第14話「リストカット事件」
なんとか血を見ずに済んだ仄香の事件だったけれど、思わぬ大事件へと糸を紡いでしまった。
翌朝。太陽は充分に登りきった登校時間。しかし、今日は土曜日で学校に行く必要はない。僕はまったりとご飯を食べ終え、洗濯物を干して紅茶でも飲んでまったりとしていたところだった。
鳴り響く携帯の音。僕が出るや否や、泣きに泣いて乱れた息を整えることなく、仄香は言った……。
『ゆずりんがリスカしちゃった……!』
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リスカ……リストカットしたというだけなら、世の病んでる人たちにいちいち大騒ぎしないといけなくなってしまう。それは少し、冷たい言い方になってしまうけれども。でも、それほどに病んでる人は多いのだという。
しかし、部屋に入り仄香がへたり込む浴室の奥では違った。自分の命を危険にさらすという意味として……。体温くらいのぬるま湯が張られた浴槽に、浸された左腕。水面をふわふわと漂う赤い煙。近くには大量の睡眠薬。
それは完全に自殺しようとした痕であった。
全力で走って額から汗を垂らしつつも、僕は拭うことなく、譲羽の肩を揺らす。
「ゆず! ゆず……っ!」
「やばいよやばいよ……どうしようっ!」
「とにかくまずは、浴槽から出して!」
「わ、わかった……!」
パニックになる仄香へ指示し、僕らは彼女を浴室から出して脱衣スペースへ。この様子なら、何も連絡できていないのだろう。そのくらい仄香はただ震えるだけだった。
「タオルと……そして寮母さんに説明して通報と包帯をっ!」
「ほほ、包帯と! ……んんん!」
「まずタオル!」
「ははは、はいっ!」
「じゃあ、寮母さんのとこへ行って、通報と包帯をお願い!」
「わかった……っ!」
やっとスムーズに動き出した彼女を尻目に、僕は横たわる彼女の傷口を見る。
左の手首に大きく一線。血ごと水滴を拭う。
だけど、これならだいぶ浅いっ!
肉は抉れるほどじゃなく、表皮を裂いたに過ぎないその傷痕周りを拭いて、出来るだけ乾燥するようにする。溢れ出るほどじゃないから、自然乾燥でもなんとかなるかもしれない。
「ほほほ、包帯っ! 持ってきたよっ! 寮母さんが今救急車呼んでくれたって!」
「ありがと! とりあえず応急処置だ! ユズの腕を軽く浮かせて!」
「わ、わかった!」
そうして貰った包帯で、ぐるぐると彼女の傷口を覆っていく。最後に結んで、ほどけないことを確認すると、とりあえずひと段落。
「あとの治療は……救急車に任せよう……。血は大したこと無いから」
「う、うん……」
真っ青な顔なのに、静かに眠るように横たわる譲羽を見ながら、僕は仄香をなだめ続けた。
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どれくらい時間が経ったことだろう。
外はすでに真っ暗で、大きな病院と言えども人がまばらになってきたころ。ホールで半日も待っていた僕らは、同室のルームメイトで救急車への通報者ということもあって、特別に受付の人から説明を受けることが出来た。命に別状は無く、傷痕も縫う必要は無い程度らしい。
しかし、今まで祈るようにしていた僕は一度安堵するも、譲羽へどう顔向けをすれば良いのか分からなかった。仄香もまた、指の痕が残るほど強く握っていた両手を、所在なさげに震わせている。
「どうしよう……」
僕が言うと、隣に座っていた仄香が頭を抱える。だが、久々に聞いた彼女の声だった。今までは、どんなに揺らせどさすれど、一切声が出ないほどに弱っていたのだ。
「あたしのせいだ……」
「なんで……」
問いかける僕。仄香はただリノリウムの床を見つめたまま、不安を孕ませた溜め息をつく。
「昨日のコトさ……全部打ち明けちゃったの……ゆずりんに」
「どうしてっ!」
彼女の肩を掴み揺らす。でも、ガクガクと揺れる頭は、そんなことを気にする素振りも見せず払いすらしない。よほど余裕がないのか……。
「だって、さ……。たまたまなんだけど、あたしの枕にゆーちゃんの髪の毛あるの見つけてさ……。それで二人きりで何したのって怖い顔で迫られて……。仕方ないじゃん……あたしはゆずりんもゆーちゃんも好きなんだからさ……。二人とも手に入れたいと思っちゃうじゃん……。二人ともと付き合えれば、つまり三人ハッピーでさ……。あそこまで傷つくなんて思わなかったよ……」
「それは……仄香のせいじゃない。僕のせいだ……」
仄香の素直な気持ちを聞いて自分の責任を再確認した僕は、仄香と同じように頭を抱えて震えた吐息を吐き出す。
「仄香だから言うけどさ……。僕はユズの気持ちに気付いていながら、誤魔化したんだ」
「うん……。なんとなく分かってた……」
「それが結果、ユズを深く傷付けた」
「それは、あるかもね……」
再び溜め息をつく。だって、自殺しようとするだなんて思わなかった。恋心が、命を捨てさせるほどに傷つくことがあるだなんて。物語の中だけの話ではない。現実として、あり得ることなんだ。
二人でまた暗い表情をして落ち込む。
「ちょっとひどい聞き方するけど……いい?」
「……なに?」
泣きはらして尚も涙ぐむ赤い目で、僕を見据える彼女。何が、問われるのだろうか。
「あたしにしたのと同じように、ゆずりんの気持ちをないがしろにしたから、本人がああやって落ち込んだ」
「……そうだよ」
「ゆーちゃんは、ゆずりんの、好きって気持ちに。気付いてた。それを無視したからこの結果……」
「……そう……っ。だよ……」
自分でも言ったのに、他人に言われるのとじゃあ大きな違いだ。核心を突かれて、僕までしゃくりあげそうになりながら答える。すると、仄香は力なく手を振って違うと訴える。
「ごめんね、傷付けたよね……。これはさ、あたしがちょっとでも罪悪感から逃れたかったから確認しただけ。ゆーちゃんも悪いんだって思うと心強くてさ……。あたし、サイテーだよね。だって、ゆーちゃんの気持ち……わかるんだよ。蘭たんも、さっきーも可愛いしさ……。あたしだって昔、友だちに酷いコトしちゃったし。だから、自分が後悔したからって、ゆーちゃんを止めようとは思わないし。でも、どうしてあたし"たち"はこう、上手くいかないかなぁ……」
「悪いことを……していたからね……」
そう。なんと言ったって、ここは日本。夫婦だろうが婦婦《ふ~ふ》だろうが、カップルは一対。それを、みんなの恋心を避けるように誤魔化しながら、みんなの気持ちが僕に強く向くようにしていたのだから、百合神様の天罰なのかもしれない。
僕の悔いるような声を聴いてなのか、仄香はふぅっと溜め息をついて、深く悩むようにしてから、やがて口を開く。
「実はね、あたしのお姉ちゃんも……同じ様なことを写真部でやっちゃったらしいんだよね。上手くいかなくて結果、何股にもなっちゃったらしくて、やっぱりその時の担任も、顧問も渋谷先生で。あの人は外部出身の人や問題児の多いクラスを受け持つ事が多いみたいだから、奇跡的だけど偶然なんだけど……」
「それは……どうなったの……?」
「あたしのお姉ちゃんが、渋谷先生に惚れちゃって渋谷先生もちょっと本気になっちゃったらしくて……。それじゃあ集まったみんなはどうするのって話だよね。みんな次々と辞めちゃって、渋谷先生にアタックしても結局断られて……。んで、睡眠薬で自殺未遂。でも命に別状はなくて。学校にも伝えなかったから、今は元気に看護士やってるよ。でも、先生は今回の事件、辛いだろうなぁ……」
「同じような事件が二度も続いたなら……ね」
まさか、思わぬところで先生の名前が出てきたものだ。写真部に関わっていて、どうにも懐かしむ表情をしていたのは、仄香のお姉ちゃんを想ってのことだったのだろうか。
「先生にも……謝らないとね。出来ればゆずりんも元気になって……たとえ、あたしたちから離れる選択をすることになっても……」
言って一つ、息をのむ彼女。涙を無理に押しとどめるようにして、僕を見る。
「でもあたしは……どれも諦めたくないよ……。あたしもゆーちゃんに無理やり迫って失敗しちゃったけど、やっぱり最後にみんなで楽しく笑っていたいよ……」
「そうだよね……」
仄香が苦しそうに漏らす。僕と同じ考えだ。みんなと仲良くしていたいし、笑っていたい。
そんなところへ、カツカツと靴の音を鳴らして歩いてくる女性。譲羽によく似たその姿は当然、見覚えがあった。
「理事長……」
「アナタたちが百合葉ちゃんと仄香ちゃんね。話は聞いているわ」
頷く僕ら。立ち上がろうとすると、それを手で制され、彼女は向かいの椅子に腰を下ろす。
理事長は、譲羽に似た垂れ目でさらりとしたセミショートヘアー。しかし、譲羽のような雰囲気は一切まとわず、とても厳しい表情をしていた。きっと、これから叱責されることなのだろう。心の中で、ぐっと身構え、そして受け入れる姿勢でいた。涙を堪えるので必死だ。
「価値観のズレで……ケンカしたと訊いたわ。でも、ケンカの内容はゆずちゃんが言いたくないって言うのよ。だから、アナタたちにも訊かない。とりあえず、今はそんなに固くならないで、でも、真面目に訊いてちょうだい」
安心させるためなのか、予想外にも微笑みながら言われてしまうと、僕らは二人顔を見合わせ、がっちがちに張っていた肩を下ろした。
「実はね、アナタたちがゆずちゃんと友だちになってくれてね……。すごい、会話が増えたのよ……。平日は寮暮らしなのに、何度も連絡してくれて……。以前は何を訊いても答えてくれなかったのに……。だから、頭ごなしにアナタたちを叱ろうとは思いません…………。中学を卒業する頃にもね……。あの子、なんども死にたい死にたいって言ってたの。高校になんて行きたくない。自分に自信が無くて怖いって。でも、いざ高校に入ってみたらびっくり。きらきらした目で、自由になりたいから寮に入らせてって頼まれたんですもの。あの子が自分から意見を言うだなんて初めてなのよ。本当に、人生で初めてなんじゃないかってくらいでね……。アナタたちと友だちになって、変わりたいって思ったんでしょうね」
そこで大きく一息。彼女は目を伏せて、ゆっくりと記憶の中の譲羽を慈しむように見えた。
しかし、そんな優しそうな表情もつかの間。少しだけ厳しい表情に変わる。
「今回の事件が、例えアナタたちのせいだとしても、不問にします。あの子がそう望んでいるから……。生きる価値の無い人生が、アナタたちのお陰で変わったと言ってるんですから。もちろん、これで娘を失う形だったら、絶対に許さなかったでしょうけどね」
強い瞳を僕ら二人に向けて、彼女はまた続ける。
「せっかく変わってきたんですもの。彼女がアナタたちと一緒にいたいと言うなら引き離しはしません。本人も、心配して欲しかっただけと言ってるし。でも、二度目はないわよ?」
そこでふっと息を吐き、理事長は病院の入り口を見る。その先ではナース服の看護師さんと、そして車椅子の少女の姿が。
「じゃあ頼んだわね」
そう言って彼女は、自動ドアから出てきた、看護師さんが押す車椅子に乗った譲羽のもとへ。いくらか話し、そして彼女を撫でて抱きしめた理事長は、僕らに厳しい目つきと共に手を振り、そしてドアの向こうへと歩き消えた。後は頼む――ということなのだろう。
※ ※ ※
看護師さんへお願いして、自分の手で僕らのもとへ来た譲羽。車椅子に乗った彼女は、顔色の割にすっきりとした表情だった。
「ごめんね……ユズ……」
「あたしもごめん……ゆずりんの気持ち考えてなかった」
手を握って謝罪する僕ら。しかし、責任を痛感し懺悔する僕らとは打って変わって、穏やかに微笑む譲羽。
「仄香ちゃんが、百合葉ちゃんを手に入れるために……部屋へ呼び込んだって聞いたときは、ショックだった……。それでアタシをあとで引き入れるだなんて……心臓が針山地獄に投げ込まれた気分……」
「ご、ごめんよう……」
「百合葉ちゃんも……みんなに好かれてるから……アタシには勝ち目ないからもう、生きてるの諦めようと思った」
「う……ごめんね」
「何がなんだか分からなくなって。もういいやって、アタシの気持ちは報われないし、めんどくさいから死んじゃおうって、睡眠薬……いっぱい飲んだのに……全然、致死量じゃ無かったらしいの……。吐いちゃったから、それで薄まったみたいで……。リストカットも痛くて……あまり深く出来なかったし……。浅すぎて、痕もキレイに無くなるかもだって……。すごく馬鹿馬鹿しくて……。でもね、神様はまだ生きろって言ってるみたいなの……」
そう言って、彼女は僕らの手を強く握り返す。
「苦しい中で……でも、百合葉ちゃんの顔思い浮かべたら、すぐにでも抱きつきたくて……。仄香ちゃんにも抱きつきたくて……。本気で死にたかったワケじゃないんだなぁって。心配して欲しくて、二人の気持ちを少しでもアタシに向けたかっただけなんだなぁって。二人を思い出すだけで、胸がきゅうって、暖かくなる。苦しいくらい傷付いたはずなのに、早く会いたくなっちゃった……」
「ユズ……」
「ゆずりん……っ」
「二人とも好き……。二人が居るから、生きて……生きて……、生きたいっ」
手を離し、大きく腕を広げる彼女。混ざり合いこぼれる嗚咽。
五月の夜の静かな空の下で、三人の泣き声が風に流れていった。




