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男人禁制の国アマズ・ハイネ ⑧ 黒影騎士 その3

 ――間に合ってよかったと、ゼノはその少し前の事を思い出していた。

 道中、徐々に血生臭くなっていくのは予想の範疇だった。

 ただ少しだけその数が多くて、凄惨なものが多すぎたけれど。

 だからゼノの心はまだ平静を保てて居たし、今にも死にそうな顔のリナが走ってきて道を先導し始めても、冷静で居られた。

 だというのに、そこに辿り着いた瞬間。

 アンジェリーナが綺麗に通った鼻筋を一昨日の方向に曲げられていて。

 服なんて身につけているかどうかさえわからないほど真っ赤に染まっていて。

 その綺麗な顔が歪み鮮血に塗れていて――今その刹那、無防備に頭を踏み潰されようとしていた瞬間。

 ゼノの全身は総毛立ち、心臓が轟、と唸ると共に、沸騰した血液が身体の隅々に行き渡った。

 心臓が破裂しそうなほどに膨張する。

 怒りが、その黒い影に対する憎しみが己の想像を越えて膨れ上がり、またいつものような……否、それを超過する激痛が襲いかかった。

 ――いつからだろう。

 この痛みが、自分の闘争本能を呼び覚ます契機になってしまったのは。

 この憎しみがなければ、ただでさえ無様に弱まった肉体がその総力を発揮できなくなってしまったのは。

 見知った者が、己より先に傷つき倒れてしまうようになったのは――。

 ゼノは気がついた時には既に背負っていた剣を抜いていた。

 身体は風を切って走り出していた。

 そしてその足音に男が気づき、僅かに首をひねった瞬間。

 既にゼノの身体は、その脇をすり抜け逆袈裟に黒影騎士の胸板を切り裂いていた。


 ――ゼノは意識を現在へ引き戻す。

 黒影騎士の首を跳ね飛ばして、そいつはまるで投げ捨てられた人形のように倒れ込んだ。

 それで終わる筈がない――というのは直感的な考えだったが、しかし果たしてその予想は的中していた。

 地面に叩きつけられた肉体はむっくりと起き上がり、転がっていた頭を拾い上げると、まるで兜をかぶるかのような感覚でそれを首の上に乗せていた。

「ゼノ・ロステイト……!」

 黒影騎士は憎しみの籠もった声で彼の名を呼んでいた。

 だがゼノとて、ふざけるなと叫び喚き散らしたい気分だった。

 多くの人を殺し、さらにはアンジェリーナさえも無残に殺そうとしたのだ。

 心臓が激しく痛むのに顔をしかめながら、ゼノはこの目の前の存在をいかにして撃破するかを考えていた。

 こいつは中身がないようだ。そしてこの肌を突き刺すような憎悪の気配に、黒い霧――ああそうだ、これは既知である。ゼノは悟っていた。

 これは己の内にあるものと同じであると。

 こいつはつまり、深淵であるのだ、と。

 そうであるならば、ただ切り結び打ち据えたところでどうにかなるものではない。

 ならば……。

「何のつもりでここに来たのかは知らないけど、君には死んでもらう。僕が殺す。君を、君たちを総て」

 ゼノは覚悟する。

 算段を立て、恐らくそれはうまくいく。だがその後、己がどうなってしまうかまではわからない。

 しかしやるしか無い。彼にはそれ以外の作戦は無く、選べるほどの手段を持っていない。

 だから言った。

「ただの影が、調子に乗りすぎたようだね」

 ただの影。挑発じみた思いつきの台詞は、黒影騎士にとって最大級の侮蔑だった。

 黒影騎士は己がジャーク・ウィフトの分身だと自覚している。

 だが飽くまで己は己という確たる個であり、数ある模倣などではない。

 我があり、思考があり、そして力がある。

 己が考え、己が動いている。命令はあったが、一挙手一投足、その全ては己の意思によるものだ。

 決してただの影などではない――怒りが爆発するように、黒影騎士の全身を覆う甲冑の隙間という隙間から、深淵の霧が噴出した。

 十字の双眸がさらに強く紅い輝きを放つ。

 声は強く、低く、重く、告げた。

「思い上がるなよ、王子……貴様こそただの木偶に過ぎぬ癖にッ!」

 言葉と行動は殆ど同時だった。

 黒影騎士は言い放つや、既にゼノの眼前へ拳を叩きつける体勢で出現していた。

 強烈な拳撃がゼノに襲いかかる。だがそれを剣の腹で受け回避――同時に受け流し、返す刃でまた逆袈裟に剣閃を放つ。

 だがその先に手応えはない。

 直後、背部に鋭い痛みが走る。小さくうめき声を漏らしながら振り返るが、その時には既に男の影は残っていなかった。

 速い――というのとは違う。恐らく、奴は闇の中であれば自在に距離を無視することが出来るのだろう。

 もし疾走して殴っていたのならば、直撃した背中の痛みはこの程度では済まないはずだ。

 それに、とゼノは思う。

 傷にすらならないこの痛みは、アンジェリーナの受けたものに比べれば虫に刺された程度のものだ。

 孤独に一人で戦い、彼女は死にかけた。

 考えれば考えるほどに、胸の内で怒りが膨れ上がる。

 最早、こうして手をこまねいている事すら煩わしい。

 少し離れた位置で倒れるアンジェリーナを一瞥する。今ではクロルが泣きながら、魔術で治癒を行ってくれている。

 ゼノには魔術の事はわからない。どの程度傷を癒せるのか、知らない。だが不思議なほど、クロルがなんとかしてくれるのだろうという直感があった。

 だったらこちらも、くだらないプライドやこれからの心配など吐き捨てて犬に食わせ、さっさと黒影騎士を倒すしか無い。

 ――また顔面目掛けて拳が飛んできた。

 そんな予感がしていた。こいつは顔を狙うのが好きなようだった。

 だから殆ど反射的に、ゼノはその拳を掴んで受け止めていた。

「彼女をあそこまで痛めつけたんだ。お前を弱いとは言わない、だが」

 拳を掴む右手に力がこもる。

 ピシ、と小さな音を立てて、その手甲にヒビが入った。

「なっ、ん――」

「お前程度じゃ、僕には勝てないな」

 ミシミシ、と軋み、悲鳴が上がる。直後に、それはゼノの手の中で粉々に砕け散っていた。

 ――今までとは違う。

 怒りを抑えることは、もうしない。

 笑うことも、必要ない。

 溢れた感情が、胸の痛みが血流に乗って全身に広がっていく。

 頭が割れそうなほど、拍動の度に頭痛が起こる。

 額に青筋を浮かべ、その下、蒼い瞳は鈍い輝きを灯していた。

 右手、その指先から肌の色が浅黒く、そして完全に漆黒に色彩を変えていた。

 それは首筋にまで至り――その瞳と視線が交錯した黒影騎士は、本能的な鋭い殺気を、確かに見ていた。

 瞬間、再び喉元を刈り取られる――そんな幻想さえ、脳裏によぎる。

 だからなんだ、それがどうした。黒影騎士は考える。だが彼がその身に覚えた恐怖は間違いなく本物であって、その理由は確実に目の前の男が原因だった。

 一瞬前とは全く異なる雰囲気。それは確かに、己と似たような冷たい殺気によるものだった。

 ――黒影騎士は再びゼノの前から消える。深く屈み込み、脇から横腹を抉るように殴り込む。

 だがその思惑は外れ、まるで見えているかのように避けられ、

「もう、無駄なんだよ。全て、何もかも」

 声は凍りついた刃のように冷たく、鋭く、心に突き刺さる。

 だから竦んだ身体は何も出来ずに、屈んだままの頭を掴み上げられ、軽く宙に放り投げられる。

 刹那、手刀が一瞬にしてその胸を貫いていた。

 甲高い金属音が響き、甲冑が砕ける音が広がる。

 その程度の事だと、黒影騎士は再び闇に溶けようと試みる。だが、身体が思うように動かなかった。

 串刺しにされたまま、その双眸でゼノを睨んだまま、指先さえも動かせずに居ることにようやく気がついた。

「何を……何を、した……!」

「お前が生身であったなら、彼女と同じ目を見せてやれたんだけどね……それだけが、残念だ」

 ゼノが黒影騎士の中に触れている深淵に干渉する。と言っても彼自身、何かをしようと意識しているわけではない。

 爪の隙間から、あるいは皮膚を通して――黒影騎士が内包している深淵が、勝手に己の中へと吸収されていく。心臓は今までに無いくらい高鳴っていて、酷く頭が痛かった。

 吐き気がする。目眩さえ覚えるが、揺らぐ視界の中でゼノは黒影騎士の紅い十字から瞳を逸らせずに居た。

「今日だけは、この深淵ちからに感謝するよ……これがなければ、お前を殺すことが出来なかった」

「まさ、か……貴様、深、淵、を」

 紅い瞳の輝きが鈍く、やがて明滅する。もう終わりなのだろう――そう思った瞬間、黒影騎士の腕が大きく振り上がっていた。

「わたしは、ただでは終わらぬ……!」

 何をしようとも無駄だ。考えながらその動きに注視する。

 だが彼はその腕をゼノに振り下ろすことはなく、指先から一閃、黒い何かを空へ放っただけだった。

 その直後に、脱力したように黒影騎士はすべての力を失い、その瞳から色を失っていた。

「……」

 ゼノは言葉もなく、腕をふるってそれを投げ捨てる。甲冑は力なく地面に叩きつけられ、脆くもその衝撃で粉々に砕け散っていた。

 黒く染まった腕に視線を落とすと、筋肉がやや膨れ上がって図太く膨張していた。血管が普段よりくっきりと浮かび上がりおぞましささえ感じる。

 これをどうすれば元に戻せるのだろうか、ゼノは考える。

 それと同時に、遠くの方から地鳴りのような音と、その振動を感じていた。

 それは後方、倒れたアンジェリーナより先の方向。

「まさか……!」

 黒影騎士は多くの魔物を引き連れていたと言っていたことを思い出す。ここに来るまでその影はなかったが――もし先の行為が何らかの合図だとするならば。

 ゼノは短く舌打ちをして走り出す。

「クロル! 恐らく魔物が来る! アンジュを連れて出来るだけ安全なところへ!」

「は、はい、ゼノさんは――」

 横を通り過ぎた時、クロルが何かを言っていたようだが、声は届いても言葉はゼノの耳には入ってくることはなかった。


 予想は果たして的中していた。

 森を抜けた先に広い荒野が広がっていた。その先、大きな黒い塊が徐々に形を崩しながらこちらへ向かってくるのがわかる。

 先んじて接近していた野犬のような獰猛な魔物を一閃、袈裟に切り捨て、ゼノは胸の奥底から息を吐き出す。

 ――まだ感情が高ぶっている。腕は黒いまま……だがそのお陰か、今までには無いくらいに力が滾り、闘争本能が漲っていた。

 やってやる、と一人で呟く。

 視界に入るだけでも数百とも見える数だったが、出来ないことはない……そんな確信めいた自信が体中に広がっていた。

 だからゼノは再び走り出していた。

 風の如く駆けるその身は瞬く間に魔物の群へ肉薄。

 そして大上段から振り下ろす一閃――先頭を走る巨大な馬のような形の魔物を、首ごと胴体を切り下ろす。

 一瞬にしてゼノを取り囲む魔物たちは、鋭い牙を剥いて襲いかかる。だがそれへ、円を描くように薙ぐ剣閃を払う。直後に血しぶきが舞い、肉片が吹き飛んだ。

 直後に、目の前に大きなクマが立ちはだかった。邪魔だ、と吐き捨てながら股ぐらに剣を差し込み、力任せに振り上げる。刃は柔く毛皮を切り裂き、肉を引き裂いて、骨を断ち切る。両断して左右に倒れる死体の隙間から、さらに巨体で巨大な牙を持った猪が襲いかかってきた。

 ゼノは地面に剣を突き立て、柄を握ったまま飛び上がる。剣の上で逆立ちのような姿勢でソレを回避した瞬間、止まれぬ猪は無残にも剣に突撃し、真二つに裂かれながら突き進み、暫く先で割れて倒れた。

 ゼノは身体を大きく弾ませるように剣を引き抜き、さらに迫る大型の狼へ白刃を振り下ろす。頭蓋を砕いて両断し、さらに円陣を組むようにして距離を詰める犬へと自ら肉薄した。

 まず手近な一匹を袈裟に切り落とす。直後に、一匹が鋭く左腕に牙を突き立て、噛み付いた。僅かに動きが鈍った所に、もう一匹、さらに一匹と食らいついてくる――が、それを狙っていた。ゼノはそのまま剣で振り払うように回転してみせる。噛み付いた犬は避ける暇もなくその全てが首を切り落とされ、残った胴体から噴水のように血液を噴出させていた。

「はぁ、はぁ……」

 ゼノを中心として、僅かに空間が生まれる。既に彼は魔物に囲まれていたし、その数も大して減っては居ない。だが、魔物は戸惑っている様子だった。

 攻めあぐねる。まさにそういった感じだった。

「何を、しているんだ……散々人を食らってきたお前らが、たったこれだけ殺されただけで恐れてるのか!? ふざけるなよ、かかってこい! 全員――殺してやる!」

 ゼノはおよそ彼を知る者ならば聞いた事のない口調で、叫びながら走り出す。

 長い夜は、まだ終わらない。


     ❖     ❖    ❖


 東の空が、濃紺に朱色をにじませていた。

 鈍く空が明るんできた。

 ゼノは剣を杖代わりに地面に突き立てて、大きく息を吐いていた。

 ――草も生えぬ地は、悪臭が立ち込めていた。酷い生臭さに、むせるような血の臭い。

 大地は赤く染まっていて、乾いた土地は鮮血でグズグズに緩んでいる。

 そこに居るのは、もうゼノただ一人だった。

 三百から四百ほどは居ただろう魔物は余すこと無く命を奪ってきた。

 全身はすっかり疲れ切っていて、もう歩くことはおろか、立っていることさえも億劫だ。このまま倒れて、寝てしまいたい。

 ただそのせいか、最後の一匹を切り捨てた直後に、右腕を支配していた深淵は身体の中へと引っ込んでいた。感情はすっかり平静を取り戻していて、心は落ち着いている。それがきっかけなのだろう、と鈍る脳味噌で理解する。

「……帰る、か」

 もう朝になってしまった。

 アンジェリーナの事も気になる。魔物は一匹たりとも討ち漏らしていないつもりだが、もし逃した奴らがクロル達を襲ってしまっては居ないか心配だ。

 そう考えると、居ても立ってもいられなくなる。

 ゼノは剣を引き抜いて、引きずるようにして振り返る――直後、その後ろに人影を見た。

 青紫色の肌の女。黒いチューブトップのドレスのような格好で、そいつは腰に手をやり立っていた。

 ディーネ・ウィフト。そいつは確か、そんな名前だった筈だ。

 反射的に剣を構えるゼノを見て、彼女はくすり、と笑った。

「わたくしは、危害を加えに来たわけではありませんわ」

「はいそうですかと、居られるわけがないだろう」

 強い口調でゼノは返す。ディーネはそれに肩をすくめて見せた。

「お前は僕に何をした。あの時から、僕は――」

 夜もまともに眠れず、食事さえもまともにとれなくなった。

 言おうとした言葉は、口元に運ばれた指によって止められた。

「わかっておりますとも。わたくしはただ、貴男に一つ教えてもらいたい事があって来ましたのよ」

「……何、を」

 構えている剣が、限界を迎える。筋肉が痙攣して、ゼノは堪えきれずそのまま地面へ刃を突き立てた。

「ヒトである、ということは……どういった事なのでしょう?」

 一瞬、問われた事が理解できなかった。ふざけているのかと思ったが、彼女の瞳は真剣な眼差しでゼノを写していた。

 彼は大きく息を吐いて、短く告げた。

「知らないよ、そんな事。考えたこともない」

「そう、ですわよね。貴男は人の中で生まれ、人の中で育ち、人と共に行動している。人として、人であることに悩む理由なんて、ありませんものね」

「ただ」

 ゼノは彼女の肩を掴んで、脇にどける。本当に今は敵愾心が無いようだった。

 横を抜けて、背中越しにゼノは言った。

「案外、つまらない事で悩んでいるんだね、君たちは」

「つまらない事などではありませんわ。わたくしは――」

「――君は君だし、僕は僕だ。例え化物だったとしても、それは変わらないだろう?」

 それは彼自身、自分にも言い聞かせていた。

 あの深淵を呼び出した時、まるで自然に力を込めるように湧いてきた。同時に激しい怒りと、爆発的な力がこの身に溢れかえっていた。

 そんなのは真っ当な人ではない。なんて、考えたくもない。

 ただでさえどこまで続くかわからない命だ。人であるかどうかなんて、つまらない事など考えたくもない。

 ゼノが告げた言葉を最後に、ディーネの返答はなかった。彼は構わず歩みを進め、アマズ・ハイネへ帰っていく。

 ディーネはその背を見つめながら、ただ言葉を失っていた。

 ただ一つ、彼の残した言葉が頭の中で何度も繰り返されながら、やがてゼノが森の中へ消えてしまうまで、彼女はそこから動くことが出来なかった。

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