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「ローマン、さっきから様子がおかしいわ。疲れているの?」
握られたままの手とは反対の手で、彼の頬をちょんと軽く突く。
あまりにもぼんやりとしているので、作り物かと思ったのだ。
そんな訳もなく、指はツンと突いたと同時に捕まえられてしまう。
「きゃっ、」
「──往生際が悪くてごめん」
離して、という言葉は口の中で溶けて消える。
「もう二人で話せる機会はこれが最後だと思うから。逃げないで」
言葉で念を押されたが、とっくに逃げる気は無くなっていた。ローマンの表情からは余裕が消えているように感じたからだ。
そうだった。忘れそうになるが、ローマンと二人で会話する機会はもう無くなるかもしれない。
「聞くわ。だから、こういうのはもう止めましょう。お互いに立場があるもの」
「……そういう真面目なところ、可愛い」
「なっ」
視線だけで周囲を確認するが、侍従や使用人たちはランドルフ殿下の方に集まっているのか皆こちらに注目していない。
誰かに見られていないかと気にしていることに気付いたのか、ローマンは立ち位置を変えて壁になるように立った。逆光になっていて少し怖いと感じたのは気にしすぎだろうか。
「……マリエッテは、心から王太子妃になることを望んでいるのか?」
呟くような小さな囁き声だった。
「それともグレイブリス公が、ソフィエルが本気で王太子妃の座を狙っているとしたら譲る程度?」
ローマンは俯くように私の表情を見下ろしていた。一つの誤魔化しも見逃さないと言われているようで、答えに詰まる。
だって、この問いに答えるには、まだピースが足りない。
足りないから、保留に出来ているだけ。
「──もしも魔女の証を移す方法がわかったら、魔女の証も王太子妃の席も全部。ソフィエルに譲る?」
ゆらゆらと揺れる深緑の瞳は影の中で暗く、底が見えない。
もしも、わかったら。それは一つの可能性、仮説という意味でしかないのに。
ローマンの言い方は含みがあるような口調で、なんだかそれが変に胸の辺りが緊張した。
もし魔女の証を──王妃の鍵を──、移すことが出来ればダリバン家も安泰だ。
全て問題なく元通りに、平穏な日々を取り戻す。
本当に?
ソフィエル様の様子を見て、はたして平穏な日々に戻ることが出来るのか疑問が残る。
「……必要であれば、もちろん」
「それはリュヒテがマリエッテがいいと望んだら譲らないってこと?」
言い切る前にかぶせられた言葉に『ずいぶん受け身だね』と言われた気がしてムッとしてしまう。
「王太子妃の座は個人の気持ちは関係ないわ。どんな立場でも己の役割を果たすべきだと思ってる。今は現状維持をするしかないの」
違うわ。本当は、私は、全てを投げ出して自由になりたいと思っている。
でも、もう一方の道で待っていたであろうリュヒテ様を想像すると、胸のどこかが痛むのだ。それは自分だけ荷物を投げ出す罪悪感からか、失望させるのではという恐れなのか。はたまた……それ以上考えるのは怖くて、いつもここで止めてしまう。
こういう部分が『受け身』だと言われたのかもしれない。
図星だったのかも。
「真面目なのもいいけど、頭が固いね」
「今は意地悪を言うための時間なの?」
「こんなに優しくしているのにマリエッテは俺を見ない。いっそ、傷つけて強引に俺の思い通りにしてしまおうと思うよ」
居心地の悪さから身じろぎすれば、逃がさないとばかりにまた一歩距離を縮められた。これ以上は下がれそうにもないのに。
「冗談」
ふっ、と空気が揺れ、ローマンが笑ったことがわかる。
とても冗談を言っているような声色には聞こえなかったが、本人が冗談と言ったら冗談なのだ。
「そんなことをしたら嫌いになるわ」
「冗談だよ。マリエッテに嫌われるのだけは怖い」
「……わたくしも、冗談よ」
おあいこね、そうやっていつもなら軽く流されると思ったのにローマンの声は沈んでいる。
二人で話せるうちに確認したかったことはこれだったのだろうか。
「……マリエッテは、幸せ? リュヒテの隣で幸せになれる?」
そう聞くローマンの表情が、あまりにも硬く強張っていて。
これが本題だと気付いた。
ローマンが私を公爵夫人にと言ってくれていたのは、逃げ道を用意してくれているのだと思っていた。そう都合よく解釈し続けていた。もしかして、と過ぎるが勘違いだった場合の保身を打ってしまう。やはり私は真面目ではなく、狡い。
「……それは。なんだか、なれないって言ってるみたいに聞こえるわ」
「あぁ、いや、ごめん。そういうつもりじゃないんだ」
小さくぼやけば、パッとローマンはいつもの表情に戻す。
それは私のために準備された表情だ。私が望むように、機嫌をとるようにつくられたもの。彼の素の表情では無い。
捕まれていた手が解放され、ぬくもりが離れていく。
それを今度は私から掴んだ。指が回らなくて、指三本分しか掴めなかったけれど、彼の注意を引くのには十分だった。
「ローマン、言っておくけど。私はリュヒテ様に関係なく、勝手に幸せになるわ。ローマンも幸せにならなきゃいけないのよ」
「……俺も?」
きょとんとした表情は、昔から変わらない。
すっかり大人びてしまった彼の中の、幼い表情を見つけてなんだか懐かしい気持ちになる。
「ええ。ローマンは私の大切なお兄ちゃんなんだから」
「お兄ちゃん、か」
「そうよ。ローマンが自分自身の望みも叶えて、そのおすそ分けだったら嬉しいけど。私の幸せばっかり気にして自分のことをおろそかにするのはダメよ。もう守られるだけの妹じゃないんだから」
私の幼馴染は、周囲のことをよく見ているからこそ自分のことを二の次にするところがある。
自分だって疲れているのに、迷子になった私を背負って兄のところまで連れ帰ってくれたことだってある。
私もあの頃とは幾分か成長したのだ。
いつまでも背負ってもらっていた頃の私ではないのだ、と胸を張って主張したのだが。
「──自分の望み、か」
ローマンはまだ私の成長が信じられないのか、呆けた表情で私を見下ろしていた。
その様子に違和感を覚える。
なんだか無理をしているような気がする。
本当にどうしちゃったの? 問いただそうとした声は、ソフィエル様の呼び出しでかき消される。
どうやら、リュヒテ様とローマンの三人で話したいことがあるらしい。
突然の第三者の声に驚いて掴んでいた手をパッと離し、本棚に向き直る。
ローマンの申し訳なさそうな声が、私の背中にかけられた。
「ごめんね、ちょっと行ってくる。すぐ戻るから……って、俺がいても変わらないか」
「そんなこと言うなら、大発見があっても教えてあげないからね」
もう成長したのだと主張したばかりなのに、随分と子どもっぽい言葉を返してしまった。
だって、ローマンがあまりにもいじけたことを言うものだから。
やってしまった……と少し身体を小さくすると、背中の向こうで小さく空気が揺れている気配を感じた。
「……それは寂しいな」
「そうでしょう?」
どうやら笑っていることを隠しているようだが、声が震えている。
照れ隠しで「もう!」と怒った表情を作り、勢いよく振り返ったが、目の前にローマンの微笑みが迫っていた。そんなに近くにいたなんて。
「マリエッテのそういうところも好きだよ」
そう言って、頬に柔らかな感触が落とされた。
「──ごめんね」




