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【500万PV】織田勘十郎異伝〜自重しなかった結果、別家を立てて生き残ります。〜  作者: 八凪 柳一
第三章 三河の現状と東進準備

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第六話 他国の情勢

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

 ここでは尾張三河周辺の情勢を見ていこう。外交については先に触れたので、それは除く。


 まずは甲斐国からだ。織田弾正忠家による三河統治が始まったせいで、信虎追放が一年早まったが、諏訪平定は史実通り天文十一年に始まった。これは信虎が駿河に行かなかったせいである。信虎が死んだと勘違いした今川義元は弔い合戦と称して甲斐に攻め入った。


 甲斐国に攻め行ったとして金山があるくらいしか旨味が無い。それどころか日本住血吸虫症にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう、通称泥かぶれなる感染症のある土地だ。駿河にもあるのに甲斐も抱えたら今川家には旨味もあったものではない。当時は顕微鏡もない為、原因不明の死病だった。そんな土地、解決策もない状態では攻めたくなかったはずだ。


 天文十年初めにようやく今川と一時的な和睦を結び、信濃へ目を向けられるようになると、瀬沢の戦い、桑原城の戦い、宮川の戦いを経て、諏訪を掌握した。翌天文十二年には、信濃国長窪城の大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。そして、今年天文十三年には今川と後北条氏の戦いに乱入する気満々のようだ。


 続いて、後北条氏を見てみよう。後北条氏と今川氏は「河東」を巡って戦争状態にあり、相模の支配権を巡って扇谷上杉家と戦争状態にあった。ただし、今川氏とは主従から独立したのには今川に代替わりの領地安堵がなされなかったなどとの理由が発端とされている。また、一度は婚姻したものの、当時後北条氏にとって敵対関係にあった武田と今川が同盟を結んだ事で、後北条氏との同盟は切られたものだと勘違いした後北条氏が今川方を攻めたのもこじれた原因の一つであろう。


 武田との敵対関係は、土地を巡っての戦乱で、取ったり取られたり、開戦したり和睦したりの繰り返しだった。戦国時代に全国でよく見かける光景だったと言えよう。


 一方、扇谷上杉家との戦乱は、支配下にあった大森氏の拠点小田原城を奪ってから始まった戦乱の為、後北条氏が小田原城を手放すか扇谷上杉家が相模を諦めるかでしか解決しない戦いだった。つまり、今のところ、終わりの見えないものでしかない。


 しかし、天文九年武田信虎が追放され、後北条氏でも氏綱が天文十年に亡くなると、氏康は方向転換を考え出す。武田晴信は信濃を取りたい、北条氏康は扇谷上杉家を関東から追い出したい、と各々が考えた。氏康としては、義元と河東で決着をつけて、弾みを持って扇谷上杉に当たりたいと考え、第二次河東一乱が始まろうとしていた。


 ところ変わって美濃では、天文九年に織田弾正忠家が伊勢守家を滅ぼし、大和守家を乗っ取ったちょうどその頃、斉藤山城守が土岐美濃守の弟七郎を毒殺した。これを契機に山城守と美濃守が対立する。翌天文十年、婚姻関係(予定)の織田信秀の協力の下、美濃守の立て籠る大桑城を攻め落とし、美濃守親子を追放した。これにより、斉藤山城守は美濃の国守におさまった。


 この戦で、織田家は大垣城を得た。史実とはだいぶ違う流れだが、そうなってしまった。面白いのは虜囚となった美濃守親子が、史実通り尾張に追放された事だ。おそらく、大垣城を譲るに当たっての何らかの取引がなされたのであろう。


 しかし史実と違うのは、織田家と斉藤家が既に同盟関係にある事だ。織田家としては祖先の地である越前への足掛かりを得た同盟で、婚姻がまだ成立していないからと同盟破りも出来ない。その為、美濃守親子の扱いに困った信秀は三河に美濃守らを送ってきた。


 坊丸とて、美濃守親子は、扱いに困る存在だ。仕方なく研修という名の地獄に無期限で放り込む事にした。芸術家頼芸となんちゃって武芸者の頼次は二年後にはムキムキマッチョな武将に生まれ変わる。


 土岐頼芸、のちの富城とき治部大輔 依明よりあきは当時を振り返りこう語ったと言う。「殿は美味い食事と適度な運動は、心身を鍛えるのにちょうど良いと仰られて、あの地獄に放り込まれたが、空腹という調味料の効き過ぎた食事と体重が四分の一になるほどの運動であった。もう戻りたくない。」と。横で息子の依胤よりつぐも激しく同意していたという。

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