閑話①
アクアスト王国は海に面した土地にある。
単純に港町としてもその活気は強く、利便性に富んでいる。漁港として、あるいは商港として活用されている為、その王国には常に最新の情報と商品が並んでいる。
世界的にも先進国として有名である、そんな一面もあるのだが。
「……ったく! あの馬鹿兄貴は、おれが不在の時に何を勝手に!」
男は悪態をつきながら力強い足取りで、その誰もいない廊下に足音を高く鳴らして歩いていた。
青みがかった黒髪は眉より高い位置で短く整えられており、縁の薄い眼鏡の奥にある瞳は、間違いなく怒りの炎を灯していた。
赤く染色されている上着をかっちりと着こなした彼は、ようやく廊下の奥、その突き当りにあたる扉の前で足を止めた。
――アクアスト王城内、二階部分。
その区画は王族の立ち入りのみを許し、そして同時に彼らの居住部分となるフロアである。
青年が足を止め、ノックもなく扉を開けた先には――広い割には、調度品の少ないこざっぱりとした空間があった。
その部屋には彼の両親が居た。窓際の小さなテーブルにティーカップを並べ、まるで隠居よろしく仲睦まじく穏やかな時間を過ごしている。
来訪者に気づいた二人は、同じような所作で扉の方へ顔を向ける。
すっかり白髪に染まった髪を後ろで一つに纏めている父、アクアスト国王と、その隣で上品に微笑んでいる母である王妃。
驚いた様子もなく、国王は口を開いた。
「一体何だというのだ、ロウよ」
ロウ、と呼ばれた男――ロウ・ロステイト第二王子はゼノ・ロステイトの弟であり、ロステイト一族の次男である。
現在、ゼノが国軍に入隊した事によって王位継承権を放棄したため、次期国王として様々な雑務をこなしている。今日とて数カ月ぶりに帰国したわけだが、それと同時にゼノの近況を聞いて休むこと無く王の元へ訪れたというわけだ。
「なんだではない、父上。兄貴の事です」
「ゼノの事か……彼は今、ルルの為に白銀竜を探すために旅に出ている」
「それ以前に、『邪なる者』を打倒する為に旅立った、とも聞きました。軍も動かさず、ロイド・エッジとたった二人で!」
誰がどう考えても無謀な話だ。もはや無謀という一言では収まらない。死にに行っているとしか思えないのだが、恐らく二人は真剣に、本気で倒せると思って旅立ったのだ。
深淵など、未だ誰ひとりとして帰ってきた者がいないというのに。
「私に今から彼を止めてこいというのか?」
「……っ! 父上は兄貴に対して酷薄に感じます。ルルに面会し次第、また国を離れるかもしれません」
「あまり無茶をしてはいけませんよ……この人は口ではどう言っても、あなたたちを大切に思っているのですから」
王妃は少し悲しげに目を伏せてそう告げる。
ロウとて、憎らしさあまってそう喚いているわけではない。どうしてゼノばかり危険な目に合わせてしまうのか――その疑問が、今回の事で特に極まってしまったのだ。
いくら軍に言ってから関係が希薄になりつつあるとは言え、兄弟だ。王位継承だとか、王族だとか、それ以前の血の繋がった関係なのだ。
「……失礼します」
ロウは少しズレた眼鏡を押し上げるようにしてそう言うと、二人を一瞥もせずその場から立ち去った。
ルルは同じく、ちょうど反対側の廊下の突き当たりの部屋に居た。
元々彼女の寝室であり、部屋には大きな天蓋付きの寝台と、少女趣味の人形やぬいぐるみが飾られている。
「ルル、失礼するよ」
声に反応して、寝台で本を読んでいた女性が顔を上げた。
透き通る金糸のような長い髪をそのままに流し、母譲りの美貌はその儚そうな雰囲気が故により美しく映る。
蒼い瞳は大きく開かれ、薄い唇は、ロウを捉えて嬉しそうに口角を上げて開く。
「ロウ、おかえりなさい。久しぶりね……お布団の上からでごめんなさいね」
「いや、気にしなくていいよ。一目見に来ただけだしね」
言いながら、寝台の近くにある椅子に適当に腰掛ける。
「それより大丈夫なのか? 『邪なる者』に直接呪いをかけられたって……」
「ええ。慌てて兄様が帰ってきてくれたけれど、身体は特に変わりはないわ。ただ少し動くだけでも胸が痛くなるくらいで」
「それは大丈夫じゃないね。でも大丈夫だよ、兄貴とおれでなんとかするから」
「……ロウもどこかへ行ってしまうの?」
ルルはそう言って悲しげに眉尻を下げる。ロウは困ったように笑って、
「おれも仕事が終わったばっかだし、少し休んでからだよ。しばらくはここに居るし、行くとしても兄貴の様子を見てすぐ帰ってくる」
「そう……ロウまで無理しないでね……? 私は、あなたたちを失ってまで生きていたくないもの」
「ああ。兄貴にもその言葉、聞かせてやりたいよ」
ロウはそう一つ息を吐く。
やや間があってから、また彼は口を開いた。空気を変えようと、この数ヶ月の仕事での土産話を滔々(とうとう)と語り始めた。
❖ ❖ ❖
「――っくしょん!」
クモッグの町。
窓から差し込む朝の陽光と、不意に鼻腔をくすぐって出たくしゃみでゼノは目を覚ます。
壁際に座らせていた身体をゆっくりと立ち上がらせる。凝り固まった筋肉をほぐすように大きく伸びをして、腹の奥底まで吸い込んだ空気を細く、長く吐き出した。
くしゃみこそ出たが、幸い風邪は引いていないようだ。熱もないし、倦怠感も、関節の痛みもない。あるのは多少の疲労感だが、それも昨日の疲れですっかり寝込んでしまったお陰で気にならない。
窓のガラスを開けると、冷たい空気が室内に入り込んでくる。肌寒いが、それがかえって気持ちよく感じた。
空は雲ひとつ無く、気持ちいいくらいに晴れている。
外では慌ただしい人の流れが見えた。荷馬車で木材を運ぶ人々は、夕べの火災の修繕に向かっているようだ。
町を包み込むような火災だった。火薬による爆発だったせいで、その被害も大きかったのだろう。
けが人がどれほど居たのか、その被害がどれほどだったのかはわからない。だがそれ以上の被害を受けなかったのが、不幸中の幸いといったところか。
「……」
不意に、故郷の事を思い出す。
ロイドと旅立っておよそ五ヶ月。そしてルルが『邪なる者』に呪いをかけられたと聞いて一ヶ月。
話しによれば、『邪なる者』の幻影が突然ルルの寝室に現れ、その胸に手を入れ心臓を掴んだらしい。奴が彼女にしたのは、致命的なほどの体力の低下。汚い話にはなるが、用を足すだけでも死にかける。
奴の幻影は、不意に現れる。
ロイドと旅立って二度、その幻影と戦ったことがある。一度目はアクアストを出てすぐの事。そして二度目は、ルルに呪いをかけたと自ら伝えに来た時。どちらも、驚くほどに歯が立たなかったのを覚えている。
だが奴は見逃した。恐らく、放って置いてもどうにでもなると判断したのだろう。
なぜ広い世界でこの二人を、その関係者まで巻き込んで狙ったのか――それはクロルと出会った時にゼノが話したように、少なくとも『邪なる者』が二人を脅威に感じた、あるいはそれに準ずる存在になると危惧したからだ。
手を下さなかったのは恐らく、何かを待っているのだろう。その何かは、ゼノにはわからない。だがその時ではないと判断している。そうでなければ不可解だ。
「ルルは大丈夫かな……」
一度はアクアストに帰ったものの、それ以降の状況を確認できていない。どちらにしろ国に自分の動きを知らせていない為、伝えたくてもどこに居るか掴めないのかもしれないが。
弟は国交の為に国から離れていたために、そもそも旅立ったことも伝えられていない。このことを知ったら多分、怒って何が何でも居場所を探るんじゃないか、なんて思ってゼノは苦笑した。
ロウは何かと律儀で几帳面な男だ。自分と五つも離れているが、非常に頭も良く、面倒見の良い一面がある。家族と関わろうとしないゼノとよく衝突することもあったが、それでも兄弟仲は悪くはない。幼少期は三人でよく遊んだ記憶もある。
だが、もしロウが帰ってきてくれていれば、ルルも、国も心配する必要はないだろう。
後は自分が早く白銀竜を見つけ出し、ルルの呪いを解いてもらう事に集中するだけだ。
「さて、と」
後ろを振り返る。
安っぽい寝台には、こっちに身体を向けて寝息を立てているクロルの姿が見えた。可愛らしい寝顔だ。
彼女があの雨を呼び起こさなければ、被害はこの程度では済まなかっただろう。
さすがリリィ・ブランカの愛弟子といったところか。それに加え、彼女の素質も尋常でなく高いのだろう。
年で言えば、ルルより三つほど下だというのに。泣き言一つ言わず、ゼノの心配までしてついてきてくれている。全くもって、感謝が尽きない。
クロルが目を覚ます前に、朝食でも調達してこよう。店がやっていれば良いのだが……そう思いながら、ゼノは巾着袋の財布だけを手に部屋を後にした。
ゼノの不安はよそに、市場はいつもの賑わいを見せていた。
クロルへのご褒美に、瓶詰めされている梨のはちみつ漬けでも買ってやろうかと物色しているその最中、不意にゼノは肩を叩かれた。
振り返ると、後ろでは大柄の男が片手にサンドイッチを頬張っている姿があった。
男、ガンズは声を掛けたのにしばらく無言のままサンドイッチを咀嚼し、また頬張って、ようやく完食した頃に声を出す。
「よお、夕べは世話になったな」
「お互い様だよ。あの後は大丈夫だったのかい」
「あー、まあ、なんとかな。あの化物狼は盗賊団が連れてきたってことで処理して、残った二人はそのまま御用で今日あたりにアラリットの司法へ連行されて処分されるらしい。あとは多くの死体処理に今朝方まで掛かってたようだが、あの雨のお陰で今じゃ血の臭いすら残ってねえ」
「そりゃ大変だったね」
「オレ以外はな。オレはさっさと金だけ受け取って引き上げちまったし」
あと、と言葉を継ぎながらガンズは担いでいた袋に手を突っ込んで何かを取り出した。
投げるように渡すのは、金属質な摩擦音をかき鳴らす重い布袋だった。中にはおよそ、しばらくは豪遊できそうなほどの額が入っているのだろう。
「そりゃお前の取り分だ。お前が断っても、町長から絶対に渡せと言われてるんでね」
町長にお前の事を話したら、顔を真っ青にしながら用意してたよ。ガンズはそう笑いながら教えてくれた。
「素直に助かる。突き返すと町長のメンツを潰すことにもなるだろうし、有難く受け取っておくよ」
「それがいい。オレは少し休んでから適当に町を出るつもりだが、お前はこれからどうするんだ?」
ゼノはひとまず目の前にある瓶詰めを手にとって勘定をする。気前のいいおばさんがついでに、と手渡した柑橘系の果物を二つばかり紙袋に詰めてくれるのを笑顔で見ながら、ガンズに応えた。
「僕はこれからグラン・ドレイグに向かおうと思っている」
紙袋を受け取って、歩きながらあたりを物色する。保存食用に塩漬けされた肉や腸詰め、ナッツ類、保存の効く堅いパンなどをついでに購入しながら、朝食用に適当なサンドイッチと、飲料をようやく入手する。
「あんな要塞、何の用があって行くんだ?」
朝の買い物にしては随分と買い込んだが、食事を済ませばすぐに旅立ちだ。早く済ませておくことに越したことはない。
「ちょっと訳ありでね。北の方に向かわなくちゃいけないんだ」
「あのガキを連れて、か。骨が折れそうだな」
「そんな事はないよ。クロルはいい子だし、優秀だ」
「そうか……まあまさかこんな所でお前と共闘するハメになるとは思わなかったが、噂と違ってまともそうな奴で良かったよ。今度もしどこかで会ったら、またよろしくな」
ガンズはにやり、と笑ってゼノの肩を拳で小突いた。
「ああ。こちらこそよろしく。君なら心配はないだろうけど、道中気をつけてね」
「そっちこそな。それじゃ」
ガンズはゼノの買い物に付き合って購入したリンゴを齧りながら、軽く手を上げて背を向ける。離れていくその背を見送りながら、ゼノも同じように、宿へと帰路につくことにした。




