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城郭都市グラン・ドレイグ ⑧ 弟と領主

 簡単に汗を拭い、マッシュが買ってきたらしい趣味の悪い柄物のシャツに着替える。

 それは黒地のシャツだが、腹部へと渦巻くように白い模様が大きく描かれているものだ。器用な染色技術だからそれなりの値がしそうな一品だから気が引けるが、正直な所これを着ている所を人に見られるのは少し嫌だな、とゼノは思った。

 それからマッシュとエルファは、修道女たちと食事の準備をしてくると言って席を外している。

 部屋に三人が残った所で、間髪おかずにロウが口を開く。

「……甘さが足りないな」

 クロルが淹れてくれたらしい紅茶を一口啜って、そう漏らしていた。

 ゼノの居る寝台の端にちょこんと座るクロルは、少しむっとしたような顔で抗議するように口を開く。

「ろ、ロウさんは甘いのが苦手だって言ったからじゃないですかっ」

「……今は甘いものが飲みたい気分なんだ。悪いな、砂糖を借りてきてくれないか」

「もうっ、贅沢品ですよっ」

 せっかくゼノが目覚めたと言うのに、そんなくだらない理由で席を外したくはない。そう思っているのに、そんな矢先にしょうもない話を始める。ロウに少し苛立ちを覚える。

 立ち上がりドアへと向かったクロルの背に、ロウは続けて言葉を投げた。

「ついでに食事の準備を手伝ってやるといい。急がなくていい、ゆっくりで」

「あっ……わかりました」

 立ち止まり、振り返る。ロウは終始むっつりとした顔で言葉を放っていた。

 妙に意味深な台詞の後付に、クロルは少し考えて合点がいった。

 小さい声で返事をして頷くと、彼女もまたこの部屋から去っていった。

 ――先ほどまでの騒がしさから一転、かなり離れた調理場の喧騒まで聞こえてきそうなほどその空間は静寂に支配されていた。


「……もう半年近くぶりになるか、なあ兄貴」

 寝台から上肢を起こして壁に寄りかかる。ロウは椅子を引きずりながら近寄ると、そのすぐ脇で腰を下ろした。

「そうだね。お前が次期国王として世界中を飛び回ってる間に、出てしまったから……もうそんなに経つのか」

 半年。そう言われて、改めて実感する。

 ひょんな事からロイドに誘われて旅立った。それからもう半年が経ち、その一ヶ月前から単独行動をしている。クロルと出会ってからは、まだ一週間……否、眠りこけている間にもう半月ほどが経ってしまったのだ。

 悠長に事を構えているつもりはなかったが、今回の昏睡は手痛い出遅れになってしまったようだ。

「兄貴、ルルが死んだよ。国に戻れ」

 不意にロウがそう口走る。ゼノは一瞬息が止まりそうになったが、普段のむっつりとした無表情を見て、安堵する。ロウは大事な話をする時は眼鏡を弄るクセがあるし、嘘をつくときは決まって真顔だ。

「実際の所はどうなんだ?」

「……元気な様子を振る舞ってはいるが、相当しんどいんだろうな。おれも一週間近く様子を見てたが、ほとんど寝台の上で一日を過ごしていた」

 嘘を見抜かれた事に軽く肩をすくめながら、ロウは正直に事実を伝える。

「だがな、ホントにいつぽっくり逝っちまってもおかしくはない。おれがこうしている間に事切れている可能性だって捨てきれない。居るかどうかもわからないおとぎ話を盲信して、大事な妹の死に目も見れず、妹も大好きな兄貴の事を思いながら死んでくんだ。そんな話って無いだろ……なあ兄貴!」

 話している間にロウの距離が近づき、やがてその胸ぐらを乱暴に掴み上げて声を荒げる。

 ゼノはそれに一切表情を変えずに、小さく首を振った。

「ほんの僅かでも助かる可能性があるなら、僕はそれを信じたい。ルルを死なせたくない……お前だってそう思ってる筈だろ?」

「当たり前だ! だが現実的じゃない!」

「僕だって出来ることなら近くに居てやりたい。だが僕は二人も居ないんだ――どちらかしか選べないなら、僕は最後まで諦めたくない」

「……頑固だな、クソ兄貴」

 呆れたように――だがゼノの言い分はわかっているし、ロウ自身共感するところもある。だから素直に認められず、短く嘆息しながら悪態をついた。

「ははっ、クソ兄貴か……まだ少し迷惑をかけるかもしれないけど、その時はまた頼むよ」

 身体を動かして、足を床に下ろす。全身に力を入れようとすると途端に体中の筋肉が裂けるような痛みが走って、たまらずゼノは顔をしかめた。

「お、おい」

「っ……大丈夫」

 それを堪えて、ゼノは立ち上がる。しばらく寝ていたせいか身体が鈍っていつ様な感覚だ。鉛の鎧でも着ているかのような鈍重さで、気だるい。少しの間目をつむっていると、眼球の奥が闇に引きずられてしまって平衡感覚を失いそうになる。

 慌てた様子のロウに腕を引かれ、肩を貸される。少しして落ち着いたゼノは苦笑交じりにため息をついた。

「情けないな、まったく……」

「兄貴……あんたが強情なのは昔っからだし、まだ家を捨てて軍に入ったって思ってるんだろうが――おれも、ルルも、親父やお袋も」

 それに、と間を置く。ゼノの視線がようやく部屋の中から己に向いたのを確認してから、言葉を続けた。

「あんたの部下たちも、兄貴を待ってるんだ。懐いてた子居ただろ? あいつなんかおれの顔を見るなり、おれの事なんかより兄貴の事を訊いて来てさ」

「……そうか、心配を掛けてしまってるみたいだな」

「そうだよ。あんたは多くの人から忌避されていたが、同時に多くの人から慕われてもいた。ヴェアル帝国のカール将軍ですら気にかけてアクアストに来てたからな」

「か、カール将軍が?」

 ゼノは思い出す。先の戦争で最も苦しめられた優男の顔を。銀髪の長い髪は絹糸のようにしなやかで美しく、顔立ちはもう四十近いというのに若々しく、優しげである。額から左頬にかける一閃の傷跡がなければ、誰も軍人とは思わないだろう。

 ゼノはカールが苦手で仕方ない。単純に彼の実力は異様なほどに高く、ヴェアル軍の要ともなっている人物という事もあって、その支持率も高い。

 何より、カールはゼノを気に入っていた。戦場で他の兵士に目もくれず一直線にゼノの元へと走り寄ってくる様を思い出した彼は、思わず全身に鳥肌を立たせていた。

「兄貴は将軍のお気に入りだからな」

「……そういえば、父上に僕の引き抜きをしに来た事もあったな」

「とんでもない奴だな将軍は」

 だが、今思えば懐かしいとさえ感じる。もし彼がこの旅に同行していたならば、己がこれほど傷つくこともなかっただろう。

「僕は良い人に恵まれてるな……」

「ああそうだ、聞こうと思ってたんだ」

「ん?」

「あの子……クロルの事だ。概ね事情は聞いているが、傍から見て特別な関係に思える。どうなんだ?」

「え? いや、別に……僕は彼女が同行してくれるから彼女を守ると言っているし、また彼女も僕を心配して力を貸してくれている。その気持ちも力もありがたいし――素直ないい子だ、純粋で、可愛いしね。早くこの旅を終わらせて、彼女を元の生活に戻してやりたいと思ってる」

 言われてみて、彼女との関係を再確認する。

 特別な関係といえば特別なものだが、ロウが気にしているようなものではない。

 確かに情はある。だがこの旅でそれ以上は足かせになる。

 己の命がいつまで続くかわからないからこそ、彼女のためにも一刻も早く白銀竜を探し出す必要があるのだ。

「まあいい。あんたは綺麗な子に囲まれて呑気だったと、ルルに伝えておくよ」

 ゼノから離れ、ロウはいつもの無表情でそう告げる。

「ははっ、そうだね」

「ロイドは今、どうしてるかわからないのか?」

「ああ。だが彼の事だ、どうにでもなってるとは思うけど……さすがに深淵の近くまで辿り着いていても、一人で突っ込むことはしないだろうけどね」

「まあそうか。あんたより、あいつの方が死ぬイメージが湧かないからな」

「だろう? 彼はほんとに――」

 言いかけた所で、不意の力強いノック音で言葉を止める。

 二人が促す前に、部屋の扉が力強く開け放たれた。


「失礼する!」

 その姿より先に部屋に届いたのは、凛とした女の声だった。

 ずかずかと遠慮なく部屋に入る女は、明るい緑がかったショートヘアと、その四肢に張り付く大粒の鱗が特徴的だった。身体には板金の鎧が纏われていて、紅い瞳が強気なまでにゼノを睨んでいた。

「グラン・ドレイグ領主であるドレイグ卿がお見えだよ」

 言いながら道を開け、その後を促す。続いたのは、一人の男だった。

 短く刈り込まれた白髪交じりの黒髪、口元から顎まで蓄えられた無精髭。その容貌はまだ若く、四十代といったところだろうか。呼び込まれた壮年の男性――ドレイグ卿は、後ろで手を組みながら、女の見守る中ゼノの前まで歩み寄った。

「君が目覚めたと聞いてね」

「ドレイグ卿――この度はご迷惑をお掛け致しました」

「ああいや、その事に関して気にしなくていい。君の連れの少女から大体の事は聞いているが、要点はわからないままだったからね。それを聞きに来た……病み上がりだろう、座っていいよ」

「申し訳ないです」

 長話になればまたフラつくこともあるかもしれない。そう考えたゼノは頭を一つ下げて、そのまま腰を下ろして寝台へと座り込む。

 壮年の男は先程までロウが座っていた椅子に腰掛けた。

「大体の事は聞いているが、詳しくはわからない。少し説明してもらえるかな?」

「はい。事は一月前から遡りまして――」

 ロウは寝台から少し離れた壁に身体を預けるようにして腕を組んでそれを見守った。領主であるドレイグ卿とは、ゼノが倒れてから一度面会したことがある。クロルから聞いた限りの話と彼の素性を説明したから、そこまでゼノには敵愾心を持っている筈はないようだが……。

 考えながら、扉の前で後ろ手を組み、肩幅に足を開いて仁王立ちしている女を見る。あの鱗、瞳の色を見る限りではおよそ人間ではない。面会の際にはその姿を見ることはなかったが――この城郭都市防衛の要となる騎士の一人だ。

 その推測が当たっているならば、彼女は世界的にもかなり希少な竜人ドラゴニュートということになる。

 その彼女の視線はひどく厳しく、警戒心は最大値マックスといった具合だ。となればドレイグ卿の気分、判断次第で己とゼノは抵抗の間もなく殺害されることだろう。

「――なるほど、理解した。しかしなんだ……深淵の始祖か、まったく妙なものに目をつけられているものだな」

「申し訳ありません。我々の行動が迷惑をかけることになってしまって」

「いや、それに関しては構わない。むしろ君たちの事は我々にとっても勇気を与えるものだったよ。知る人こそ少ないが、こうして深淵へ立ち向かう者は久しいからね。それに君たちは名実ともに実力者だ、もしかしたら――そうは思っていたが、相手から仕掛けてくるのは、私が知る限りでは初めてのことだったが」

「そうなのですか?」

「ああ。ということは、連中もただ無防備に待っていられる訳ではないということだ」

「であれば良いのですが……」

「だが、ここまで手を打ってくるということは、いよいよ深淵へ辿り着いた時には確実に潰しに来てもいい。あるいはそこまでたどり着くよう、敢えてある程度の抵抗をし、それを退けさせ、調子づかせた所で全力で叩き潰すという算段もある」

 少なくとも私ならば、そういう手も手段の一つとして考える。ドレイグはそう言った。

「土地柄、共和国の方まで援軍を出すのは時間がかかるのでね。だから――もし君たちが手が必要になりそうな事になれば、我々もその手伝いをしたいと考えている。こうして君と繋がりが出来たのも、そんな縁だと思っている」

「しかし、それでは危険に晒される事になります。だから私たちは少数精鋭として――」

「危険を承知で戦わぬ騎士は居ないだろう? それに二十年ほど前から、深淵は人が知覚し得ぬ速度ではあるが、確実にその領地を広げている。立ち向かうのだとすればこのタイミングだと思うし、だとすればこれはもはや君たちだけの問題ではなくなる」

 君たちは契機にすぎない。だが世界はそれがなければ動くことは出来ない。

 ドレイグはそう言ってようやく微笑むと、ゆっくりと腰を上げ立ち上がった。

「だが恐らくそれもまだ先の話だろう。君が時間に余裕がなく、だが確実に北へ向かいたいというのならば手がある。傷が癒え、旅立つ前に城に来るといい、良いものを用意しておくよ」

「すみません、至れり尽くせりで……私が滞在している間、何か協力できる事があればなんでもお申し付けください」

 深く頭を下げるゼノに、ドレイグは穏やかに笑う。

「私はケガ人に鞭打つほど非道ではないよ。今回は民が誰も傷つかずに被害も建物だけだ、君が気に病む事は何一つ無いのだし、気にせずゆっくり休んでいるといい」

「……ありがとうございます」

「はは、まるで借りてきた猫のようだな。次顔を見せるときは、元気な顔を見せてくれると嬉しいよ」

 ドレイグはそこまで言うと、そのまま踵を返して部屋を後にする。女は残った二人を一瞥するように睨みつけてから、その後をついていった。

 ゼノは緊張が解けたように深く息を吐くとそのまま寝台に横たわり、ロウも安堵したように短く息を吐く。

 食事を準備しにいった三人が戻ってくるのは、それからしばらくしてからの事だった。

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