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一度だけきつく握られた手が、するりと離れる。
瞳の中に何を映しているのか伝わるほど近くにいた距離は離れ、リュヒテ様の言葉の続きを聞く前に音楽は止んだ。
腰を落とし一礼ののち、デビュタントの令嬢たちだけが入れ替わる。
次のダンスの相手に手を差し出すリュヒテ様に背を向け、輪から外れていく。
立ち去る今この瞬間も気を抜けない。
ここで視線を下げたりだとか、少しでも寂しそうに見えるような隙を見せれば大喜びさせてしまうだろう。
背筋を伸ばし、王妃様直伝の微笑みをつくる。
新しい餌が無いとわかったのか、不躾な視線を投げていた貴族たちの視線も次の令嬢たちへと群がっていく。
婚約が白紙となった女がどんな顔で王太子とダンスを踊るのか見てやろうと賑やかだった視線も、もう興味を無くしたのか次の話題で忙しそうだ。
私も微笑みの仮面の下では大忙しなのだけれど。
それもこれもリュヒテ様のせいである。
……そんなに雰囲気たっぷりに意味深なことを言い残すことないじゃない。
気にしてくれと言われた訳ではないが、モヤモヤしてしまうではないか。
ムッとした顔が出てしまう前に、お兄様の元へ戻ろう。
私と同系色の青髪を、視線だけで見回していると。
「──あの、マリエッテ様」
「はい」
細く可憐な声に呼び止められた。どこかで聞いた覚えのある、鈴が転がるような可愛らしい声だった。
私を呼び止めたのは、同じくデビュタントのドレスを身にまとう、学園で見かけたことのある令嬢だった。
知的な黒髪に、夜空のような瞳。可憐な少女の気遣うような笑顔に、言葉を交わした日の記憶が呼び戻される。
もう少しで思い出せそうだと必要以上に令嬢の夜空の瞳を見つめていたのか、夜空の瞳にじわりと涙の膜が張ってふるふる揺れた。
泣かせてしまう、と思ったその時。私と令嬢の間に、探し人の背中が入る。
「マリエッテ、大丈夫か?」
お兄様の警戒するような声が私に降って来る。
この状況で私の方を心配するのは、お兄様が妹に過保護すぎるのだと思う。
「何も起きていないわ」
でも。と、チラリと怯える子リスのような令嬢がいることを忘れないで!と視線で促せば、お兄様はやっと令嬢に向き直った。
「失礼しました。妹に何かございましたか?」
「無作法を失礼いたしました。私はグレイヴリス公爵家長女のソフィエルです。マリエッテ様とは学園で……」
グレイヴリス、と聞いて点と点が繋がった。
「お兄様、ソフィエル様とは新入生同士討論会でお話したことがあるの」
そういば彼女とは学園に入学したばかりの交流会での催しで、同じ組だったのだ。
同じ学年で高位貴族となればまとめられがちなものだが、交流したのはあの時ぐらいだったような気がする。
何の用だかわからないが、とにかく怯えさせているので怖い顔をおさめてほしい。
お兄様は警戒を崩さぬまま、そうかと頷いた。
「……マリエッテ様、討論会ではお世話になりました。あの、少しだけあちらでお話よろしいでしょうか」
ソフィエル様はビクビクと怯えた様子でお兄様をチラチラと伺い、私には救助を願うような視線を投げている。罪悪感が芽生えるほど威圧感を与えてしまっているようだ。
彼女の名前と姿は把握していたが、学園で初めて顔を合わせたという間柄だ。
交友関係や派閥も違えば、家同士の繋がりがある訳では無い。
要件に全く身に覚えが無いが、学園ではない今だからこそ出来る話があるのだろう。
「お兄様、少しあちらでお話ししてくるわ」
舞踏会会場の一角には長椅子が置かれ、ダンスで疲れたら座って歓談するのだと教わった。まだ始まったばかりで長椅子は空いている。
お兄様はそれでも納得出来ないのか、心配を通り越して不機嫌そうな顔でしぶしぶと頷いた。
以前よりも過保護が進行している気がするわ。元からこうだったかしら?
「俺の目の届くところにいるんだよ」
「もう、心配しすぎよ」
「そ、そうかもしれないけど。でも、なぜだか目を離してはいけない気がするんだ」
お兄様は指摘されて初めて気づいた、と目を瞬いた。
不思議そうに頭を捻るお兄様には、思い当たる記憶は無さそうだった。
仕方のない人、と笑ってお兄様に背を向けた。
お兄様に私の表情の変化に気付かれてしまうかもしれないから。
『なぜだか目を離してはいけない気がする』
なぜだかわからないのは、記憶が消えたからだ。
お兄様だけでは無い。
ここにいる貴族たちからは、一度目のデビュタントでの記憶を消している。
〈勤勉の魔女〉である、妹姫のエルシー様が急ごしらえで作った薬だ。
出来事に関する記憶は操作出来るが、心の奥底にある感情は消せない。そういう薬だと聞いている。私が飲んだ魔女の秘薬とは反対の作用をするらしい。
お兄様は、一度目のデビュタントで私のことを相当心配したのだろう。
目を離すのではなかったと。
喉が勝手に縮こまる。
大丈夫。もう、あんなことは二度と起きない。そう願っている。
そのために七人目の魔女となったのだから。




