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男人禁制の国アマズ・ハイネ ⑦ 黒影騎士 その2

 アンジェリーナは着地すると共に、挑発するように黒影騎士へ向け指を何度か曲げるような真似事をして見せた。

 だが黒影騎士は動けない。ただ十字の紅い発光を強めるだけで、もはや言葉もなかった。

 彼女はそれに薄く笑い、前傾姿勢になって強く地面を蹴り飛ばした。

 距離は十から九へ、そして間もなく一から零へ。

 高く振り上げた拳が、疾走した速度と、体重と、腕力とを乗せ、激しい烈風のような勢いと共にその鉄仮面を強く殴り飛ばす。

 鈍く低い金属のひしゃげる異音が響き、黒影騎士はそのまま背中を地面に叩きつけた。

 その衝撃が大地をにわかに震わせる。だがそれほどの攻撃でさえも、地面に縫い付けた槍が外れることはなかった。

「意味がないのはわかってる。効いてないんだろ、ただの憂さ晴らしさ」

 ダメージは通らない。

 恐らくその外形さえ保てて居れば行動が出来る……正確には、まともに歩け、殴れる拳が繋がっていれば十分なのだろう。だからあらゆる攻撃は意味がない。

 その証左だと言うように、黒影騎士は何事もなかったかのように倒れた上肢をゆっくりと起こしていた。

「ふー……」

 アンジェリーナは数歩分、敵から距離を置いて腕を組む。立ち止まり、睨んだままその場から離れない。

 言わば監視だ。もし今まで己が視界から黒影騎士を外したことによることが何らかの影響を及ぼす契機となってしまうのならば、その選択は間違いない筈。

 加え、明るくなって逃げる様子から、どこかでこいつを操っている魔術師も迂闊な行動が出来ないはずだ。仮に何かをしてきたところで、今度は直接そちらを叩いてしまえばいい。己になら、それは可能なはず。

 全ては推測の域のものだが、現状それ以上の事を考えても下手の考え、というものだ。

 後は、ゼノはともかくとして術の扱いに長けているらしいクロルを待てばいい。彼女になら、自分にはわからない何かを理解し、対応することが出来るだろう。

 くくく、と目の前から笑いが漏れた。

 アンジェリーナは怪訝そうに眉間にシワを寄せる。何が可笑しい――問う前に、男は口を開いた。

「終わらせたつもりか? これで、勝ったつもりでいるのか? まさか?」

「今のお前に何が出来ると言うんだ」

「それが常識的だと言うのだよ。良いだろう、強い貴様に土産代わりに教えてやろう」

 言いながら、甲冑から漏れるモヤがその濃度を強めた。また輪郭が闇に溶かし――確実に一歩、そいつは前に出た。

 さらに一歩。

 また一歩。

 離した距離は瞬く間に縮まり、やがてそれに驚き、目を見開いたアンジェリーナの眼前で足を止めた。

 背後で、ニ槍は何事もなく地面に突き刺さったまま。一切の抵抗や、衝撃が加わったような様子は見せていない。

 そしてまた――刹那、瞬きの直後に姿が消える。それとほぼ同時に、その背後に強い気配が出現した。

 怖気が走り背筋が凍りかける。一もニもなく振り返り、三で振り返りざまに蹴りを見舞い、四でそれが虚空を過ぎるのを認識し、五で――油断などしていなかった筈なのに、容易く首を掴み上げられた。

「貴様らはこのわたしを影だと呼んでいるようだが、そんなヌルいものと一緒にしてもらっては侮辱だな」

 首を掴む手の力が強くなる。筋肉を締め上げ、骨が悲鳴を上げそうになる。

 アンジェリーナはまだ余裕の残るうちに両足を腹のあたりにまで引きつけ、前方へ打ち放つ。踵は確実に黒影騎士の胸部を叩いて拘束を緩め、両手で首を締める手を引き剥がした。

「はっ、はぁっ――」

 呼吸を整える。

 刹那に、鼻っ柱をへし折る衝撃が顔面をぶち抜いた。

 悲鳴や呻きなど漏れる隙がない。鼻骨が粉々に砕けた感触とともに、アンジェリーナは為す術無く地面に叩きつけられた。

 直後に腹部を蹴り上げられ、身体がくの字にへし折れる。仰向けに倒れた身体に、容赦なく堅い踵がその鳩尾に落とされ、地面と彼女との身体を釘付けにした。

 鼻からダラダラと鮮血が流れ出て、脳ごと揺らした衝撃が意識をそぎ取りかけている。立て続けの攻撃が、たったそれだけで彼女の体力と気力を奪い取っていく。

 全身に痛みが走り、もはやどこがどう痛いのかさえ彼女には理解できない。

「わたしは深淵。ただの思い上がりや過剰な自信から、貴様らを見下していたと思っていたのか?」

「し、深淵、だ……? お前は、なん……があっ!」

 身体を鋭く回転させ、また胸の上の足を滑らせるように腕で押す。思惑通りに彼女は黒影騎士から逃れ、四つん這いの姿勢から大地を弾くようにして立ち直る。

 だがやはり、それと同時に拳が降り注ぐ。

 アンジェリーナはそれが頬に触れた瞬間に腰を落とし、体幹を真っ直ぐに、顔面でそれを受け止める。先程までのように叩きのめされなどせず、頬骨が砕け、皮膚が裂けても尚、その力強い瞳は黒影騎士を睨んでいた。

「説明、してくれるんだろ……意識が吹っ飛んでしまう前に、手より口を動かせよ――おらぁッ!」

 腕を掴んで、全力でそれを握りつぶす。腕甲はひしゃげ、内部の黒い霧が噴出した。

 そのまま腹を蹴り飛ばして腕を引きちぎる。アンジェリーナはそれをそのまま地面に落とし、口の中の異物……砕けた奥歯を鮮血ごとそれに吐き出した。

「話してみろ、雑魚助。強いわたしが、聞くだけ聞いてやる」

「はっ! よく吠えるものだな」

 いいだろう、と男は言った。引きちぎれた右腕の先が、漏れ出る霧が形を作り出す。やがてそれは硬質さを得ると共に、元の腕甲の姿を取り戻していた。

「わたしは深淵を元に作られた。形式上父上と呼ぶが、ソレの分身だ」

「はぁ……ふぅ――深淵だと? アレは、人や大地を冒し闇に包む、ものなんだろ……?」

「愚かな」

 嘆息でもするように、そいつは肩をすくめてみせた。

「深淵は進化の概念を物理的に出現させたものだ。闇はその副作用に過ぎず、その真価は他にある」

 両手を広げ、男は続けた。

「深淵とは力であり、魔力であり、命であり、世界でもある」

「……理解の範囲外だ。門外漢には聞いていられない話だ」

「貴様とて、深淵により作られた種族だ。識る事は力になるというのだが……最も、知った所で貴様の命も長くは続くまい」

「じゃあもう一つ、その死に土産に教えてもらってもいいか?」

「はっ、死ぬ者の目には見えないが――良いだろう。貴様のような強き者は珍しいからな」

 黒影騎士が言う通り、アンジェリーナの目は死んでいない。その紅い瞳は未だ強い生の輝きを放っていて、こうして話している間にも狡猾に敵の隙を狙っている。

 促され、彼女はまた胸の奥底から息を吐き出した。

 深淵など興味はない。だが一つだけ疑問を呈するとするならば、

「ゼノ・ロステイトを狙う理由はなんだ」

 己を足にしてここまで運ばせた。それにフラムの一件もある。

 奴は深淵を目指していると言っていた。だがそれによってこいつらに狙われていたとしても、他を巻き込む理由は? フラムのように直接狙えばいいだけの話だし、そもそも奴は恐らくこいつらから逃げも隠れもしないだろう。

 父上と言っていた――少し冷えた頭で考えれば、それは恐らくジャーク・ウィフトの事だろう。

 数十年前に深淵が徐々にその範囲を広げ始めている。千年の時を超え力をつけてきた、そしてゼノ・ロステイトの存在……何が起ころうとしているのだ。

「ふむ、ゼノ王子か。そう言えば貴様が連れてきたのだったな」

 男は顎に手をやり、少し考えるように沈黙する。

 アンジェリーナはただ待った。待ちながら、周囲を見渡す。リナの姿が消えていることに気づき、ほんの少しだけ彼女は安堵していた。

 こんなボロ布のような姿を人に見られたくなどない。ましてやリナがここに連れてきたのだ、恐らく責任を感じてしまうだろう。

「王子はわたしと同類だよ。父上の子さ」

 不意に男は口を開く。

 同時に、その言葉は不穏そのものだった。

「……どういうことだ」

 故に、意識が黒影騎士に集中した。

 周囲に、そして己に気を配っていたその全てが、ただの一言でそこに収束する。

「言葉のままさ。最も、王子はわたしとは異なり人の身だが」

「理解、出来ないな」

 ゼノのあの顔が脳裏に浮かぶ。奴は気に食わないが、だからといって人であることを否定するつもりはない。むしろ真っ当な人であると評価していた。

 黒影騎士のように傍若無人に力を振るったりすることはないし、人を憂い、人を心配出来る男であることは彼女とてわかっている。

 それが目の前の怪物と同類だ、とソレは言っている。己でさえ容易く跪かせられたあの男が。

「王子はその心臓に深淵を植え付けられている。そして既に、常人では抱えきれる筈もないほどのソレを溜め込んでいるわけだ。憎しみがそれを湧き出させ、その度に常軌を逸する激痛に心臓は耐え続けている筈だ。深淵が生まれれば生まれるほどに力が奪われ、こうして寄り道などしていられる状態ではないはずなのだがな」

「……当人は知っているのか、それを」

「ふん、知らぬだろうな。知る由もない、と言ったほうが正しいか。勘づくまではあるだろうが、確信には至れない」

「お前らはなぜ狙う? その疑問に、お前は答えていない」

 黒影騎士の話す事が正しいなら、放っておけば野垂れ死ぬ可能性のほうが大きい。わざわざ襲う理由は、彼女には推測できなかった。

「殺せと言われている。少なくともわたしは――さらに言えば、わたしでは殺せぬとまで言われているが」

 くつくつと肩を震わせるように笑いながら、男は言葉を継いだ。

「それに関しては、貴様の言う通り理解出来ていないがね」

「……アマズの者達を殺す理由はなんだ」

「最後の疑問には答えた筈だ。これ以上の時間稼ぎはもう許すわけにはいかないな」

 まあいい、とアンジェリーナは短く息を吐いた。

 恐らく深い意味はない。ゼノをわかりやすくここへ導く為、そして怒りを促しその深淵とやらを生ませ、痛ませ、弱った所を確実に狙うため。その辺りなのだろう。

 長い話のお陰で、体力はいくらか回復しているようだ。痛みは相変わらず全身を襲っているが、それでも対話する前よりはまだマシだ。

 だが、最早勝てる見込みなどない。

 敵はダメージを残さず、引きちぎった腕さえも元に戻してしまう。何をどうすれば倒せるのか、皆目見当もつかない状態だ。

 恐らく闘えばジリ貧にすらならないだろうな、と思いながら、だがしかしアンジェリーナはまだ諦めていなかった。

 死ぬつもりなど無い。だからこそ、賭けるしかない。

 時間は稼いだつもりだ。だから早く来てくれ、クロル、そしてロステイト――。


 切迫する拳は、何度目かでようやく受け止められるようになった。

 手のひらで受け、それを横へ受け流す。拳はとっくの昔にイカれてしまっていたから、懐に潜り込んで肘鉄を腹に叩き込んだ。

 男はたたらを踏んで――知覚より先にアンジェリーナの背後に回り込む。彼女は闇に溶けて消えた姿を認識すると同時に振り返り、また執拗に叩き込まれる拳撃を受け流す。

 また懐に潜り込んだ所で、黒影騎士の身体がそのまま勢いよく前進した。予測しなかった行動に彼女は力任せに弾かれ、ここぞとばかりに握り拳を受ける。

 耳の下、ちょうど顎の骨の継ぎ目あたりに直撃。一瞬意識が途切れ、横薙ぎに身体が吹っ飛んだ。

 地面スレスレを滑空するように飛んでいた身体が、突如として勢いよく地面に叩きつけられる――黒影騎士が、追撃としてアンジェリーナの腹を踏み抜いたのだ。

「がッ」

 力任せに甦った意識が、激痛によってまた手放しかける。

 さらに黒影騎士は彼女の横っ腹を蹴り飛ばすと、身体は簡単に浮かび上がってしまった。そうしてさらに肉薄する拳が、嵐のような手数で無数に全身へと降り注いだ。

 もはや己が空を仰いでいるのか、地面へ頭から叩きつけられようとしているのかさえ、わからない。体中に打ち付けられる衝撃が鱗の鎧を引き剥がし、生身の肉体を容赦なく叩く。骨が砕け、内臓に突き刺さり、腹の奥底から迫り上がった吐き気がすぐさま口腔に溢れ、鮮血を吐き出させていた。

 攻撃が止んだのがいつか、わからない。だが地面に口づけしている己を理解した彼女は、全身を小刻みに震わせながら立ち上がろうとしていた。

 上肢を起こした所で、いつかのように視界に二本の足が現れた。

 いつだっただろうか。その記憶はもはや太古のように感じていた。

 男の足は大きく振り上がっていた。

 ――ああ、ここで死ぬのか。このまま頭を踏み潰されて、この生涯に幕を降ろすのか。

 こんな所で。まだ、やりたい事もあった。話したい事も、聞きたい事もあった。だがもう、終わりだ。

 男の足裏が、視界を覆い尽くす。恐怖のせいか、反射的なものか、アンジェリーナはその瞬間に強く目を瞑った。


 頭の上で激しい金属音が掻き鳴った。

 ――それを理解したのは、死を待った数秒後のことだった。

 未だ訪れない死に、アンジェリーナは恐る恐る目を開ける。その先は、覆われていた足裏は存在していなかった。

 月明かりが漏れる枯れた森の空が広がっていた。そして顔を横に向けると、黒影騎士の胸は深く袈裟に斬り裂かれていて――その対面に、背の高い金髪が剣を構え、立っているのが見えた。

 見える横顔は、口角を上げ笑っていた。悲痛な笑顔だった。何かを堪え忍び、誤魔化すように笑っている……そんな痛ましい顔だった。

「アンジュ……よく、生き残ってくれたね。ありがとう」

 振り絞るような言葉。ゼノは胸を抑えながら、横目に彼女を見た。

 痛みと、死への恐怖、後悔、それに類する全てのものがアンジェリーナの感情を壊していたのかも知れない。

 気がつくと温かい涙が目の端から流れ落ちていて、胸を小刻みに弾ませながら、彼女は笑っていた。

「遅いぞ、バカ野郎」

「うん。これが終わったら、気が済むまで蹴っ飛ばしてくれ」

「ふふっ、それじゃ、ただじゃ……済まなく、なる、な」

 緊張の糸が切れ、耐えられていた痛みが一挙に襲いかかってきた。破壊されぬように精神は緩やかに彼女を眠りへ誘い、意識が途切れる。

 ゼノはそれを見届けてから、黒影騎士を鋭く睨んだ。

「悪いが」

 言葉はそこで途切れた。

 否、その場に置き去りにされていた。

 黒影騎士は不意にゼノの姿を見失う。同時に、首筋に鋭い衝撃を覚え――頭部が吹き飛び、身体が勢い良く横回転しながら吹き飛んだ時、ようやく彼が己の背後に回り込んでいた事を理解した。

「お前はここで終わりだ」

 継いだ言葉は、強い怒気を孕んで冷たく、重く吐き出されていた。

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