譲る恋心
「はい? 申し訳ございません。もう一度、お聞かせください」
「ですから、譲ってくださいと言ったのです」
ソフィエル様の頬には、涙が幾筋もきらめいていた。
こんなにも清らかな涙があるのだと、妙に印象的だった。
──彼女のお願いを聞く、数時間前。
私はいつものように王宮を訪れていた。
もっぱら、書庫に籠らせてもらうためでもあった。
だけれど、前回のエスピオン公爵邸にて発覚したローマンの隠し事の件で、足が進まなかった。
きっとローマンは何事もなかった顔で変わりなく私たちと一緒に魔女について調べるのだと思うと、どんな顔をすればいいのかと答えは出なかった。
アントリューズ王の手紙では、<傲慢の魔女>が残した荷物は何者かによって持ち去られたとあった。それなのに不自然な偶然で、魔女の手記はローマンの部屋にあった。そして、ローマンは手がかりを探していることを知っているのに『何もない』と隠していた。
ローマンの様子がおかしかったのは、これらを隠していたのだろうか。
そんな悩みが頭の中をグルグルと回っていたら、外務省に所属している文官に呼び止められた。兄の補佐として紹介を受けた覚えがある青年だった。
「プエルデ国の外交官の方が、わたくしをお呼びなのですか?」
「はい。なんでも、未来の王太子妃殿下にお礼がしたいと──」
書庫まで呼びに行くところでした! と、文官は安堵した表情で助かったと何度もうなずいている。
「ですが、わたくしは身に覚えがございませんので、人違いかと……」
「そんな! 間違いございませんよ。私は確信しています。とにかく百合の間にいらしていただくことは可能ですか?」
「急におっしゃられても困ります。人違いで挨拶するのもおかしな話でしょう?」
「ではこうしましょう。実は通訳が足りませんで、お力添えをいただけたらという下心もございます。ダリバン嬢はプエルデ語も堪能で、私の記憶ではかの国の穀類について興味をもっておられた。これは良い機会だと喜び勇んで参った次第ですが、いかがでしょう」
驚くほど正直な物言いに何度か瞬き、『まぁ』とおっとりと手を添えるにとどめる。そわそわと身体を揺らす文官をちらりと見れば、きっと喜ぶに違いないと期待する表情がなんともおかしい。
数か月前までの王太子妃教育の延長線で、私は冷害に強い穀物を調べていた。その際に、彼を含む、他国の環境条件に詳しい文官たちと意見を交換したことを覚えていてくれたらしい。
婚約が白紙となって調べていたものも手つかずのままだが、彼らの中では続いている。それがなんだかむずがゆく、嬉しかった。
そういう事情なら、という理由を見つけてすっかりプエルデ国の使者に会う気になっていた。
それに外交官としての仕事に興味があるのも事実。職場見学ではないが、参加させてもらえる機会などそうそうないだろう。
「では、あくまでも通訳の補佐という立場でしたら……」
「──未来の王太子妃にお礼、と聞こえたのですけれど。私のことかもしれないですっ」
私の肩にふわりと華奢な手がかかる。
しなだれるように頬を寄せられた拍子に、黒髪がさらりと触れてくすぐったい。
「ですから、私が行った方がよいと思うの。マリエッテ様もそう思いますよね?」
「ごきげんよう、ソフィエル様。わたくしもまだ事情を全て把握しているわけではないのでなんとも……。次回、お茶会を開く機会があればぜひ」
私が呼ばれるぐらいだ。正式な外交会議では無いだろう。
だが、文官に呼び出された私がソフィエル様の出席に関して采配するとはない。
無難な回答で今回は遠慮するように伝えたが、遠回しな表現過ぎたのかソフィエル様には「マリエッテ様は意地悪です……っ」と詰られてしまった。そうそうに見限られた私の次のターゲットは文官だった。
「はは、これはグレイヴリス嬢。しかしですね」
「えっ……マリエッテ様は行くのに、なぜ私が行ってはいけないの……?」
「今回は他国の使者との会合ですので、グレイヴリス嬢がお出になっても、おもしろいことは起こりませんよ」
「その他国の使者が”未来の王太子妃に”と言っているのだから、私も出席すべきよ。マリエッテ様だけが出席して、他国に間違った情報を流すのは国際問題だわ」
こんな調子で、ソフィエル様は私と同じく通訳の補佐としてプエルデ国の使者と顔を合わせることになったのだった。




