肌がちりちりしていたというのに。車両の空調がおかしいのか、肌寒く感じて両腕を擦る。
先生は静かに続けた。
「そう、昔の話。
いろいろ理不尽な扱いを受けていたのもあって、地位を向上させることと引き換えに、
1人の渡り人が自分の知る限りの知識を国に与えたんだ。
それから国は、利益を与える渡り人を、保護するようになった。
そして当初の思惑とは裏腹に、今度は力を求める人間が、渡り人の保護を名目にして、
どんどん囲い込むようになっていった」
それは、まるで遠い世界の話のよう。
全く現実味のない話だけれど、彼は現実として私に伝えようとしている。
「当然、その中には正義感を持って渡り人を守ろうする人間もいた。
でも、奴隷同然に囲い込むような、国家の膿ともいえる人間もいた。
そういうドロドロした歴史を歩いてきたこの国には、まだまだ渡り人を
この世界の人間と同等に扱えない、頭の悪い奴等が存在してるんだよ」
言葉の出ない私の顔を覗き込んで、先生が目を細めた。
瞳の奥に、強い光があるのに気づいた私は、きっとこれは本気の忠告なのだと、息を飲む。
「そういう奴等の温床が、今から君が向かう場所」
それはまるで、重罪の宣告のようだった。
私のような、一般市民を絵に描いたような人間が受け止めるには、あまりに重い。
「ああいう閉鎖的な場所は、古い価値観の身分のたかーい人が多いからね」
彼の言葉に血の気が引いてきて、頭が真っ白になりかけた時だ。
「だから、君が渡り人だっていうことは、なるべく伏せておいた方がいいよ」
先生が固まってしまった私の髪をゆっくり撫でながら、優しい声で言う。
私はそれに、こくこく頭を縦に振る。
残念ながら、もう抵抗するだけの気力もなかった。
「もしバレちゃっても、蒼鬼のコイン・・・だけじゃやっぱ心配だから、
コレもその紐につけておいて」
そう言って、彼は片耳だけにつけていたピアスを外そうとしていた。
黒い石が光る、フープピアス。
「・・・それ、や、なんでもないです」
「ん?」
言いかけてやめる。
同性愛の証に片方の耳だけにピアスしてるのかと思ってました、なんて、口が裂けても絶対に言わな方がいいだろう。
意味を知らなかったら説明も必要で、とても悲惨なことになるだろうし・・・。
それにカチンときて、またとんでもない行動で報復に出られたら非常に困る。
いつだって自分の身を守るのは自分自身だし、危険を招くのも自分自身だ。
私が1人で息を潜めて考えにふけっている間に、先生は手早く私の首にかかった紐に、ピアスを通してくれていた。
そして、最後にコインを指で弾く。
「・・・僕のだけで、完っ璧にミイナのこと守れると思うんだけどなぁ」
まぁいいや、蒼鬼の方が手をつけるのが早かったってことだしね、とブツブツ言っていた先生は、すぐに真剣な表情になって私の目を覗き込んだ。
「とにかく、その2つは君の身を保障するものだからね。
いちゃもん付けてきた輩がいたら、それ相応の覚悟があるのか聞いてみて。
すぐ引き下がると思うからさ」
「・・・その前に、そういう場面に遭遇しないことを祈って下さいよ・・・」
若干涙目で訴えると、先生は「そうだねぇ」とにこやかに笑ってくれた。
それからは、セクハラまがいのボディタッチを受け流しながら、なんとか無事に王都までたどり着くことが出来たのだった。
私に男認定されたからといって、その途端になりふり構わなくなった先生を止めるのは大変だったけれど・・・私の身の安全を考えてくれたことだし、と一応感謝の気持ちも持っている私は、彼の機嫌を損ねないようにあしらうことに神経をすり減らして・・・。
無事だけれど、大きなため息を吐いてしまった。
先生には、王立病院から馬車でのお迎えが来ていた。
馬車から出てきた白衣の初老のおじさんが「お疲れでしょうから」と言って、ぷるぷる震える先生の腕をがっしと掴んで若干引きずり気味に連れて行った。
あの人に今日のいろいろを伝えたら、鉄拳制裁を加えてくれたりするのだろうか。
思わず引き止めたくなる自分を叱咤して、私は笑顔でそれを見送った。
私はというと、王都ではエルゴンを動力にした乗り合いのバスが走っているので、王城の城門前の広場までそれに乗っていくことにして。
バスはもといた世界でも利用していたから、それほど戸惑うこともなく乗り込むことが出来て、ほっと息をついた。
せっかくだからと吊り革に掴まったまま、窓の外の流れる景色を眺めながら、心地よい車の揺れに身を任せる。
道路はレンガが敷き詰められて車が通れるようになっているし、家も木やレンガで出来ているように見えた。
全体的に温かい色合いの建物が多い道沿い、道路の脇にはガードレールの代わりなのか、背の低い木が植えられていて、雰囲気の良い街、というのが全体の印象だ。
街を歩く人の様子も、やはり農村よりは急ぎ足だけれど、忙しく働いて充実しているのかも知れないと思うと、それも好ましく目に映った。
忙しすぎると、いろいろと弊害も生まれるだろうけれど、もといた場所によく似た雰囲気を漂わせる王都の空気は、全体的に私でも馴染める気がして、頬が緩む。
胸元に手をやれば、コツンと爪がコインに当たる。
指でコインの上を撫でるようにすると、その紋章がなめらかに指を押し返した。




