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「──マリエッテお姉様っ」
突然の呼びかけにビクリと背を揺らし、頬を押さえていた手を後ろに隠す。
「エルシー様っ、よくここにいるとわかりましたね」
「ローマンお兄さまはいない?」
後ろ手に隠した手を握り込んでしまうのは、隠したいことがあるからだろうか。
とにかく心を落ち着け、ここには一人だとエルシー様に伝える。
先程、私の頬にキスをして逃げた彼はもういない。
いなくなってからここで事態が飲み込めず立ったまま呆けていた私がいるだけだ。
エルシー様は、一連の流れを見ていて頃合いを見計らってやってきたわけではなく、何かを訪問着のドレスの中から取り出した。
「な、なんてところから……っ」
出すのですか、という言葉は勢いがなくなり消えていく。
それは私の日記ほどの大きさの本、手帳かもしれない。表紙は何かの皮のようだが、紙は古ぼけてところどころ色が変わっている。
「こちらは」
「──魔女の手記」
エルシー様の小さな花びらのような爪がトントンと表紙の模様を示した。
ドクン、と心臓がひときわ大きく脈動した。
うまく息が吸えていないのか、息が足りないのか。
ここに答えがあるかもしれない、そう思うと緊張してしまう。
魔女の証を移すことができたら、私の役目は終わる。
本当の自由を手に入れられる。
状況や責任から逃れ、肩の荷を降ろして、そして。
自由が望みだったはずなのに、なぜ私はこんなに動揺しているんだろうか。
後ろめたさを隠すように、手帳から視線をそらす。
あぁ、私は怖いのだ。
状況や課せられた責任が無くなり、自分の意志で一歩を踏み出すのが。
今よりも状況が悪くなるのも怖いし、今以上に幸せになれる見通しも無い。
何かを得れば、何かを失うのだ。
失いたくないものから手を離せずボロボロになったことを忘れたわけではないのに、まだ私の中にあったらしい。
鳥籠の出口は開いている。そこを越えるのが怖いのだ。
しかし。
恐れは大きな可能性があるから生まれることを、私は知っている。
息をひとつつき、顔を上げる。
そこにはこちらを不安そうに見るエルシー様がいた。大丈夫です、とひとつ頷いてエルシー様の手を引いて書見台へと向かう。
エスピオン家の使用人が準備を整え終わった本の上に、魔女の手記を広げた。
古語で綴られた筆跡はかなり癖があるが、読めないことは無い。
何かの材料と数字の羅列と日記だ。
魔女は老年で時が止まったらしく、こんなことならもっと若い頃に時が止まればよかったとぼやいている。そのために薬を研究しているらしい。
「エルシー様は、なぜこれを。どこで見つけたのですか?」
「……ちょっと借りたの」
ずいぶんと間があった。
日記から視線を上げ、隣の少女を見やればフイと顔を背けられた。
これは悪いことを隠す時の仕草だ。
「まさか、勝手に持ってきたのですか!?」
「わ、わたしではないわ! ランドルフ兄さまが持ってきたんだけど、読めないからってマリエッテお姉様を探してて……! だから、はやく返さなきゃいけないから」
ね! と、エルシー様は肩を竦め、ぴょこぴょこと足踏みをした。
なんだかランドルフ王子の悪い影響を受けている気がするわ。
すぐ返却しなければならないことは確からしいので、お説教は後回しだ。
日記に向き直り、目を通していく。
頭のどこかで、私の日記も後世でこうして読まれたら恥ずかしいので棺の中に一緒に入れて欲しいと遺書を残そうと考え……そういえば、自分はいつ世を去るのか見通しが立たないのだったと気付く。
この手記を残した魔女も、どんなつもりで書き残したのだろう。
しばらく研究記録のような覚書が続き、急に白紙が挟まるようになった。
そして、私たちの探していた答えが見つかるのはすぐだった。
他国の森に隠れ住んでいた他の魔女と出会い、魔法の使い方を知ったこと。
魔女が興した国が栄えたが、権力を奪いたい者に存在を隠されたこと。
老年の魔女には適性が少なく、薬に込めるのがせいぜいだったこと。
そして、魔女の証は継承出来ることを知った、と続く。
証に触れさえすればいいのだ。しかし、証は魔女の体内にある。腹を開けば触れられるが、それでは知識を引き継げない。
──その代わり、魔女の証は子に継承される。
証は胎に留まるのだ。だから男が魔女の証に触れることはお勧めしない。
継承出来ないのだから。
一人で長い時間を生きるのは魔女といえど、狂うもの。
森に隠れていた魔女はそうして後世に知識と証を受け継いでいたと語った。
老年の魔女は孤独だった。
もう子は望めない老年の魔女は、魔女の証からは逃れられないことを悟った。
権力でも、不可能を可能にする力でもない。魔女の証は呪いだ。
日記はここで止まっている。
後はまた研究記録の覚書が続いている。
その記録に目を通しながら、頭の中が冷えていくようだった。
つまり、私が死ぬか、魔女の証を子どもに押し付けるかの二択ということ……?
「──マリエッテお姉さま、よかったね。魔女の証は引き継げるし、リュヒテお兄さまと少し何歳が離れてしまうけど子が出来れば元通りだわ」
一緒に老いて、一緒に眠るの。
小さな呟きに意識を引き戻される。
「エルシー様、ですが」
「わたしは魔女のまま、やるべきことがあるからこのままでいいの。でも、そっかぁ……。ちょっと寂しいけど、でも慣れてるから」
エルシー様は綺麗に微笑んだ。
彼女はまだ少女と言える年頃だ。時が止まれば成長することも老いることも無い。
少女が女性へと成熟することも無いのだ。
魔女の証を受け渡す選択肢が見つかった者と断たれた者。
『魔女とは呪いだ』と、老年の魔女は言ったが、その通りだと過ぎる。
王妃の鍵だと言われてきたもの、つまり魔女の証だったことがわかった今。
引き継ぐ方法がその二択だとしたら、王家に魔女の証を戻すためにリュヒテ様との婚約を進めるべきなのだろうか。
エルシー様は魔女のままやるべきことがあると自分の道を見つけている。
私は魔女として成したいことも、リュヒテ様の隣に立ち成すべきことも、見えてはいない。
どうしたらよいのだろう。
自分のことなのに、わからなかった。
エルシー様も思うことがあるらしく、私たちの間には暗い空気が流れていた。その空気を一瞬で変えてしまう御方がやって来た。
「ここにいた! あ、その手帳、ぼくが見つけたのに!」
滑り込むようにやってきたランドルフ王子の明るい声に救われる。考えてもすぐには答えが出ないから。エルシー様も同じく、安心したように息をついた。
「ランドルフ殿下。この手帳はどこから持ってきたのですか?」
手帳をパタリと閉じ、表紙と裏表紙を観察すると、ようやく何枚か切り取られた痕が残っている。
お説教が待っているとは露にも思っていないのか、ランドルフ王子は得意気な顔で答えた。
「──これ? ローマンの部屋にあったんだよ」




