吐血の絵文字を使いたい状況
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ニルスさんがルマーニュ王国からマルフィーザへ疎開してきたのは、帝都の記念祭の真っ只中だったとか。
夏を過ごすのに向かない厚手のシャツも、ルマーニュ王国の夏であれば問題なく過ごせるもので、宿からあまり出ない想定で持って来たのだそうな。
彼がマルフィーザに疎開してきたのは、件の病が原因にある。
彼の本来住まうユレンシェーナ伯爵領は、ルマーニュ王国から見た辺境。帝国との国境近くに位置する。
ルマーニュ王国王都、あるいは王都周辺より病の状況はかなりいい。
感染の大規模発生もなければ、感染爆発も起こっていなかったのだ。
恐らくルマーニュ王国で一番流行り病から遠ざけられている領地であった。
だからこそというのだろうか。
王族だけにとどまらず、高位の貴族、豪商、そう言った者達が病を避けるために、ユレンシェーナ伯爵領へと押しかけた。
お蔭で感染が押さえられていたユレンシェーナ伯爵領も、件の病に飲み込まれたとか。
それで伯爵家のたった一人の跡継ぎを、もっと安全な外国へと疎開させた……というのは表向き。
件の病にこれといった有効な対策を打てない王家の権威はかなり失墜している。そこに革命派と売国派が力をつけ始め、ルマーニュ王国は今内戦一歩手前まで行っているそうだ。
で、ユレンシェーナ伯爵家というのは穏健中立良識派とやらで、王家にはモノ言う伯爵家であり、革命派の平民ともきちんと話し合いのテーブルについて交渉もする。
どこの派閥からしても信用できる家だったわけだ。
それも先々代のご当主が急死してから、ちょっと風向きが変わったらしい。
先々代のご当主の急死自体は本当に事故だったそうだけど、その時当主になったのが僅か十に満たない先代だった。
そして先代は非常の人ではなかった。
ユレンシェーナ伯爵は彼の家を疎ましく思う大貴族に、酷く食い荒らされたそうな。とはいえ伯爵家で留まっているし、家自体は存続してるんだから、周りがかなり頑張ったのと先代が後に巻き返したんだろう。
当代も頑張るには頑張っていたけれど、ここ数年のルマーニュ王国は飢饉が続いていた。そこに件の流行り病で、現状某豪商の娘に好き勝手されるような状態になってしまっている。
そんな弱った伯爵家だけど、人望はあるわけだ。
なので王家としてはその人望を取り込みたい、売国派の貴族連中もそう。
ユレンシェーナ伯爵家のご当主もそんな両派閥の思惑は理解している。そして両方に与しない選択をした場合、誰が狙われるのかも。
「嫡男の私を人質に、どちらの派閥も自分達に与せよと迫ってくるのは見えています」
「それを見越した革命派の有力者が、貴方を疎開という形で逃がした……と?」
「表向きの裏事情は」
「ややこしいな……」
ぐりぐりと眉間を揉もうとして、レグルスくんからストップが入る。
お箏の練習用の爪をつけっぱなしだったのだ。代わりにレグルスくんが眉間をもみもみしてくれた。気持ちいい。
いや、そうじゃなく。
ニルスさんの話の続きだ。
結局のところ、革命派も一枚岩ではなく。
やはり革命派も人望と旗印にユレンシェーナ伯爵家を求めたわけだ。
けれどユレンシェーナ伯爵家を利用するのを、革命派の中でも穏健派のリーダー格の人が拒んだ。彼はユレンシェーナ伯爵家に恩義があるし、貴族を旗印にした革命は革命ではないとの主張を持つ。
一方で、過激派の方は疎開するはずのニルスさんを誘拐して、自分達の側に協力させるという計画を立てていたそうな。
そこで穏健派のリーダーが、知り合いの麒凰帝国の芸術家に頼み込んで、その人の名前でこの宿を手配して逃がしてくれたという。
「その芸術家というのは……?」
「涙香さんと仰る方です」
「わぁ……」
知人じゃないですか、やだぁ!
これ、巻き込まれるやつやん!? 絶対巻き込まれるやつやん!?
顔面には全く出てないだろうけれど、内心では吐血している。そんな私の心情を察してか、ひよこちゃんの手が眉間から肩に下がってそこを揉んでくれて。
「あにうえ、こってるね?」
「え? レグルスくん、こってるとか解るんだ!? 凄いね!?」
「おれ、ラーラせんせいにマッサージならってるんだ。あにうえがつかれたときにやってあげるね!」
「ありがとう!」
なんていい子なんだ、レグルスくん! 私のひよこちゃんは世界一の弟! 異論は認め……なければ煩いのがいる。奏くんとか統理殿下とか。
若干の現実逃避でちょっと気分が浮上してきた。
なのでニルスさんをみれば、こちらはこちらでぎっと歯を食いしばってる感じ。
それで、この人の悔しさってなんに繋がるんだ。
咳払いして尋ねれば、ニルスさんは引き結んだ唇を解く。
「私が疎開するための資金は、父が楼蘭の教皇に献上しようと用立てたものです」
「そういえばそういうようなことを仰ってましたね?」
「はい。とある筋から、この病。ただの病でなく、根底に呪いが含まれているという話を聞いたのです。なので楼蘭教皇国の教皇猊下に幾許か御寄進する代わりに、領民に祝福をお与え願えないかと……」
けれどそうならなかったのは、ユレンシェーナ伯爵家の平民の代表でもある革命穏健派のリーダーからの訴えがあったから。
どこの派閥もニルスさんを狙っている。彼を人質にされてしまえば、例えば革命過激派ならば過激な内戦に突入するだろうし、王家ならばもっと苛政が敷かれるかも知れず、売国派であればルマーニュの地そのものが他国に蹂躙されるかもしれない。
それはユレンシェーナ伯爵家だけでなく、ルマーニュ王国全土の問題なのだ。今は耐えて、ニルスさんを外に出してくれ。そういう話になったのだそうな。
また、ユレンシェーナ伯爵家は領民との距離が近い。
彼等を普段から守って来た家が危機に晒されているのを、領民も座して見ているわけにいかなかった。そういうことなんだろう。
けれど領民と距離が近かったために、事情があれど自分一人逃がされたニルスさんは怒りを自分に溜め込むことになった。
家に、いや、自分にもっと知恵や力があれば、ユレンシェーナ伯爵領を逃げずに済んだ。それだけじゃなく、今も苦しむ民達を何とかしてやれるのに……と。
そんな鬱屈してたところに、私、ルマーニュ王国では悪名高き菊乃井侯爵家当主鳳蝶がやって来て。
挙句に帝国は病を克服したんで夏休み~ひゃっほう! という状態で現れたもんだから、一瞬ムカッとしたそうな。
「一瞬?」
「あー……はい、反射的に? でも侮られたのも不名誉な噂が立ったのも、私自身の不徳の致すところだと。それに貴方様と同じことは、私には出来そうもないので」
そっとニルスさんの目が泳ぐ。
一瞬って言ったけど、違うな。まあ、それはいい。
私もクソ忙しい時にシオン殿下が「大好きな兄上と旅行なんだ~」とか連絡して来たら、「しばいたろか?」くらいには思うだろうし。
この間マウント取ったけど、それはそれだ。
事情は分かった。
彼の事情を鑑みれば、睨むくらいは仕方ない。
それだけでなく、現状麒凰帝国の貴族とのトラブルはマズい。更にその家が菊乃井家というのがもう致命的。そりゃ怯えもするわ。オマケに私は睨まれたせいで塩対応だしな。
この人にしてみたら、ハードラックと盆踊りだわ。
にしても、会話の中で気になることを言っていた。
それはルマーニュ王国の情報部にさえ伝えられていない情報の一つにして、最重要事項で。
力がない家にも拘わらず、それを知っているのが明らかに不自然なのだ。
そこは突かねば。
「ところで、この病。呪いが関わっているという情報を得たそうですが、一体どこから……?」
「それは……」
ニルスさんは躊躇うように、口を閉ざす。
密偵か、それに類するものか。
情報源を簡単に明かすのは上に立つ者としては良くない。けれど目の前の人間の信用を得るために、手の内を明かした方がいい場合もある。
彼はどちらを選ぶだろう?
待っていると、ニルスさんがはっとした顔つきでこちらを見た。
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