忘れられた絆
空の色は変わらないのに、私の胸の中は鉛でも置かれたかのように重く沈んでいた。
先ほどの騒ぎを目にした見物人から隠れるように、普段とは違う場所につけられた馬車に乗り込んだ。
状況的にソフィエル様に加害行為を働いたと言われても仕方ない。
通常ならばそういったことが起きないように、それぞれの家から連れてきた侍女や護衛がそばにいるものだが、今回は偶然が重なって空白の時間が生まれてしまったという報告は受けた。
ダリバン家付きの侍女や護衛たちは、私を信じていると返事はあったが。あの場で釈明出来なかったのは大きな痛手だ。
彼女たちは見物人という名の野次馬から私を隠そうとしていたのだろう。それは私を思っての行動だから責めようがない。
上手くいかないものだと、一人になった馬車の中で溜息をつく。背をもたれかけてみれば、手足が重く姿勢をすぐには正せそうにない。
すぐ同乗の侍女が来るだろうけれど、それまで少しの休憩だ。
私の頭の中では、次の動きとその行動によって波及する影響について、幾通りの可能性が駆け巡っていた。しかし、目の奥では先ほどのローマンの横顔が消えなかった。
どうして、そう疑問を口の中で転がしていると、馬車の扉がコツコツと叩かれた。
その音に合わせて姿勢を正す。例え侍女だとしても、姿勢を正すのは癖だった。
馬車の扉が開き、柔らかな風が車内の空気を優しく混ぜる。
座面が乗り込んできた人物の動きと共に傾くが、いつもより深く沈むことに違和感がよぎる。
あら? と視線を扉の方に向けると、馬車に手をかけ今にも乗り込もうとしているのは外套をかぶった男だった。
それが侍女ではないと気付いた時にはもう遅かった。白い手袋をつけた手がぬっと自分の方に伸びてくる。それが噛みつく蛇のようで、条件反射のように身体が硬直する。
身体を硬くしようが蛇の歯をはじくほど硬くはならず、逃げ遅れるだけなのに。
「ひっ」
引き絞られるような悲鳴が出る寸前。季節外れの外套の中から金の髪がさらりと流れ、白い手袋が私の口を塞いだ。
「──私だ。叫ぶのはよしてくれ」
地味な外套の正体がリュヒテ様だとわかって、ぷわりと涙が浮かびそうになる。これは生理現象だ。とても怖かったのだから! ムムムッと睨むような目になったのは仕方ないことだ。
無情にもパタンと扉は閉じられたが、リュヒテ様は私の口を塞ぎ続けている。反抗的すぎて信用できないのだろうか。
人を驚かせておいて、なぜか観察するような目で見下ろしてくるリュヒテ様の手を小さく叩けば、やっと思い出したように手が離れていった。
「プハ! な、ぜこんなところにっ。しかもこんな隠れるようになんて」
「気になったから、様子を見たくてな。……来たのがローマンでなくて悪かったな」
「……別にローマンを待っていたわけではないわ」
衝撃で一瞬頭から消えていた人物の話題で、少し声が固くなる。
そういえば、こういう時に心配して声をかけてくれるのはいつもローマンだった。
リュヒテ様に気遣いの心がないわけではない。目の前にいれば元気づけようとしてくれたこともあった。だが、王太子ともなれば分単位で日常の工程が決まっているものだ。
だからリュヒテ様がこうして馬車に潜り込んでくるとは、少しも想像していなかった。
きっと以前の恋愛小説のような思考回路をしていた自分ならば、ときめいていたかもしれないが。今の私は心配が勝つ。きっと執務室で待っているであろう文官たちは大丈夫だろうかと。
トントンと出発の合図があり、それを慣れたようにリュヒテ様が返す。
「用件を手短に。先ほど、ソフィが執務室に乱入してきた。マリエッテに暴力を振るわれたと泣きながら」
「それは……」
「急なことで幾人かの文官と騎士数名が目撃してしまった。即座に対処したが、こう来るとは。まいった」
ガタン、と一度だけ大きく馬車が揺れた。そしてゆっくりと動き始める。
ソフィエル様は実力行使に出るようだ。悪い部類のシナリオが動き始めているようで頭が痛くなる。
「ごめんなさい。わたくし、ソフィエル様とケンカしてしまったわ」
「……まさか、本当に殴り合いを?」
「殴っ、そんなことするわけないわ! ……本当にしてみたらよっぽどスッキリしたのかもしれないけど」
やけになって、できもしないくせにそんな軽口をつぶやいてみた。小声のつもりだったが、しっかりと聞こえていたようで、『ふっ』と笑われてしまった。
「……冗談よ」
「わかっているよ。王子としては中立でなければならないが、私はマリエッテが原因だとは思っていない」
「ある意味、原因だと思います。魔女の資格を譲れと言われたわ」
本当はリュヒテ様も譲れと言われたのだけれど。
そこまで話してしまうと、ややこしいことになりそうなので黙っておく。
「……あぁ。ソフィエルが執務室でマリエッテは魔女だと叫んだよ」
「なっ、」
「事実無根の誹謗中傷だと緘口令を出したが、この件で少し忙しくなる。またしばらく会えなくなるから、こうして顔を見ておきたかった」




