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城郭都市グラン・ドレイグ ⑫ 竜人アンジェリーナ・ブロッサム その2

 拳がゼノの眼前に迫っていた。

 アンジェリーナ・ブロッサムは既に得意げな顔に表情を塗り替えていた。堅い拳をゼノの顔面に叩き込み、そのまま殴り抜ける想像までして気分が良いのだろう――だが現実は違う。

 ゼノは半歩だけ横にずれて頬を掠めるか否かの所で回避する。同時に下方から捻るように突き出した拳が、無防備なアンジェリーナの胸元に喰らいつく。拳がその分厚いプレートアーマーを深く窪ませた所で、ゼノは瞬時に腕を引き抜いて一歩距離を離した。

 直後に、アンジェリーナの振り払うような拳が鼻先を通過する。攻撃が当たらないと判断するや、彼女は即座に飛び上がった。

 刃ほどに鋭い蹴りが虚空を切り裂く。届くわけがない――ゼノは考えながら、それに気づく。同時にアンジェリーナの身体は翻り、一回転してさらに高い位置から振り下ろされる鎌のように踵が首を狙った。

「……っ!」

 ゼノは即座に首元を腕で防御する。その刹那後に、身体ごと吹き飛びそうになる強烈な衝撃が襲いかかった。肉を叩く甲高い音と、鈍い打撃音が強く響く。

 力任せにそれを振り払うと、彼女は着地と同時にたたらを踏んで後退した。

 あの状況からここまで切り替えられ、またこの一撃が決まれば容易く相手を屠れるほどの攻撃力。尋常ではない身体能力だ。

 反射的に腕を振り上げたのが功を奏したが……指も曲がらないほどに痺れている。骨に異常はないようだが、あまり受けてばかりもいられなそうだ。

「ふっ――」

 口の端から呼気を漏らし、アンジェリーナは床を強く蹴り飛ばす。考える暇さえ与えず再び肉薄。

 振り上げた拳を睨みながらゼノは再び身体を反らして回避を選択。

 だがアンジェリーナは寸でのところで深く屈み込み、床に爪を立てて動きを完全に停止させた。

「……!」

 予測し得ない動きに僅かに身体が硬直する。

 アンジェリーナはそのまま長い足で床に円を描くように滑らせる。ゼノは短く跳躍してそれを凌ぐと、彼女は瞬間的に動きを止めた足先に体重を乗せ、重心を移動させ、床から射出される矢のような勢いで跳躍した。

「お返しだ!」

 引き絞るように脇に構えた拳が、未だ宙空に滞在するゼノの丹田辺りを目掛けて穿たれた。

「ちっ!」

 鋭く迫る拳を睨みつけ、両手でそれを包み込むように受け止める――同時にそれを掴み、体重を乗せて腕を叩き降ろすように力を込めた。

 だが屈強な腕力と激しい勢いの乗った一撃は容易く折れず、代わりにゼノの身体が高く飛び上がる。彼はそれが狙いだった。

 アンジェリーナの頭上遥か高くを飛んで背後よりかなり離れた位置、ドレイグ卿の執務机のすぐ手前にゼノは着地した。

 竜というよりはまるで猪だ。ゼノは考えながら、友人でもあり師でもある男の戦い方を思い出す。彼は東洋と自国の格闘術を混ぜ合わせた独自の流派スタイルだったが、上手く出来るだろうか。

 アンジェリーナは再びゼノを捉えると、即座に走り出す。短い距離は一瞬にして詰められ、消え去り、肉薄。

 轟、と唸り風を切る拳が、砲弾のような威圧と速度をもって執拗にゼノの顔面を狙っていた。

 拳撃に合わせてその拳に手を沿わせて受け止める。そうした刹那後に横へ受け流し、滑るようにアンジェリーナに寄り添うように近づいた。彼女がそれを理解するより早く、鋭い肘打ちをその脇腹に叩き込んだ。

 彼女は一瞬だけ表情を苦悶に歪ませ、僅かに姿勢を崩す。

 何歩か距離を離した後、彼女は動きを止めて、大きく息を吐いた。

 首を捻って骨を鳴らし、手のひらに拳を押し付け指を鳴らす。鮮やかな緑色の髪を掻き上げ、その真紅の瞳は大きく開かれた。

「……軟弱、というのは訂正してやる」

「それはどうも」

「この板金鎧プレートは特別な合金でこしらえたものだ……あーあ、こんなにボコボコにして」

 胸部。右横腹。それはまるで巨漢が巨大な槌で打ち据えたかのように大きくへこんでいる。肉体には届いていないが、このまま同じ部分を狙われ続ければかえって危険だ。

 肩口の留め具を外し、多い被さっている肩部の装甲を外す。するとそのまま自重によって鎧は身体をすり抜けて床に叩きつけられ、重く鈍い金属音を掻き鳴らした。

 アンジェリーナはその下に薄手の衣類を一枚身にまとっているだけだった。襟口は広く胸元近くまで空いており、また袖が無いためか露出される肌の面積は広い。

 皮膚に備えられている、その綺麗な髪と同色の鱗は肘から先だけに生えているのがそれでわかる。あらわになった二の腕は細い割には筋肉の筋がはっきりとわかるほどに鍛えられていて、内包されている力が推し量れた。

「お前を侮っていた。すまない」

「……それじゃあ」

 思ったより早く終わったようだ。ゼノはそう安堵の息を吐く。

「ああ――本気でやらせてもらう」

 そんな甘い話も考えもなく、アンジェリーナは静かに微笑んだ。

 ――恐らく攻撃は当たりさえすれば、あの男を一撃で葬れる筈だ。己のスピードは、簡単にあの男を翻弄出来る筈だ。だというのに未だ掠りさえさせられず、あまつさえ己のプレートをボコボコにされてしまった。

 それはなぜか? 己があの男より弱いからか?

「やっぱりそうなるのか」

 肩をすくめうんざりした顔のゼノに、アンジェリーナは短く舌を鳴らした。

 それを否定するために、戦うしかない。

 この男は場慣れしている。恐らくそれが強みなのだ。あの反応速度、そして己が次どう出るかを読んでいる。

 読まれているから手段を変える――そんな事はしたくなかった。

 そうした時点で、ゼノに敗北しているのと同義である。だから本気の己の力で打ち負かす。

 もはやこの男の性質に嫌悪感を催すだとか、その面構えが気に食わないだとか、どうでもいい。

 そう感じてしまっている時点で半ばゼノ・ロステイトという男の力を認めてしまっているのかもしれないが――まだ納得していない。出来ていない。故にまだ戦い続けるしかない。

 無論、本気で。

 全力でぶつかってこそ、そうでなければ認められないというものもある。

 だから、とアンジェリーナは言葉を継いだ。

「あと一撃、我に加えられれば認めてやる」

 戦い続ければ消耗する。その先の決着など不毛であり無駄でしかない。

「一撃……ね」

「言っておくが、掠る程度のものは一撃とは認めないから」

「わかってるよ、君は意外と神経質なんだな」

「そういうお前も、思っていたより温厚ではないようだけど」

「君にどういう印象があったのか知らないけど、僕は別に聖人でもなんでもないからね」

「ふん……あっそ」

 そんな冷たい言葉とは裏腹に、アンジェリーナの瞳に熱がこもるのがわかる。

 ゼノは短く息を吐いて、少しだけ前に出た。このままこの場所に居れば、確実に背後のドレイグ卿も巻き込まれてしまうだろう。

 アンジェリーナ越しに心配そうに胸の前で手を握るクロルの顔が見えて、ゼノは薄く微笑んで見せた。

 ――恐らく彼女が攻撃手段を変えてくることはないだろう。彼女のその行動から見るに、その性格は素直に真っ直ぐな筈だ。そしてそれを押し通す力を持っている。

 まともにやりあえば到底敵う相手ではない。

 自分の身体はすっかり元に戻っているし、調子も悪くはない。それが確認できたから、正直な所もう満足だ。

 適当に拮抗している風に見せて、致命傷を回避してわざと負けてやれば終わりだ。恐らくそれがバレれば彼女の性格だ、きっと、確実に激怒するだろう。だが終わればそれ以上はドレイグが止めるだろうし、止められれば彼女とて、それ以上手を下すことはない。

 後は流して消化試合だ。

 そこまで考えた所で、アンジェリーナの真紅の瞳がじっと己を見据えていた事に気づく。

 真っ直ぐな、淀みない瞳だ。迷いの無く、真剣な眼差しだ。

 嫌になるくらい似ている。

 否、似ているからこそ、嫌だと感じているのかもしれない。

 ――自分はどうしようもなく無残に敗北した。死んでいてもおかしくはなかった。

 自分は弱い。認めざるを得ない。

 だからそんな己を、その瞳で見られたくないのかもしれない。

 負い目があるから、夢の中で無様に泣きわめいたから。


 『カッコつけて逃げてんじゃねえよ』


 言葉が不意に、脳裏に蘇る。

 そうか、あの時は――フラムと戦ったあの時、後先考えるのをやめて死ぬ気で立ち向かえたのは――あいつのお陰だったのか。

 なら、そうするしかない。

 ああそうだ、だったら立ち向かうしか無い。

 相手が真剣で、本気で挑んできているなら、斜に構えるのはやめて、たとえここで命を落とすことになったとしても、己はいつでも最後まで本気で迎え撃つしかない。

 ゼノは大きく胸の奥底から息を吐いて、そうして己を見つめたままのアンジェリーナへ口を開いた。

「君は良い目をしているんだね」

「……は?」

 少し釣り上がった鋭い目つき。宝石のような赤い瞳。すっきりと通った鼻筋に、薄い唇。それらが、ゼノの脈絡のない台詞によって少し歪んだ。

 彼女は控えめに言っても美人の類だが、ゼノが言っているのはそうではなかった。

「その目に見られて、忘れていた事を思い出したよ。ありがとう――僕も本気で行く」

「ふっ、我に惚れたのか?」

「ははっ、かもね」

 冗談めかして薄く笑うアンジェリーナに、ゼノは同調して笑った。

 直後、二人から笑顔が消える。

 アンジェリーナは静かに手を突き立て、招くように指を折り曲げて誘う。

 ゼノはそれに頷き、身構えた。

 間もなく身体は動き、床を蹴り飛ばすように走り出す。彼女がそうしていたような速さで距離は一瞬にして零にまで詰まり、鋭い拳が彼女の胸元目掛け飛来する。

 が、アンジェリーナの手が容易くそれを振り払う。ゼノはそれでも姿勢を崩さず、逆の腕で打ち上げるように拳を放つ。それを寸での所で顔を上向きに上げ、彼女は顎スレスレの所で拳を素通りさせた。

 故にゼノの総身は無防備に晒される。アンジェリーナは油断なくそれを理解し、腰だめに構えた拳を即座に突き出した。

 ゼノは同時に身を捻り、横に向ける。拳は腹部ギリギリを通過した。さらにそれを見送りながら上半身を後ろへ大きく反らし、そのまま床を蹴り飛ばして、手で地面を受け止める。軽々しく一回転してみせると、それを追ってきたアンジェリーナと視線が交錯した。

「曲芸師か、お前は!」

 向かってくるアンジェリーナに合わせるようにゼノは走り出す。

 二人は同時に拳を突き出し――交差。暫く進んだ所で、まったく同時に足を止めた。

 先に動いたのは、ゼノだった。

「くっ……」

 鋭い拳撃は防ぎきれず……否、防ぐつもりもなく、容赦なく腹部に喰らいついた。骨までは折れていないだろうが、筋肉ごと内蔵に衝撃をぶち込まれたような激痛だった。だから堪らず、その場に片膝をついてしまう。

「ぜ、ゼノさん! 大丈夫ですか!?」

 終わったのだと理解したクロルが慌てた様子で駆け寄ってくる。ゼノは頷きながら、彼女の手を借りて立ち上がった。

 振り返った先には、まったくなんでもないような涼しい表情でアンジェリーナはこちらを向いていた。

 そうしてから、諦めたように肩をすくめて嘆息してみせる。

 彼女の胸元――その衣類が大げさに引き裂け、あわや乳房が露出されそうになっている。そうしてその中央の肌は、痛々しげに赤く染まっていた。

「一撃貰ったし、我の一撃で気絶すらしなかった。わかったよ、もういい……認めてやる」

「いや、僕こそ君に感謝をしなきゃだよ。君のお陰で、僕はカッコつけてスカして逃げる事をやめられた」

「お前の事なんてどうでもいい。ただ決まりは決まりだ、お前が向かう先へ飛んでいってやる」

「ああ……それは良いんだけど、その格好だと寒くないかい?」

「……? いや――」

 言いながら、アンジェリーナは自分の身体を見下ろす。そこでようやく胸元が大げさにはだけている事に気づく。それでも落ち着いた様子で片手で身を抱くようにして、胸を隠した。

「ふふっ、すけべめ」

 アンジェリーナはその瞬間、一瞬だけ頬を緩めて柔和に笑みを作った。

 それだけ言って、彼女はまた表情を引き締めて背を向ける。

「ドレイク様。約束で御座います、この者を認めざるを得ぬと判断しましたので、旅立ちの準備をして参ります」

「うん。二人共ご苦労さま、怪我はないかい?」

「我も、この男も無事で御座います。では」

 頬杖をついて楽しげに見ていたドレイグは、ゼノの横を通って部屋から出ていくアンジェリーナを見送った。

 ゼノはそれを横目に見てから、ドレイグへと視線を戻した。

「申し訳ありません、ドレイグ卿。少しの間、彼女をお借りします」

「ははっ、気にするな。私の言い出したことだしね、ただ――見ての通り真っ直ぐな子だ。少し抜けている所もある。君の行く道は危険ばかりだろうから、くれぐれも気をつけてな」

「お気遣いありがとうございます。ただまず目的地に連れて行って貰うだけなので、彼女とはすぐにお別れになるとは思いますが……」

「ははっ、ならいいんだがね。彼女がどう言うか、どう君を認めたのかまではわからないからね」

「はあ……」

 よくわからない、といった風にゼノは首をかしげる。

 そんな事をしている間に、また後ろの扉が開いてアンジェリーナが戻ってきたのがわかった。

 また旅が始まる――隣のクロルを見やると、ちょうど彼女もゼノの方を向いていた。それがなんだか気恥ずかしくてはにかむと、外套を身にまとったアンジェリーナが強く肩を小突いてそれを妨害した。

「善は急げだ! さっさと行くぞ!」

 執務机の向こう、バルコニーへと向かう彼女の後を、二人は小走りで追っていった。

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