城郭都市グラン・ドレイグ ⑤ サラ・マグダード修道院
グラン・ドレイグの修道院は、繁華街の中にある。その中心と言ってもいい――広い道を進んだ突き当りに、その目立つ十字を掲げた礼拝堂の入り口があった。
修道院の一室、窓際の寝台に寝かされているゼノを眺めながら、空気の流れさえも止まっているのではないかと思うほどに静かだと、エルファはそう思った。
あれから丸一日が経った。
対称的なまでに外は大騒ぎだ。
その故はもちろん、昨日の出来事である。
ディーネによる人払いの術が解かれ人が押し寄せると共に、丸焦げになった丸太の衝立や、地面に開けられた大穴、血痕、それらを見て騒ぎ立てている。
しかしその原因を誰も知らない。が、血まみれのゼノが運ばれたのを見たものたちが噂し始めているのは、すでに彼女の耳にも届いていた。
修道院はそれでも彼らを穏やかに、優しく、慈愛の精神をもってして招き入れてくれている。余計な詮索もなく、だからといって不十分な施しで追い出すわけでもなく。
「……」
そこまで考えて、エルファは薄く、細く、極力音を消したため息を漏らす。
静か過ぎるほどの空間に、エルファは気まずさを覚えていた。
――部屋は、窓際に寝台と小さなテーブルを備えている。一晩つきっきりだったクロルは疲れ果て、ゼノの手を握ったまま突っ伏すようにして眠っている。今ではその上に布団を掛けられていた。
それから少し離れた位置、壁際にまたテーブルがあり、二脚の椅子が対面して置かれている。その一方に、ゼノの弟を名乗るロウが座っていた。
クロルが淹れてくれたらしき紅茶のポットを自身のカップに注いで、煽るようにして呑む。もう何杯目かになるそれは、もはや出涸らしというよりは白湯に近い。ロウはそれも気にしていないように、どこから拾ってきたのか、開いている本に視線を落としていた。
エルファはその反対側の壁で、膝を抱えて座り込んでいる。
昼前からここに来たが、それから状況どころか物一つ何も動いていない。彼女が来た時にはクロルは眠っていて布団は掛けられていたし、来室に目もくれずロウは本を読んでいる。
手持ち無沙汰になった彼女は静かに壁に身体を預けて座り込んだまま、そのせいで逆に動けにくくなってしまった。
マッシュはと言えば、夕べのうちに把握しきれていない事態をなんとなく伝えた所、彼はひどく狼狽えショックを受けた様子だった。驚いたように目を見開いて口元を抑え、また寝台に横たわるゼノを眺めていた。しばらくしてからゼノの折れた剣ともう一本を床から拾い上げどこかへ去ってしまってから、まだ帰ってきていない。
そんな雰囲気を察したのか、ふと、ロウが顔を上げる。顔がエルファの方へと動いた気配を覚えて、つられるように彼女も面を上げる。
「……彼女はまだ起きないのか」
ふん、と鼻を鳴らしてロウは口を開いた。
エルファはクロルを一瞥して、穏やかに寝息を立てているのを改めて確認する。
「みたいね」
「もう八時間は眠りこけているようだな。呑気なものだ」
ポケットから取り出した懐中時計を一睨みして、短く嘆息した。
「……あなたは、何の用でここまで来たの?」
「ふぅ」
また開こうとした本を、その問いを投げられて閉じる。短く息を吐きながら身体をエルファへと向け直し、テーブルに頬杖をつきながら脚を組んだ。
横柄な態度だったが、それが妙にさまになっているようだった。ゼノとは対称的なほど険しい表情。眉尻は釣り上がり、眉間にはシワを寄せ、嫌味っぽく眼鏡を押し上げる。
「兄貴が王位継承権を放棄したしわ寄せがおれに来ている。それでふらついてる兄貴に――」
「ちょ――ちょ、ちょっと待って。なに? 王位……なに?」
聞きなれない単語が当たり前のように飛んできて、右から左へと通り抜けていく。
慌てて止めると、ロウはあからさまに面倒くさそうな顔をした。
「兄貴は話していないのか?」
「王位って……王子なの?」
「アクアスト王国のな。兄貴は王子である事を放棄し、軍へと入った。それがどういうわけか、『邪なる者』の退治……そしておとぎ話の化身『白銀竜』探しときたものだ。さすがのおれも頭が痛くなる。あいつは童話の王子にでもなったつもりか」
「へえ……確かに王子サマみたいな綺麗な顔だと思ってはいたけど、ホントに王子だったなんて。世の中は広いような、狭いような」
そんな風に言ってはいるが、正直彼女自身実感は一切ない。
つう数日前の夜には彼と語り合い、その秘密さえも共有したというのに。
そしてまた、ロウはどうやらその秘密――ゼノの心臓の事は知らないようだ。だからといって、知らせる権利は彼女にはない。恐らく教えればロウも何かしらの協力をしてくれるかもしれないが、それでもゼノは隠し通すかもしれない。
「おれは兄貴を連れ戻しに来た。妹が病に伏せっていて、確証もない伝承の存在を探している時間もない」
「……そんなに、もう、危ないの?」
「いや、おれには皆目見当もつかない状態だ。本人は元気を装ってはいるが、もう歩くことすらままならない。これから一年もつかもしれないし、明日にはぽっくり逝ってしまうかもしれない。そんな時に兄貴は一度、顔を見せに来ただけだ」
「だから、ゼノは白銀竜を探してるんでしょ?」
「居るかどうかもわからないのに、か?」
「居ない証明はないじゃない。火のないところに煙は立たないって言うし、おとぎ話だけじゃなく、伝説や伝承で語り継がれてる事実があるなら、可能性は捨てきれないと思うわよ」
「だからと言って探してすぐに見つかるものでもない。たとえ見つかったとしてそれが妹の病を治してくれる確証もないし、あるいはもう手遅れになっているかもしれない。だというのに――」
「――待って。ごめん、謝るわ」
エルファは手を伸ばして言葉を遮る。なんだ、と言わんばかりの顔に、彼女は続ける。
「こんな所で部外者が言い争っててもしょうがないわ。それに、もし彼らが起きた時にこんな雰囲気って……嫌じゃない?」
「……それもそうだな」
同調するように、ロウは小さく頷いた。表情は険しいままだが、エルファは決してそれを好きでやっているわけではなく、単なる彼の真顔である事に気づく。
会話が終えると、またロウは本に視線を落とす。身体の向きを変えない為、その背表紙がエルファにも見えた。そこには『初心者のために薬学書』と記されていた。
彼もまた必死なのだ、とエルファは思う。
自分だけが、何も出来ていない。奇妙な焦燥感と喪失感が胸の奥底で湧くのを感じながら、彼女は抱えた膝に顔を埋めた。
――不意にドアを叩く音がする。しばらく待って返事がない事を確認して、そこが開いた。
「ひゃっ」
女が声を上げる。
黒い修道服姿の彼女は驚いたようにエルファとロウを見ると、ほっと胸を撫で下ろす。
「も、申し訳ありません……ただいらっしゃるなら、声を掛けて貰っても……?」
「ああ……ごめん、ちょっとウトウトしてた――何か用?」
エルファは大きなあくびを手で覆うようにして隠しながら立ち上がる。
対面すると、エルファより少し背丈は低い少女だった。顔は若いというよりはまだ幼さを残していて、艶やかな黒髪は軽く横にわけられている。修道服姿というのもあって、その背格好には可愛らしさが付きまとっていた。
「はい。ゼノ様の容態の確認と……意識が戻っていらしたら、ガラム様のお話をと思いまして」
「ガラム?」
「はい。ゼノ様は先日、ここにガラム様の居場所を訪ねに参りました。ガラム様は伝記や伝承に詳しい方で……彼は定期的にこの修道院に人を集めてお話をされていました。私も好きでよくそのお話を聞いていましたので、お力になれれば……と」
彼女はそう言いながら部屋の中を進んでいく。寝台の隣に布団が落ちているのかと思えば、夕べからつきっきりだった少女が眠っていることに気づいて忍び足で音を消す。
声を小さく、窓際側へ回り込んでゼノの顔色を伺った。
「この方がここを訪れた時、妙な胸騒ぎがしたのです。同時にひどく苦しそうな表情をして倒れそうになって……何があったかはわかりません。ですがその時、その事を説明して足を止められていたらこんな事にはならなかったんじゃないかって……」
顔色は悪くはない。手を伸ばし、首筋に指を添える。脈拍は正常で、力強い。呼吸も落ち着いている。
だが目覚めなければ、彼に栄養を補給させる術がない。
話に聞く限りでは、ここに運ばれてきた時点で相当体力を消耗していたという。そのまま眠り続けていたとしても、回復するものも回復させられない。
「たらればっていうのは良くないってわかってはいるんですが、どうしても考えちゃいますね」
そこまで言って、少女はようやく顔を上げた。困ったような顔で、切なげに笑ってみせる。
そこでようやく本から顔を話したロウは彼女を一瞥するなり、大きくため息をついてみせた。
「バカな兄貴が迷惑をかけて申し訳ない。こいつが目覚め次第、アクアストから寄付を送らせるからしばらくはよろしく頼む」
「あ、いえいえ……困っている時はお互い様ですから」
彼女はそう微笑んで、あ、とまた口を開く。
「申し遅れました。私はナナ・マグダード……基本的には私が何か御用の際は対応させて頂きますので、何かあればお伝えください」
「ええ、よろしく」
「しばらく迷惑をかける事になるが、こちらも出来ることは協力させて貰う。お前の言うお互い様、ってわけだ」
「ありがとうございます。それではまた……お食事がまだでしたら、ご用意致しますがいかがしますか?」
「おれ達の事は気にするな。あんたも構わないだろう?」
視線を送られたエルファは頷き、言葉を返す。
「そうよ、ただの見舞いでご飯を食べに来たわけじゃないんだから。気を使わないでいいわよ」
そんな言葉にナナは微笑んで頷く。その柔和な微笑みは、さすがシスターと言うほどに慈愛に満ちているようだった。
「それでは失礼致します」
彼女はそう言って頭を下げると、ドアの向こうへと消えていく。
エルファはそれを確認してから、しかしどうあってもやることがない事にいい加減うんざりしていた。
ロウは動く気配もない。クロルはまだ眠っていて起きる様子もないし、マッシュも帰ってこない。
「ちょっと離れるわね」
「……ああ。どこかへ出掛けるのか?」
「うん、暇だし」
「そうか」
ロウは特にそれ以上は話さず、また足を組み直して本のページをめくる。
エルファはそれにクスクス笑いながら茶化した。
「なに、寂しいの?」
「兄貴じゃあるまいし……さっさと消えろ」
ロウは本から目を離す事無くそれだけ告げて、椅子ごと彼女に背を向けるように身体の向きを変えた。
つまんないやつ、と心のなかで独りごちながらエルファは部屋を後にする。
さて、外へ出るのは良いが、何をしようか。
修道院から出て見上げた空は、まだちょうど太陽が真上まで登ってきたばかりの頃だった。




