スリーピング・ビューティー
「あら」
彼女はまるでレーダーでも見ているかのように、わたしが一歩、屋上へ上がり込むと即座に反応して、指先に挟んでいた煙草を屋上のコンクリ床に押し付けた。
「・・・伊藤さん」
わたしは意を決して彼女の名前を呼ぶ。
「ここに人が来るなんて珍しいわね。デートのお誘いかしら」
こちらは真面目な話をしようとしているのに、ふざけてはぐらかす。
多分それは、授業をさぼって屋上で煙草を吸っている生徒には相応しい言葉だろう。
「デートではありません。教室へ戻って授業を受けてください」
「お断りよ。おとなしく従うとでも思った?」
「貴女は・・・! これ以上授業を欠席すると、出席日数の問題で進級できなくなりますよ」
「構わないわ。このまま永久に高校生をやっていられるものならしていたいし」
「そんなの、学校が許すわけないでしょ!」
わたしは一歩、前に踏み出して彼女の方へ駆け寄ろうとした。
その瞬間。
「動くな」
今までと明らかに違う声色。
語気が強く、だからと言って声を荒げるでもなく。凄んでいるわけでもないのに、頭に響く声で彼女はわたしに命令した。
そして何故だか・・・わたしは歩みを止めていたのだ。
「お節介が過ぎるわね。教師に言われたんでしょうけど・・・私にこれ以上関わらないで」
「そ、それで"はいそうですか"って帰るわけにはっ」
わたしは必死に彼女の言葉を否定する。が。
「貴女にはわかるでしょう?」
そう。誰よりもこの場に居て、この場の空気を吸っているわたしの身体が告げていた。
「"毒"を吸い続けるのがどういう気分なのか」
早く、ここから立ち去るべきだと。
「―――ッ」
わたしは口を押さえると、一目散に階段へ続く扉を開け、屋上から逃げ出していた。
◆
4時間目になる頃には、身体から痛みとけだるさは無くなっていた。
あの時。屋上で感じたもの。
身体の奥底から吐き気がこみあげてくる何か。身体の器官が痛みをあげ、長く吸い続けていたら命の危険さえも感じるような"何か"。
あれは・・・"毒"だ。
(でも、そんなのおかしい。だって、あの感覚が毒だとしたら・・・屋上に居続けている伊藤さんは)
ううん、その前に・・・。
どうしてわざわざ屋上に居座ってあえて毒を吸い続けているのかが説明できない。
・・・もしかしてあの毒のような感覚は、全部気のせいとか、夢とか、疲れからくる何かだったりする可能性は無いだろうか。
寧ろそうであって欲しい。それほどまでに異常な体験をしたのだ。一種のトラウマと言っても良い。
(・・・もう1回、屋上で伊藤さんに会えばハッキリする)
わたしはそう思い、昼休みになると教室を出ようとした。
すると、普段はあまり会話をしないクラスメイトに呼び止められる。
「あの、これ・・・」
彼女が手渡したのは、1枚の紙だった。手紙と言うのもおこがましい、大学ノートを切り取った紙切れ。授業中に後ろの席から回ってくるような、あんな感じのものだった。
そこには割としっかりした字体で。
「もう二度と屋上には来ないことね。次、毒を吸い込んだら」
その次の文字を読んで、わたしは戦慄した。
「中毒になってしまうでしょうね」
◆
(伊藤さん、貴女はもしかして・・・)
午後の授業中は彼女のことで頭がいっぱいになって、何も考えられないでいた。
そんな上の空の5時間目が終わろうかという、その時だ。
キンコンカンコン、と授業終了には数分早いタイミングで、全校放送が流れた。
『学校内で危険物が発見されました。全校生徒は担任の先生の指示に従い、落ち着いて避難を開始してください』
その時、わたしは直感的に思った。
これは彼女・・・伊藤さんの仕業であろうと。
わたしは避難の混乱に乗じて、屋上へ通じる階段を昇り、外へ出るためのドアに手をかけていた。
(どうしよう・・・)
思い出すのは、あの言葉。
次に毒を吸い込んだら、中毒になってしまうと。
ただの脅し文句かもしれない。だけど、そうタカを括るにはその言葉はあまりに重く、怖いものだった。
彼女のために、わたしはそのリスクを冒す必要があるのだろうか。あんな子、放っておけば良い。
伊藤さん・・・由宇とは。
昔・・・少しの間、同じマンションに住んでいたことがあるだけ。
その時、本当にわずかな時間を共有しただけの仲だ。
入学式の日。幼馴染との再会に喜んだが、彼女は変わってしまっていた。
周りのもの全てを傷つけるような態度、鋭い目つきに着崩した制服、教師には掴みかかるし、入学したその日に先輩とはすぐに喧嘩を始めていた。
挙句、授業をさぼって屋上で煙草を吸っている姿を見たと言う話を聞いた後からは、もうわたしが彼女と知り合いであることすら周囲に明かすことは出来なかった。
・・・逃げ出すならもう、これが最後の機会だろう。
(由宇・・・)
あの時も貴女はそうだった。
自分の部屋に籠って、そこからなかなか出てこない貴女を・・・わたしは半ば無理矢理みたいな形で手をとって、引きずり出したっけ。
―――どうして私なんかに構うの。
―――由宇と仲良くなりたいからだよ。
―――だから、どうして私なの。
―――もうっ、わたしは他の誰かじゃなくて、由宇と遊びたいの!
あの時、部屋の隅で小さくなっていた由宇はとても悲しそうで・・・儚かった。
このまま放っておいたら干からびて死んじゃうんじゃないかってくらい。きっとそんな事は無かったのだろうけど。
あんな子放っておいて、他の子と遊べばよかったのかしれない。
だけど、人間はそんな理屈ばかりで動くわけじゃない。
どうしたって気になる子は居るし、1回気になっちゃったら、もうずっとそれに執着してしまう。
それがたとえ自分にとって、毒であったとしても―――
ドアを開けると、あの感覚がもう一度身体を駆け巡った。
「ごほっ、ごほっ!」
思わず咳き込んでしまう。強烈な吐き気と言っても良い。
「・・・どうして来たの」
彼女はまた、手に持っていた煙草を床に押し付けた。
「警告はしたはずよ。・・・貴女を遠ざけるために、毒の濃度を高くした。それなのに、どうして・・・!」
「由宇と、話がしたかったから・・・」
わたしは一点、由宇の顔を見つめ続けながら。
彼女と話をする。
多分、これが・・・。
「由宇。この毒は・・・?」
「私の身体は全身から毒が出るの。まだ人間が知らない種類の毒・・・」
「・・・辛かったよね」
わたしの言葉に、彼女は目を瞑って小さく頷いた。
「自分ではどうにもならないの。私はこの体質のせいで・・・成長するにしたがって、食べ物から味がしなくなっていった」
彼女は全てを諦めてしまったように絶望した顔で。
「こんな煙草なんて、いくら吸っても苦味も旨味も何も感じないの!」
そう言って、持っていた煙草の箱を握りつぶす。
「もう数年もすれば、私は自分の毒で死ぬでしょう。それくらい強い毒なの」
そして子供のように泣きじゃくって、その雫を手で拭い、顔をぐしゃぐしゃにさせていった。
「ごめんね、ごめんね梨花・・・」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で覆い、大声で泣き始める。
・・・わたしの名前を呼びながら。
その姿は。
あの日、自分の部屋の隅で泣いていた由宇、そのものだった。
「ゆうっ・・・」
わたしは残っていた力すべてを使って、由宇の手を取って、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
そしてそれと同時に、身体から力が抜けていって・・・倒れ込みそうになったところを、由宇が支えてくれた。自然と抱き合うような形になるわたし達。
「寂しい思い、させちゃったね・・・」
「梨花、どうして・・・!? 早く私から離れて!」
「もう遅いよ・・・。わたし、完全に由宇中毒になっちゃったみたいだから」
かろうじて顔はまだ動く。
伝えるんだ。わたしが本当に言いたかった事を。
「これからは、ずっと一緒だよ。由宇を独りになんてさせない」
「うん・・・」
「わたしは、由宇が、好きだから。愛してる、から・・・」
「うん・・・、うん・・・! 私も、私も梨花が好きだよ。だから、だから!」
意識がぼうっとする。景色が揺らいできた。
「生きて! 生きてよ! 私は梨花が生きててくれれば、それで良いの! ねえ、梨花!!」
由宇が何か言っている。
でも。
わたしもう、由宇がなに言ってるのか、分からないよ。何も見えないし、何も聞こえない。
ああ、そっか。
これが。この感覚が、死ぬってことなんだ―――
「由宇と一緒なら・・・怖く、ないね・・・」
◆
「・・・あれ」
生きてる。少なくとも、ものを考えることは出来ている。
「梨花、大丈夫?」
「由宇・・・」
「よかったあ」
わたしが微笑みかけると、彼女は涙を流して安堵の表情を浮かべた。
「死んだかと思ったよ」
「もうすぐで死ぬところだったの」
「そうだよね・・・」
少なくとも死を体験した感覚はある。
「じゃあ、どうしt」
わたしがそれを言いかけると。
由宇は言葉を遮るように唇でわたしの唇を止めた。
「梨花。白雪姫だよ」
「白雪姫?」
魔女とか、リンゴとかの?
わたしがまだ要領を得ない顔をしていると。由宇は満面の笑みを浮かべながら。
「白雪姫は王女さまのキスで目を覚ましました・・・ってこと」
言って、由宇は自らの唇に人差し指を乗せ、なぞる。
その微笑みは、わたしからすればどんな毒より中毒性の高い・・・病みつきになるように魅力的な表情だった。
なんでだろ あなたを選んだ私です
(平野綾/『冒険でしょでしょ』の一節より引用)




