その352 太っちょなゾンビ
異変が起こったのは、表参道を通り過ぎて、少ししたころ。
改良工事中のまま放置された、渋谷駅ホームの外壁が見えてきたあたりでした。
「……”名無し”さん」
「ええ」
先ほどからずっと、――”ゾンビ”の気配を感じられます。
”気配”といっても第六感的なものではなく、連中の低いうなり声がどこか、予測のつかない所から聞こえてくる感じ。
「俺これ、知ってる。地下から聞こえてくる連中の声だ。音が反響するから、こんな風にあちこちから聞こえてくる」
そういえば、この下には東京メトロ副都心線が通っていたはずですね。
「たぶん”死霊術師”の影響で活性化した”ゾンビ”が騒いでいるのでしょう」
「どうする? もうここいらは、《パレード》の効果範囲外だ」
「こちらの位置を気付かれなければいいんです。静かに、声を潜めて進みましょう」
連中を恐るるに足らずと判断したのは、地下にいる”ゾンビ”はすでに、鋼鉄のシャッターにて通行が遮断されていることを確認していたためでした。
あの凶暴化した”ゾンビ”たち相手ではそのシャッターですら安心材料とは言えませんが、いたずらに連中を刺激したりしなければ少なくとも、”扉”に辿り着くまでの時間は稼げるはず。
「あっちでごそごそ。こっちでごそごそ。……すこし、気になりますけどね」
「気をつけて。あるいは、時限爆弾のようなものを仕掛けているのかも」
「爆弾……ね」
まあ、可能性はゼロではありません。
敵の能力の詳細なんて予測できるはずがないので、どのような可能性もあり得るんです。我々にできることは、常に覚悟を固めておくことだけ。
そこで柴田さんが、
「……走る準備をした方がいいかね?」
「ですねー。場合によっては、武器と荷物を捨ててでも」
一行が高架下を抜けると、左手に高層ビル群が見えてきます。
そこから少し歩くと……渋谷名物の大型屋外ビジョンが見えてきました。
平時なら、映画『ブレードランナー』を思わせる広告で目がチカチカしてくるその空間も、今では静寂に包まれています。
「この先に、現実世界に通じる”扉”が?」
「はい。みんながんばって。もう少しです」
「良かった。……一時はどうなるかと思ったが……」
その声は、心の底からの安堵を含んでいました。
とはいえもちろん、油断はできません。
どうも浜田さんの目的は、――犬咬くんの精神に何かしらダメージを与えて、腑抜けのようにしてしまうこと……の、ように思えたためです。
そのためには、もう一つくらい仕掛けがあってもよさそうなものですが……。
と、その時でした。
ころんっ、と私、まるで赤ん坊のようにつまずいてしまって。
「”名無し”どのっ?」
驚いて声をかけてきたのは、コウくん。
「なんですかな、急に転んだりして……」
「いえ、……大丈夫です」
口ではそう言いましたが、向こう脛の辺りに、痺れたような感覚があります。
嫌な予感がしました。
その感覚がする箇所、――少し前、浜田さんを蹴っ飛ばしたところの気がするのです。
念のためその部位に《治癒魔法》を試みますが、なぜか症状は回復せず。
どうも、ダメージを受けているというより、左足の神経に「動け」という意志が伝達されていない感じ。
「あれ? ……あれれ?」
「”名無し”どの……ひょっとしてその足、――」
だんだん、「あ、これ始まったな」という確信が生まれつつありました。
これ恐らく、浜田さんが仕込んだ一手っぽい。
わー。
まじかー。
やられたー。
「立てますかな?」
「……片足一本でなら」
「もし何なら拙者、おぶりますが」
「いえ。大丈夫です。けんけんします」
ちょっとだけ額に汗をかきながら、私は何とか立ち上がりました。
こうなったら……根性でみんなを送り届けなければ。
最悪の場合、死ぬことになっても。
私が覚悟を固めた、その時でしょうか。
『う゛ぁあ………う゛ぁ、あああ……』
ふらりと、我々の目の前に、一匹の”ゾンビ”が現れたのです。
それは、この辺りでみた個体の中では珍しく五体満足で、よたよたとこちらに近づいてきました。
「なんだこいつ」
避難民の一人が、どこか嘲るような口調で笑います。
それも無理はありません。その個体は、――我々がそれまで見たこともないほど、ぶくぶくに太っていたのでした。
「排水機能が麻痺した地下鉄は、すぐに水没してしまう。この世界でも同じなら、きっとしばらく水に浸かっていた個体だろう」
へえ。そういうのもいるんだ。
私が片足立ちのまま、ポケットのナイフに手を伸ばすと、
「魔力がもったいない。俺が倒しますよ」
と、犬咬くん。
止める間もなく、彼は太っちょな”ゾンビ”に斬りかかります。
銀色に輝く彼の剣が、その”ゾンビ”を袈裟斬りにする、と。
「――ッ!?」
ぱぁん! と音を立て、その餓鬼のように膨らんだ腹部が破裂しました。
同時に、水風船が割れるように、泥のような血が辺りにまき散らされます。
「なんだぁ、こりゃ……!?」
不幸中の幸いというか、血をひっかぶったのは犬咬くんのみ。
「大丈夫ですか? 血を飲んだりとかは」
「問題ありません。この鎧、完全防水らしいんで」
それでもいまの一件は、我々に異常事態を知らせるに十分でした。
私は片足一本で立ったまま、
「みなさん……走る準備をしてください」
と、みんなに命じます。
よくよく注意して観るとその辺りには、《死霊術師》の仕掛けがありました。
とはいえそれは、我々が想像した、時限爆弾のようなものではなく。
地下へと繋がる階段、――シャッターで塞がれたそこに、一匹の”ゾンビ”が張り付いていたのです。
『ごあ、ごあ、ごが、ぶふ……ッ』
ブタのように鼻を動かしているそれは、先ほど見かけた太っちょ”ゾンビ”……の、お父さん版みたいなやつ。
その大きさは見たところ、普通人の三倍、いや四倍はあるでしょうか。明らかに、人間離れした体型です。
そいつが、地下鉄に通じるシャッターの奥で、山のような身体をこちらに押しつけているのでした。
「さっきから地下で蠢いてたのは、――こいつか」
犬咬くんが息を呑んで、呟きます。
『う゛ぁ……ご、あ………』
こいつにもあの、――血液をばらまく性質があるなら、避難民が危ない。
あの量の血を頭からひっかぶってしまったら、いくら目と口を塞いでも感染は免れないでしょう。
『ごあ、ごあ、ごあ、ごあ……っ!』
厄介なことに、彼の周囲には、先ほどの太っちょ”ゾンビ”たちの群れが見えます。
「こいつぁ、……”死霊術師”流の時限爆弾ってとこか」
犬咬くんが苦いものを口に含んだように言うと、ほぼ同時に、世界を引き裂くような金属の軋む音がして、シャッターがひしゃげました。
『ギイエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
私が叫びます。
「みんな、――死ぬ気で走って!」




