王妃の鍵は誰のもの
階段を踏み外した時のような、”落ちた”感覚だった。
咄嗟に身を固くして、意識を強引に引き戻される。
まだ眠っていたかったのに、という苛立ちと
先ほどまで何の夢を見ていたのか記憶が抜けていく不安感。
遅れて自分の心臓がド、ド、ドと激しく波打ち、苦しさを感じた。
そう、息苦しいと感じる。もがくように新しい空気を吸おうと身体が動いている。
音が戻り、色が戻り、温度が戻る。
手が熱い。そちらに視線を流せば、手が動かないのはリュヒテ殿下が握っているからだということを理解した。
その手を解こうとすると、壊れそうなほど強く握り返された。
そして、リュヒテ殿下が私の上で身体を固める。
「……マリエッテ?」
「はい」
返事と同時に、重みが消え金の糸が私に降り注ぐ。
「マリエッテ」
「はい」
怖いぐらい真剣な顔をしたリュヒテ殿下が、まじまじとこちらを凝視している。
瞳の中にあるのは不安と心配と安堵と、消え切らない絶望か。折れそうなほど張り詰めた様子に心配になって、温めてあげたいのに腕が動かない。
それもそうだ、解こうとしたことを咎めるような強さで握られたままだからだ。
「死んだ、かと思った」
「私もそう思いました」
でも、大丈夫みたいですね。安心させようと返事をしたのに、むしろもっと怖い顔で見下ろされた。
目を細め眉を寄せるリュヒテ様は一見、怒りを堪えているようにも見える。だけど、私はその表情が彼の我慢している時の顔だと知っている。
昔のリュヒテ様の顔と重なって、なんだかだんだん身体の強張りが抜けてきた。
触れている彼の温度に緊張が抜けたのか、なんだかおかしくて場違いにも笑ってしまう。
それを誤魔化すように顔を背ければ、ポタリと何かが頬に落ちた。
それが何か確認する前に、強張っていた力が抜けたリュヒテ殿下が肩口に落ちてくる。
遠慮のない重さに今度こそ息が止まりそうなのですが。
この緩んだ空気もすぐに霧散する。
頭上で輝いていたはずのシャンデリアが、地に落ちたからだ。
すぐに臨戦態勢をとったリュヒテ殿下にかばわれ、次に見た光景は壊れた会場とシャンデリアの残骸だ。落ちた場所には、もうもうと煙が立っている。
周囲の貴族たちはその衝撃が聞こえていないかのように、ぼんやりとしている。その足先から目元まで黒い蔦が這い上がっていた。異様な光景にぞっとする。
昔、図鑑で見た鳥の餌場のように見えた。獲物を串刺しにして保存する、あれに。
その向こうに人影が見えた。
舞っていた煙の中から出てきたのは、ミュリア王女と小さな人影だった。
「──”傲慢の魔女”、ね。久々に聞いたわ。いやな呼び方」
ミュリア王女の、背を爪先で撫で上げるような声色だ。
傲慢の魔女とはなんだろうか。でも、彼女が魔女と呼ばれていることには違和感は無い。
今から思えば、急に足が動かなくなったり不思議な事象はいくつもあった。そして、この黒い蔦を操るのも。リュヒテ様ごと貫いた剣に巻き付いていた黒い蔦が、王女を取り巻く黒い炎のように揺れ動いている。
「……あら、お前だったの。随分化けたわね」
「あなたもね。王女を騙るのは勝手だけど、これはルール違反よ」
「お前も同じじゃない。怠惰の魔女──今はエルシー、と呼ばせているんだったかしら?」
息を飲んだのは、どちらだったか。
エルシー様が、魔女。
あの小さく、あたたかな少女が。
シャンデリアの残骸の上に立つエルシー様の姿は、私たちが知る姿と変わらない。
そんなはずはない。だって、私たちはエルシー様が幼い頃からの姿を知っている。成長する様子を見守ってきたのだから。王妃様の第三子で、待望の姫君で、リュヒテ様とランドルフ王子の妹で。
いったい、いつから魔女だったのか。
あるいは最初から魔女だったのか。
私たちが知っているエルシー様は、この記憶は偽りだったのか。
動揺する私たちをよそに、エルシー様は大人びた口調でミュリア王女と対峙している。
「魔女の理はどうなったの?私の国を引っ搔き回すのは勘弁してほしいわ」
「あら、前座としてはおもしろかったでしょう?」
不敵な笑い声があたりに響く。前座でこんな惨劇を起こしたのか。
呆然としている私の肩に、リュヒテ様の上着がかけられた。
驚き顔を上げるも、静かにしているようにと彼の指が示した。そのまま姿勢を低くし、魔女たちの元へ向かっていく。後に続こうとするが、手で制されてしまった。だって、リュヒテ様が何をしに行くのか、黙ってみているだなんて出来るわけがないのに。
嫌な想像を誤魔化すように、視線を目的地まで投げればこちらに背を向けているミュリア王女が見えた。まだ私たちが動けていることは気づかれていない。
「──混乱を招くのはいただけないわ。こういう行いが魔女の風当たりを強くするのよ」
「どうせ愚かな人間には何も出来やしないわ」
それに飽きちゃったのよね。何百年も森に籠もるの、とミュリア王女は黒い蔦を操り椅子にすると優雅に腰掛けた。
「そういえばお前たちが国を作ったって話を思い出して、私も暇つぶしにやってみたんだけど全然ダメね。アントリューズ王妃が魔女だって処刑させようとしたのに、幽閉しちゃうんだもの。指示通りに動かないなんて使えない」
「さすが傲慢の魔女。あんたのやり方じゃ何回やってもだめだと思うけどね」
「私が劣ってると言いたいの?」
「使い方を間違えていると言っているの。傲慢の、いえ、”謙虚の魔女”と呼ばれていた時代のあなたなら、この意味がわかったはず」
「その名前はもっと嫌い。私を侮り見下してきた奴らが私を御すためにつけた呼び名に価値なんて無い。どちらが上か愚か者にもわかるように見せてあげないと奪われるばかりよ。先代はそんなことも教えてなかったの?」
エルシー様は黙り込み、視線を下げた。
ミュリア王女が苦々しく口にした魔女の苦悩に、思うことがあったのかもしれない。
私はあった。決して許せないと怒りがあるのに、なぜか”傲慢の魔女”と呼ばれる彼女の言葉に共感してしまっている自分に気づき動揺する。
王太子妃教育の中で、矛盾を感じていた記憶が蘇る。
険しい顔をした教師は失態を決して許さないが、成功も喜ばない。つい得意顔をしてしまいそうになる私に言うのは『謙虚であれ。決して驕ることなかれ』だった。
徐々に成功も上手く出来たと喜ぶことも無くなった。あるのは教師の顔色を常に伺い、何も言われなければ今日も無事だったという安堵だけだった。
あの教育は王室に迎えるため、私のためにと施された。与えられた貴重な教えだ。でも、それは聞こえのよい建前で、本当は周囲にとって教師にとって、扱いやすく──奪いやすくするための教育だったのではと。
奪われたとは決して思っていない。思っていないはずなのに。
忘れていた感覚が胸に広がる。
あることすら忘れていた箱の蓋から黒いものが漏れ出し、存在を主張する。
じわじわと侵食されてしまう。以前までとても身近にあった黒がどんどんと思考を染めていく。やめて。私はそんなことを思っていない。もう終わったことなのだから。抗うように頭をゆるりと振れば、視界にボロボロに傷ついた靴が入った。
この靴はローマンの贈り物の、おまじないのかかった靴だ。
デビュタントが上手くいくように。勇気が出るように。
その靴はいつの間にかボロボロに汚れ傷ついている。ヒールも折れてしまって、このままでは歩けそうにない。
瞼を閉じると、倒れるローマンを見ることしか出来ない光景が何度も繰り返し再生される。
ローマンの元に駆けつけられないのは、アントリューズ国王に捕らえられたからか。ヒールが折れてしまったからか。
かかとをトントンと二回蹴る。
誰よりも優しく私の心に触れる幼馴染を思い描きながら。
そうよ。私の足は失くしたものを探すためのものじゃない。
奪われたなら取り返して、もっともっと遠くへ飛んでやる。
折れたヒールを千切って、立ち上がる。




