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翡翠の瞳には呆けた顔の私が映っていた。
それが見えるぐらい、私からもリュヒテ様の少しだけ寂しそうな表情や睫毛が震える様子まで見えていた。
それがなんだか、たまらない気分になって。
思わず、幼い頃より精悍になった肉の薄い頬を両手で包む。一瞬だけびくりとリュヒテ様の手が動いた。
この場を誰かに見られていたら、不敬だ! と叱られてしまうかもしれない。だけれど、見られていないからこそ、羞恥心とか気恥ずかしさをお返しする好機は今しかない。
私だけ恥ずかしくなったり慌てたりと、不公平だもの。
だから、お返しをするのだ。
どうだ、と挑戦的に顔を傾けるとリュヒテ様の寂しそうな瞳が驚きに塗り替えられた。
「先程からローマンローマンとしつこいわ。なぜ?」
声が少しだけ震えてしまったことには気付かれたくない。
「あぁ、嫉妬しているのでしょう」
ソフィエル様とは違って素直じゃない、可愛くない私が顔を出す。
「悪いか。二人の間には信頼関係があるからな。嫉妬もする」
そう言って、リュヒテ様は恥ずかしそうにするでもなく、真剣な顔で返事をする。
その視線の強さに一瞬、詰まってしまう。
意趣返しのつもりだったのに。急に触れていることが恥ずかしくなり、それとなく頬を挟んだままの手を下ろそうとしたのに。離すなと言われているみたいに、重ねられた。
「……マリエッテと私の間にあったものは、忘れられているし」
ゆっくりと、淡々とした口調だった。馬車の走る音に紛れてしまいそうなほど低く抑えられた声だった。だけれど、私の耳は小さな息遣いまで拾おうとしているみたいだった。
リュヒテ様の頬には、睫毛の影が落ちている。俯くと少し少年時代の面影が見えて、変な気分だ。
子供時代のリュヒテ様を重ねられているとは気付いていないのか、彼は小さく息をつくと更に頭を下げた。
「──すまなかった」
さらりと揺れた金の髪が私の手の甲をくすぐる。何が起きているのか、すぐには理解が追いつかない。王族とは頭を下げることなど、しないものだ。ましてや謝罪など、ありえない出来事で。
思わず誰かに見られる前に馬車の窓のカーテンを閉めてしまおうかと視線を巡らせるが、これを下げてしまえばそれはそれで問題だ。
「やめてっ、何を……謝られることなんてなにも」
「忘れられているんじゃなく、忘れたいと思わせてしまった。それが寂しいと弱音を吐ける立場ではないのに」
伏せられた表情は、今、どうなっているのだろう。
「私は見失っていた。マリエッテを家族から離し、孤独にした。支え合うはずだったのに、私はマリエッテに甘えていた。共に同じ道を進む戦友が足を止めていないか、傷ついていないか、何を求めているのか目を向けるべきだった」
きっと私は今、リュヒテ様の心の内に一番近い声を聴いている。
皆、生まれ落ちた境遇に見合う振る舞いと言葉を求められるものだ。
私たちの周囲にはいくつもの耳と目がある。
本心を隠して、蓋をして、目を背けて、無かったことにして。
見てみないふりを続けると、何が本心なのかすぐに見失うことを知っている。
それは私も身に覚えがあった。
あの日、私が忘れたかったのは身の内に巣食った黒だ。
黒を無視し続けた結果、澱んだ黒は暴れ出し、私の全てを汚す勢いで増幅した。
あの黒も私の一部だ。無視され傷ついて澱んだ、私の本心。
「……それを言ったら、わたくしも伝える努力が足りなかったの」
都合なんて無視して、リュヒテ様の執務室に飛び込んでしまえばよかったのだろうか。
日記ではなく、手紙をもっと書けばよかっただろうか。
王妃様の前で隠したり強がるのではなく、もっと素直になっていれば。
こうして心の声を打ち明けていたら、あってもいいのだと認めて受け入れていたら。
「きっと、それより以前から私はマリエッテを失望させていたんだろうな」
「そんなことないわ」
たらればの後悔が私の頭の中を占めていく。
リュヒテ様が信用できないわけではない。なのに私は素直になれない。
「マリエッテが、マリエッテらしくいられるように手を尽くすべきだったと後悔している」
本心をさらけ出すことが怖いと戸惑う私の手が、一度だけ強く握り込まれる。
その少しの痛みに意識を引き戻される。
まるで、”今”から目を逸らすなと言われているようだ。
「私は、ローマンのように風からも守るような、真綿で包む愛し方はできない。きっとこれからも針の筵を歩き続けることになるだろう」
でも。
リュヒテ様の顔が上がり、伏せられていた表情が見えた。
「愛しているなら手放すべきなのだろうが、情けないことに出来そうにない」
少し怒っているようにも見える表情でいて、不安が先に来ているのだと私は知っていた。
「──出来ないから、諦めてくれないか。私のそばにいてくれなければ、いやだ」
察してしまうほど感情が出ているのも珍しければ、焼かれてしまいそうなほど熱を帯びた視線に捕らえられ身じろぎ一つとれない異常事態だ。
「”いやだ”って子どもではないのだから」
「いや、私だって色々考えていたんだ。もう一度信じてほしいとか、居場所を守ると約束すると伝えるべきだが、どれも陳腐だろう。行動が伴わなければ意味がない」
だから、思ったことを伝えようと思って……そう照れ隠しのように険しい顔で言われてしまう。
それがなんとも可愛らしく、こわばっていた肩から力が抜けてしまった。
「リュヒテ様は、よくわたくしを『鳥みたいだ』とおっしゃっていたけれど、鳥ならば針のむしろも飛んでいって、置いて行ってしまうわ」
くすくすと笑ってしまった私を微妙な表情で見ていたリュヒテ様も、置いていくのか? とつられてゆるりと表情が柔らかくなっていく。
「だからマリエッテが好きなんだ。……そうだな、飛びつかれたら私の肩で休んでほしいかな」
ふと横を見れば、すぐ近くにリュヒテ様の肩がある。頭を傾ければちょうどよさそうな位置だ。
「出来るかしら」
「出来るよ」
なんだか不思議な心地だ。
色んなことがあったのに、私たちは自然とまた同じ未来の話をしている。
「なぜ笑っている?」
「いえ、リュヒテ様はいつもそうやって私なら出来るとすぐ言うのだから、期待に応えたいと背伸びをしたこともあったなと思い出していたの」
「全て忘れたわけではないのだな」
「出来事は忘れてないの」
「そうか」
リュヒテ様はきっと知らないだろう。”出来るよ”という言葉に、私がどれほど力をもらっていたか。
慣例より遅れて始まった王太子妃教育は、生活や環境──価値観まで変わる異世界に迷い込んだようだった。
教師たちは出来て当然だと口では言うけれど、できない私を望んでいるような視線や態度で、頭をおさえつけられるような閉塞感があった。
そんな中でリュヒテ様だけは私の能力を決めつけるわけでもなく、ただ認めてくださっていた。それが私の支えになっていたのだった。
そんな歪な環境だったけれど、私は嫌な記憶だとは思っていない。
「──もう一つ、謝ることがある」
くいっと引かれた手に意識が戻る。
「マリエッテが全てを忘れたいと思わせてしまったことに後悔や懺悔に偽りはない。だが、私は愚かにも喜んでしまったことがあるんだ」
私の視線の先では、指に口づけを落とされているところだった。
「魔女の秘薬で忘れたのは一番強い欲、なのだろう? 私との繋がりが一番強い欲だったと知ったとき、少なからず歓喜してしまった──マリエッテの中に誰よりも私が一番強くいたのだと知って」
すまなかった、そう口では謝罪を述べているようだが表情からは申し訳なさなどは微塵も感じない。
馬車の中の空気が揺れ、翡翠の瞳が近づいてくる。
二人の間は影になり、視界が暗くなる。
リュヒテ様の大きな手で視界を塞がれたからだ。
「な、なんですかこの手は!?」
「……その顔は可愛すぎる。隙を見せないでくれ」
はぁ、と大きく長めの溜息が耳元で落ちた。
変態! だとか言いたいことはあったが、何か言い返したら、何か尾を踏んでしまいそうな気がして動けない。
そんな緊張感が走る車内の救いの手は、ダリバン邸へ到着した知らせだった。




