城郭都市グラン・ドレイグ ④ 魔術師クロルの初陣
丸太を乗り越えて外へ出る。
肌がピリ、と少し焼けるように熱い。太陽の熱射ではない――なぜ気づかなかったのだろう。
宿には人がいる。だが外には、温泉にすら誰も居なかった。これは彼が言ったように人払いの魔術が掛けられているのだ。強烈な違和感……妙な胸騒ぎがするような、嫌な感じ。常人ならば、進んで外に出る気がなくなるような気配。
己や、エルファなどある一定水準以上の魔術的な能力を持たなければ適応できない程度の力だが、一般人ならば効果は十分と言った所なのだろう。
――クロルは改めて前を見据える。
もうもうと巻き上がる砂煙の中、赤い甲冑はその表面だけを焼き焦がして立ち上がっていた。
効いていない――否、ダメージは確かに通っている。だが最も、それはクロルが予想より遥かに軽いものだが。
ゼノをあれほどまで痛めつけた相手だ。この程度で終わるわけがない。
「クソガキィッ!!」
短い咆哮が、一瞬空間を激しく震わせた。
思わず身が竦む。怖くない訳がない、今にも逃げ出したい気持ちで一杯だ。
だがそうするわけにはいかない。この男を倒さなければ、恐らく逃げ切れない。
恐怖を表出するな。知られればつけ込まれる。
クロルは指先で腿を力いっぱいつねってそれを抑え込んだ。
「あなたは、強い。強くて、鋭くて、とても恐ろしい……だけど、それだけです」
フラムが動き出すよりも速く、その男を包囲するように無数の魔法陣が彼の周囲に展開した。
「――ッ!?」
理解より先に、幾つもの光線が同時に己を照射した。
一閃、ニ閃、三閃……腕を、足を、腹を、空間を歪ませる波動が指向性をもってフラムへと叩きつけられる。幾重にもなったそれが、だがしかし、ただ一つの轟音となって響いていた。
フラムの肢体が跳ねるように何度も叩きつけられ、浮かび上がり、また叩きつけられる。
それでも耳に届くのは痛みに喘ぐ呻きではなく、怒りを催し堪えきれず漏らす唸りだった。
ここで終わらせるしか無い――最後の一撃を、狙いを定めて陣を展開する。それはフラムの頭上に広がり、最大出力の波動を為に唸りを上げて力を集中する。
「甘ェ!」
叫び声とその爆撃は、殆ど同時だった。
つい一瞬前まで宙空で跳ねていたその肢体が、絶望的な攻撃を前にして尚立ち上がっていた。そして同時に全身が炎に包まれた――そう認識した刹那には、その姿は灼熱の尾を引いて疾走していた。
ほんの数瞬遅れて、彼の背後から壊滅的な破裂音が響く。その男を破壊する為に放たれた波動が大地の表皮を引き剥がし、空間を激しく振動させる。
だが遅い。
腹の奥底が鋭く痛む。緊張、恐怖、後悔、それらの感情が濁流となって押し寄せる。瞳いっぱいに涙が溜まる。
落ち着け、まだ後悔するには早計すぎる。
フラムの動きを先読んで大地に術による爆弾を仕掛ける。即座に陣をいくつも連ねる――が、彼が陣を踏み抜き爆発を誘発した瞬間には既に、その姿はさらに先を進んでいた。
爆発が連続し、凄まじい速度で肉薄する。
恐怖が増す。
涙が頬を伝う。
ダメだ、己を守る事しか出来ない――。
「……っ!」
やがて為す術もなく、その拳がクロルへと振り下ろされた。
「チィッ!」
だが拳は彼女に触れる事が出来ず、強い反発によって攻撃が弾かれる。振り下ろした強さの分だけフラムの身体が後ろへ弾む。気がつけば、彼女の周囲には分厚い膜のような防御壁が展開されていた。
落ち着いて様子を見れば、彼女の足元には、彼女が手を広げたほどの大きさの陣が描かれていた。
フラムはまた舌を鳴らす。術の強さ、展開の速さ――決して侮れる敵ではない。だが致命的なまでに場慣れしていない。まるでつい先日まで外に出たことがない子供のようだ、とクロルを評す。
押し切れる。つまり今己がすべきことは、彼女の精神を掻き乱す事。術への集中を途切れさせ、その隙に叩きのめす。
だからフラムは野性的なまでに野太い咆哮を上げ、また傍若無人に拳を振り下ろす。何度も何度も、鈍い音を立てながら無意味なほどに防御壁を叩く。
「うぅ……」
クロルは、己を奮い立たせる術を知らない。
この男はあのゼノをあれほどまでに痛めつけたのだ。なぜ彼はあそこまで傷つきながらも戦えるのか、今の彼女にはわからない。
足が小刻みに震えだしてしまったのを契機に、やがてその恐怖が身体から、そして心の奥底にまで伝播する。
もうダメだ。諦観が、恐怖が、勝手に勝負を放棄する――。
「なん、で……!」
エルファは全神経を手元に集中させていた。エルフは術の扱いに長けている。中でも治癒の術などはエルフ族の持つ特徴として代表的なものでさえある。
だというのに、腹部の出血は一切止まる気配がない。
正確には血は止まっている。だが傷は塞がる様子がないのだ。己の持つ全ての魔力を注いでいるというのに、こんな事などあって良い筈がない。
顔からはどんどん血の気が引いていく。朱色だった頬はいつしか白く、やがて青ざめていくのが見ていてわかる。いつ呼吸が止まってもおかしくはない――。
「……っ!?」
不意に己の手が、冷たい何かで抑えつけられる。
驚愕が理解を遅延させた。
血まみれの手が、エルファの動きを制止したのだ。
「はぁ……はぁ……っ! 奴は……、クロルは……?」
血走った目を見開き、ゼノは上肢を起こす。怪我の痛みに顔をしかめるが、それでもその動きは止まることがない。
「ダメよ! まだ怪我が――」
エルファの声など届かぬように、ゼノは制止を逃れるように身体を動かした。
その顔に浮かぶのは怒りや憎しみなどではなく、焦燥感、必死感、それの類するものだった。
「あそこか……!」
身体を起こし、立ち上がった視線の先。ゼノはそこに目的のものを見つける。
クロルが身を縮こまらせ、その周囲をフラムが殴りつけている。よく見れば防御壁である膜が、徐々に薄くなっているのがわかる。
ゼノはそれから、己の手の中に武器がない事に気づく。同時に反射的に背負っているもう一本を引きずり下ろした。
大地を強く蹴り飛ばして疾走――同時に鞘を投げ捨て、剣を振り抜く。
フラムの拳がやがて、完全に彼女の防御壁を破壊した。透明感のある鋭い破砕音、ガラスが砕かれたようなそれが響いた。
鉄仮面の下で男が満面の笑みを浮かべるのがわかる。
寸分の狂いなく、数瞬の予断すらなく、また当然のように拳が振り下ろされる、瞬間。
「――ッ!!」
喉が張り裂けんばかりに叫んだつもりが、声は出ない。だがそれと共に力強く振り下ろされた白刃が、無防備に晒されたフラムの肉体を袈裟に切り裂いていた。
「ガ――ッ!」
短く低い悲鳴。フラムはたたらを踏んで、それからようやく知覚する。
己の胸、その甲冑ごと深く刻まれた傷。ゆっくりと流れ出す熱い鮮血。
改めて顔を上げた先に、もはや死に体である男が再び、今度は身を挺して少女の前に立ちはだかっていた。
情けないほどに必死そうな表情。だが故に、その姿は子を守る獅子の姿を連想させる。
「ぜ、ゼノさん……!?」
「クロル……援護を、頼む」
呼吸をするだけで全身に痛みが響き、その度に意識が吹き飛びそうになる。今の己に、一人でフラムを倒せるとは思えない。
クロルは彼を制止することが出来ない。言われるがままに、己の周囲に幾つもの陣を瞬時に展開。同時に、眩い閃撃が鋭くフラムへと降り注ぐ。
やはり速い――腕を、脚を、全身を弾かれ、姿勢が崩れる。その刹那に、肉薄したゼノの一閃が死神の鎌のようにフラムの首筋へと迫る。
瞬間、その動きが停止する。
否。
「――!?」
ゼノは腕を動かす事が出来なかった。
骨がへし折られんばかりの強い力で、その手首を握られたのだ。
「もうオシマイ、勝負あり」
女の声が、そう告げていた。
ゼノは視線を上げる。その先には、一人の華奢な女が立っていた。
死人より濃い青紫色の肌。紫水晶のような瞳。波打つ緑がかった髪。
そのグラマーな身体を包むのは黒い外衣に、腿丈の短いスカート。その姿に、一切の見覚えはない。
振り払おうとゼノは力を込めるが、しかし腕は微動だにしなかった。
「まったく……様子見だって言ったのに、何をやっているのかしら? あなたは……」
女はラフトを睨みつける。彼が何かを言おうとした瞬間――その身が、一息の時間も置かずに石へと変貌する。動きかけた姿勢のまま、まるで最初からそうしてあったかのように彫像へと姿を変えたのだ。
「な、何者……だ……?」
「あら、ごめんなさい」
ゼノがようやく声を絞り出した所で、彼女は今気づいたかのように手を離す。
危害はないようだが……ゼノは女を睨みながら、数歩ばかり後ずさる。
「可哀想に、こんなに傷ついてしまって……可愛いお顔が台無しですわ」
それを追うように女は近づき、手を伸ばして、ゼノの頬に触れた。
「ああ……エルフ程度の魔力ではダメですわ。少し強めに――ふっ」
刹那、触れあった肌を通して強烈な何かが全身を巡る。衝撃に身体が僅かに弾み、意識が吹っ飛ぶ。
女はゼノの背に手を回すとその身体をしっかり受け止め、ややあってから、ゆっくりと地面へと寝かせるようにおろした。
「なん……わたくしの力でも全快に出来ないなんて……あなたは一体、どれほど侵されて……」
見下ろす青年の身体は今や傷一つ無い――とは言い難い。だが露出した頬の骨や、腹部の傷は見事なまでに塞がっている。だが女の見立てでは、ただ塞いだだけである。まだ細胞は損壊したままで結合しておらず、骨は辛うじて繋いだが内蔵も損傷したままだ。
先程までのすぐに命にかかわる危機は脱したものの、未だ危うい状態であるのには変わりない。あとは本人の治癒力、体力に任せる他ない。
「少し……楽にしてあげますわ。その心臓では、長くは保たないから……」
女はひどく悲しそうな顔をした。本当にゼノを心配し、憂いているような表情だった。
彼女はそう独りごちながら、指先を爪で切る。皮膚が裂け、滲んだ血液――その滴る一滴が、倒れているゼノの口元へ落ちた。鮮血が染みていくように、青白い顔色にゆっくりと朱が差し込んでいく。
そんな青年を見てから、女は顔を上げる。その先に、涙をいっぱいに浮かべたクロルの姿を見る。
女はそれに微笑み、安堵しろ、と告げた。
「大丈夫ですわよ。このままゆっくり休ませておあげなさい、もう戦いは終わったし、今日彼がこれ以上傷つくこともないですわ。まだ状態は安心できるものではないですけれど……彼を信じるのが、あなたの仕事でしょう?」
「はい……」
頬を伝う涙を拭いながら、クロルは短い呼吸を何度か繰り返して落ち着きを取り戻す。
ややあってから、
「あなたは、何者なんですか?」
そういった問いに、女はまだ己が名乗っていない事に気がついた。
「わたくしは、ディーネ・ウィフト。そこの男の姉であり、ジャーク・ウィフトの娘」
ですが、と身構えるクロルへ言葉を続ける。
「わたくし自身はあなた方と争うつもりはありませんわ」
「じゃあ……なんで、もっと、早く止めなかったんですか」
一転して泣き顔が、怒ったような睨みつける表情に変わる。そんなクロルを見て、ディーネは口元を指先で隠すようにして笑った。
「それが父様の意思でしたので」
「……あなたは、敵です」
まともな判断をしているように見えるが、尋常ではない。クロルは全身が粟立つのを感じながら、短く言って敵愾心をむき出しにする。
「敵だとか、味方だとか、そういった極端なお話ではありませんわ」
困ったように、女は顎に指を添える。それから思いついたように、人差し指を立ててみせた。
「そうだ、親愛の証としてあなたに一つ良いことを教えて差し上げましょう」
クロルは動かない。それを確認しながら、ディーネは続けた。
「彼、ゼノ・ロステイトの呪われた心臓、その真価は――」
言いかけた瞬間、彼女の首が空を仰ぐ。
クロルもようやくそこで気がついた。つられるように上を向いた瞬間、太陽に重なった黒い巨大な鳥の影と、その怪鳥の甲高い鳴き声が響き渡った。
遥か上空から、それが何かを落とした。
正確には何かが落ちてきた――確認する暇もなく、その影が、大きな音を立てて地面へと着地する。激しい衝撃と大地を叩く音、そして立ち込める砂煙。
それをかき分けて出てきたのは、赤い外衣を身に着け、眼鏡を掛けた男だった。
「あら、めんどくさいわねえ」
ディーネは言葉を継ぐ事無くそう呟くと、大きなため息を付いて指を鳴らす。すると空間全体が割れたような気配とともに、最初に感じたピリついた違和感が吹き飛んだ。
人払いの術が消えたのだ。
そうして彼女は言葉もなくクロルに笑顔で手を振ると、また指を鳴らし――ラフトの彫像とともに、まるで最初からそこに存在していなかったかのように姿を消した。
「――なっ、消えただとっ!?」
空から落ちてきた男はそう叫ぶ。クロルは咄嗟に倒れているゼノの前に立ちはだかり、叫んだ。
「止まってください! あなたは何者ですかっ!」
「待て――そこに倒れてるのは、ゼノ・ロステイトだろう!?」
「だったらなんですか!」
「おれはロウ・ロステイト、そいつの弟だ」
風で乱れた短髪を整えるようにして歩み寄り、そうしてゼノを改めて確認する。
顔色は悪くない、が全身血まみれだ。出血は止まっているようだが――。
「話は後だ。早く修道院へ」
「……わかりました」
ロウ、と名乗った男は倒れたゼノを軽く肩に担ぐようにして、街へと急ぐ。
ようやく着替え終え出てきたエルファに目で合図しながら、クロルもその後を追っていった。




