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クモッグの町 ⑥ vs狼男

「……!?」

 疾すぎる――咄嗟に身を引いたが、振り下ろされた鋭い爪が深々とゼノの胸板を切り裂いていた。

 鋭い痛みが走る。途端に血の臭いが鼻腔に刺さった。

 怪我の具合を確認するよりも早く、ゼノはすぐさま距離を離す。後ろ退ろうとする間にガンズが割って入り、また振り放たれる爪撃を大剣で受け止めていた。

 ガンズの馬鹿力でそのまま振り払おうとするが、力は均衡していた。互いに押し合い引かず、先手を打たれるより先に蹴りを横っ腹に叩き込んで横っ飛びに距離をとる。

 まるで分厚いゴムを叩いたかのような感触。まるでダメージが通った気配がしない。

 こんな魔物、見たこともない――。

微笑ラフみの殺戮者・スレイヤー! コレはまずいぞ!」

「僕をそう呼ぶな! だが……!」

 さっと撫でるように胸元を触る。皮膚が抉られたように裂けている。血は流れているが、次第に強くなり始めた雨にすぐに洗われていた。

 人間が魔物に。それは確かに、おとぎ話の中ではあった。

 おそらく史実が元になった話だ。この世界にいる亜人類もそれが起源だと知っている。

 だがこの現代で、そのままの意味で変身するように変質してしまうなど――『深淵の始祖』以外、可能な者は想像できない。

 つまり目の前でそうなった狼男は、深淵の始祖にたぶらかされ、こういう結末に至ったのだ。

 恐らくは自分がここに居るせいで。奴はすでに僕の行動に手を打った、ということだ。

 それを予期して今夜は外で待機していようと思っていたが、どう動こうが最早奴の手のひらの上なのかもしれない。

 僕のせいだ、僕のせいで――苦悩しそうになる考えを払拭し、改めて敵を睨む。

 動きはゼノを凌駕し、力はガンズを遥かに超える。あの鋭い爪も厄介だ。

 ならばどう対処するか。一人では無理だ、しかし今は違う。

「ガンズ。息を合わせよう」

 狼男はまだ動かない。こちらの様子を伺っているようだ。

 隣に来るガンズに、地面を叩くほど強くなる豪雨に負けない大声で伝えた。

「悪いがお前の戦い方は知らねえ」

「それはいい。あんたの好きなように戦ってくれ、僕が合わせる……ただ一つ」

「なんだ?」

「僕の動きを信じてくれ。僕がピンチでも、あんたがピンチでも」

「……ああ、お前が信じろってんなら信じてやるよ。それが軽口だったらタダじゃ済ませねえからな」

「わかってる。少しでも妙な動きだと思ったなら僕を殺せばいい――って、なんだ、あれ」

 話してる間に、狼男は顔の位置まで腕を上げていた。短剣ほどの長さはあるだろう五本の爪が、淡く蒼く輝き出したのを見た。

 なんだあれは。身構えている内に、その爪を狼が振るった。

 瞬間、その残光が振り下ろした軌跡を描いたまま、飛来した。大きさはゆうにガンズの背丈を超え、速度は音に近い。

 攻撃の予備動作から本能による回避行動が功を奏した――斬撃は、石畳を深く抉りながら飛び、しばらくした所で霧散した。

「……ありゃあ専門外だな」

 唖然とした感じでガンズが呟いた。僕だって、と言いかけてゼノは口をつぐむ。

 言っている暇はなさそうだ。狼男が再び、爪に光を宿し始めていた。今度は対になるように、両手を重ねていた。

 あれは二人の動きを待っていたのではなく、己の力を確認していたようだった。

 奴には知能がある。それが知れた途端、余計に厄介だ、とゼノは思った。

 破滅的な破壊本能が知恵を生み出した。その知恵が導くのは平和的解決ではなく、いかに効率的に、より確実に敵を仕留められるか、だ。

 ゼノの心には間違いなく焦りが生まれていた。雨が瞬く間に体中から体温を奪ったが、それを覆すほどの熱が腹の底から湧き上がっているのを感じた。額から流れているのが雨水ではなく、汗であると断言できた。

 心など踊らない。自分はラフ・スレイヤーなどではない。

 だが弱いわけでも、ない。

「やるしかないなら、やるしかないだろ」

 言い聞かせたのは、果たしてガンズか、己か。

 改めて剣を握り直し、ゼノは走り出す。敵は恐らく自分を優先的に狙ってくる筈だ。

 ならば……。

 大きく弧を描くように一定の距離を取りながら走って近づいていく。狼男の身体は、考えた通りに自分を追ってきた。

 ゼノの射程距離まであと一歩。あと一歩入り込めれば、剣先が届く。届けばあの爪を腕ごと叩き切ることが出来る。

 が、事は上手く運ばない。

 あと一歩。そこで腕が振り下ろされる。蒼い斬撃が輝きながら、その一歩のところの距離で一瞬で肉薄した。

 攻撃は最大の防御。だがその攻撃が不発なら、無防備な所に無慈悲な反撃が叩き込まれる。

 息を呑む、自分を信じる――考えるより先に、ゼノは強く地面を蹴り飛ばした。

 その長身が高く空に舞った。斬撃が足先寸でを通り過ぎていくのを見届けながら、ゼノは狼男の背後に至る。

 剣をその男の肩口に突き立てて、力強く差し込む。分厚い筋肉がそれを拒み、深くは刺さらない。だが構わずゼノは落下する勢いに任せて、そのまま背を切り裂いた。

 その肉体に傷がついた。背から鮮血を迸らせながら狼男が大きく咆哮する。空間が激しく震え、地面に溜まり始める水たまりが波紋を作っていた。

 ちょうどゼノがその背後に着地する頃、狼男はその激痛に激昂したように、振り返りざまに腕を大きく横薙ぎに振るう。

 それに気づいた時には、鋭い爪先がゼノの顔面にまで迫っていた。

 着地したばかりで身体がまだ動かない。

 しまった、油断した――身じろぎした瞬間に、足が滑る。傾いた身体がそのまま地面に叩きつけられるように転がった。

 爪が鼻先を掠る。凄まじい風圧が、豪雨を連れて弾丸のように全身を打ちのめした。

 この一瞬で――二度死にかけた。

 心臓が激しく鼓動している。今にも破裂しそうだ――だが生きている。

「合わせるっつったってよぉ!」

 気がついた時、今度狼男と対峙しているのはガンズだった。

 大剣は大上段から振り下ろされ、狼男が両手でそれを受け止める。その衝撃がまた、そこを中心に周囲に伝播するように広がった。

「テメエが先に動いちゃオレが合わせる他ねえだろうが!」

「敵はどうやら僕を狙っているらしい。それに合わせてくれ」

「メチャクチャだなッ! 畜生ッ!」

 立ち上がり、平然とした態度で告げるゼノに、ガンズは怒り混じりに吐き捨てた。その怒りの矛先は剣を受け止める主。全身全霊をもって振り抜くように叩き降ろすと、狼男は低く唸りながら両腕をねじ伏せられ、思わずたたらを踏んだ。

 ――馬鹿力を出したせいで背中の筋肉が攣りそうだ。肩が外れそうだし、腰は鈍く痛みを訴えている。

 ガンズは小さく舌を鳴らした。間違いなく全力を出したはずだ。生身なら両断は無論、受け止めることさえ出来る者を知らない。

 だが――確かに力で押し勝った。今はただこの事実だけが大切だ。

 そして奴はゼノの動きに対応しきれていなかった。身体の反応速度の問題ではなく、恐らくは経験不足からなる動作の鈍化。奴自身、ゼノがどう動くか予測出来ない為、動くことが出来ない。

 大丈夫だ。まるきり負けているわけではない。

 ゼノが狙われているということは、どうあれ真っ先に彼を攻撃する筈だ。それを避けるなり、受けるなりするのはゼノ次第だが、確実にそこには隙が生まれる筈。

 飽くまで推測の範囲であり、その間隙も針の穴に糸を通すようなほど小さく細く儚いものであるかもしれない。

 だが状況を打破するには、それを決して見逃さずモノにするしかないのだ。

 ここまで厄介な仕事も久しぶりだな、と短く嘆息し、ガンズはゼノを一瞥した。

 ゼノはそれに小さく頷いて応じ、剣を肩に担ぐようにして構えた。

「奴が僕らに対応するように、僕らも奴に対応しよう」

 ふう、とゼノは短く息を吐く。

 雨はすっかり土砂降りに変わっていて、身体は気がつけば小刻みに震えるほどに冷え切っている。

 あれだけ激しかった火災も、辺りを照らすほどの力はなくなっていた。これほどの雨が続けば当然か、と安心する一方で、気づく。

 雨雲のおかげか月も出ていないから、周りはまるっきり暗闇に包み込まれている。怒鳴り散らすほどに声を荒らげなければ恐らくガンズにも言葉は届かないだろう。

 あの狼男はどうだろうか。その外見通りの特徴があるのならば鼻と耳はよく利くだろうが、今ではそのどちらも意味はなさないだろう。

 厄介だとすれば、奴の肉体の変容に知能がついていくことだ。今は野生の本能じみた動きだが、元は人間。人間の頃の知識、考え方、記憶、それらが戻り始めるとするならば、恐らく手に負えなくなる。

 となれば次の攻撃が一番のチャンス。こちらの動きに慣れ始めるより先に仕留める。

 これしかない。

 考えている内に、狼男の両爪は再び燐光を灯し始めていた。腕は構えず、だらしなく垂らされている。

 爪の輝きが、淡く狼男を照らしている。暗闇の中、不気味ささえあった。

 猶予はない――ゼノは走り出す。狼男が最初にしてみせたように、一息で懐まで肉薄。

 だがそれを見透かしたように鋭い爪で迎撃。だが攻撃は当たらず、まるで翻弄するようにゼノは脇を抜けて背後に。

「――!」

 狼男がゼノを視線で追おうとした刹那、その正面から巨大な鉄塊が降り注いだ。

 反射的に動いた右腕、その上腕にガンズの大剣が深く喰らいつく。肉を切断し、血しぶきが舞い、やがて骨が砕け、鈍い音と共に腕が吹き飛んだ。

 瞬間、残った腕が素早く、狡猾にガンズの胸元に爪先を照準していた。

 爪が強く、激しく輝く。その次の刹那、閃光が迸った。

 が――何も起こらない。

 狼男の胸の内から鋭い刃が生えた。正確にはゼノが背後から一息で心臓を貫き、貫通させたのだ。故に狼男の攻撃は寸前で停止し、その肉体はゆっくりと脱力するように、前のめりに倒れていった。


「……とりあえず終わり、かな」

 倒れる勢いを利用して剣を引き抜いたゼノは、それを振るうようにして鮮血を払うと、慣れたように剣を頭上に投げ、剣先の落下に合わせて背中の鞘に収めてみせた。

「悪いな、助かった」

「いや、気にしなくていいよ。僕も君が居なければ少し苦労していただろうし」

「少し、か……後の処理は上の連中に任せる。どうせ見てたんだろうしな。報酬は掛け合えば出すだろうが、どうする?」

「貰えるものは貰っておくに越したことはない……けど、今回は遠慮しておくよ。勝手に首を突っ込んだだけだしね」

 それより、とゼノは大きく息を吐く。

 事が済んだ様子に気がついたのか、少し遠くの物陰から走り寄ってくる小さな人影を見る。

「ぜ、ゼノさん! 大丈夫でしたか!?」

「ああ、この通り……だけど少し疲れたかな。宿に戻って休もうか、風邪を引かないうちにね」

 そういうわけだから、後は頼んだよ。ゼノはガンズにそう言い残すと、クロルの手を引くようにしてその場から去っていった。

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