第五十五景【ドーナツ】表
また新たに。
張り詰めた空気の教室、普段なら気にならないシャープペンシルの先が机に当たる音と紙を触る音、そして時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
空白のままの解答欄と対の問題文とにらめっこをしていると、終了のチャイムが鳴り響いた。
「はい、裏返してうしろから回して!」
途端にどよめく生徒たちに、すかさず教師が声をかける。
うしろから渡された解答用紙に自分のそれを重ねて前に送り、和奏はようやく息をついた。
「終わったぁ……」
ホームルームを終えて教室を出ると、廊下には既に梨沙の姿があった。
名を呼ぶまでもなく、こちらに気付いた梨沙が駆け寄ってくる。
「おつかれ。どうだった?」
「今日は聞かないで〜」
空白のままの解答欄を思い浮かべて苦笑する和奏に、梨沙が笑いながら鞄をかけ直した。
「行くよね?」
「もちろん!」
力強く即答し、和奏は梨沙と歩き出す。
校内の生徒たちは誰も彼も期末考査を終えた解放感に満ちているようだった。
先程までの緊張など欠片も残らぬその様子に、やっと長く苦しいテスト期間が終わったのだと実感する。
「期末は教科多いから、ホント大変だよね」
学校から十分ほどの最寄り駅までの道を歩きながらぼやく和奏。
「中間も同じだけあるよりいいじゃない」
「そうだけどそうじゃなくて」
当たり前だが腑に落ちない梨沙の言いようには苦笑するしかない。
むくれる和奏に笑う梨沙。楽しそうな様子に毒気を抜かれ、和奏も息をつき表情を緩めた。
すっかり色の変わった街路樹の下を、いつものように梨沙と並んで歩く。風も冷たくなり、いつの間にか秋から冬へと変わってしまったのだと感じた。
体育祭に文化祭と、大きな行事に追われる間に二学期も終わりに近付いて。期末考査が終わり残るのは、進路選択に向けた三者面談。
この期末を大きく落としていなければ、第二関門突破というところだろうか。
今更の焦りに手を握りしめていると、隣からどうしたのと声をかけられる。視線を向けると、梨沙は一瞬目を瞠った。
「今日の残りくらいゆっくりしたら?」
それから張り詰める自分を緩めるように、穏やかに微笑む。
「大丈夫。和奏はこんなに頑張ってるんだもん」
余程追い詰められた顔でもしていたのだろうか、どうやら何を考えていたのか気付かれていたらしい。
「ちゃんと見てくれてるよ」
「……うん。ありがと」
その笑顔に焦る気持ちが解けていくのを感じながら、小さく礼を返した。
小さな頃水族館で参加したイルカとの触れ合いイベント。つぶらな瞳で自分を見つめてくれるイルカがかわいくて仕方なかった。
そのあとに観たイルカショーでは、イルカたちはとてもかっこよく。そんなイルカたちと心を通わせショーを盛り上げるお姉さんは、とてもキラキラ輝いて見えた。
単なる子どもの憧れだろうと、一度は諦めたドルフィントレーナー。
高校生になり、いざ職に就くことを前提に将来と進学先を考え始めたその時に、まだ胸の奥で輝きを失わずにいるその夢に気付いた。
どうすればなれるのか、そのために何をすればいいのか。夢破れた時にはどう取り繕えるのか。必死に調べて自分なりに道筋を立て、両親を説得した。
専門学校ではなく大学に進学することを選んだのも、少しでも選択肢を増やすため。たとえ遠回りになったとしても、それで両親が安心できるならと思った。
この期末の結果で目標の大学を第一志望にできるかを判断することになっている。
応援すると言ってくれた両親と、今も隣にいてくれる梨沙にいい報告ができればと思っている。
駅前の商業施設にやってきたふたりは、まっすぐドーナツショップに向かう。
テスト明けの帰り道にここに立ち寄るようになったのは、一年の三学期に和奏が梨沙に勉強を教えてもらうようになってから。
お礼におごると言った和奏だが、梨沙にはおごられるよりもまた一緒に来たいからと断られ、二年になって違うクラスになってからもテスト明けの寄り道は続いていた。
店ではそれぞれドーナツひとつとホットカフェオレを頼んで席に着く。湯気の上がるカップを前に、改めてふたりで息をついた。
「終わったなぁって感じがするよね」
カフェオレをひと口飲んで、しみじみと呟く和奏。
「和奏いっつも言ってるよね」
「だってぇ」
本来はどこまでも続く勉強の日々。テスト明け恒例になったふたりでのお茶は、ひとつの区切りと労い、そして先へのやる気を与えてくれていた。
この時間を楽しみに踏ん張ることができているのだから、付き合ってくれる梨沙には感謝しかない。
「楽しみにしてたんだもん」
返した言葉に嘘偽りはない。
だからこそ少し照れくさく、和奏は梨沙を見ないまま目の前のドーナツを紙でくるんで持ち上げる。
今日は何にしようか迷った結果、選んだのはチョコレートの掛かったオールドファッションドーナツ。ふわふわのイーストドーナツもサクシュワ食感のシュードーナツも捨てがたかったが、今の気分はサックリ、そしてどっしりなこれだった。
かじるとサクッとした歯ごたえにチョコレートの甘さ。存在感のある生地の重さが集中力を使い果たした今はありがたい。
存分に甘さを味わってから、ほんのり苦いカフェオレで口内をリセットする。
味覚も、気持ちも。
こうして改めることで、また新たに向き合えるものなのかもしれない。
そんなことを漠然と考えながら、和奏はまたドーナツをひと口食べた。
「梨沙、それ好きだよね」
向かいでいつものもっちりドーナツを食べる梨沙になんとなく思ったことを口にすると、ドーナツを片手にカフェオレを飲んでいた梨沙はきょとんと和奏を見返す。
「そうだね、ひとつしか食べないならこれかなぁ」
いつもマイペースなのに、それを周りに押し付けることがない梨沙。一緒にいながらも互いに自分のリズムを保つことができる、そんな不思議な空気感があった。
「和奏は色々食べるよね」
「だってどれも美味しそうなんだもん」
ショーケースにずらりと並んだドーナツに、毎回悩んだ末のひとつを決める。
次はそっちにしようと思いつつ、次はまた迷うのもいつものこと。
「和奏らしいね」
その様子をよく知っているからか、なんだか生温い眼差しを向けられた。
少々の気恥ずかしさと、こうしてわかってくれている嬉しさと。言い出せぬ感謝とともに、カフェオレと一緒に呑み込んだ。
少し背伸びをして入った自分とは違い、家から一番近いからという理由でこの高校を選んだ梨沙は、一年の時から成績が良く。テスト前の対策勉強など特に必要ないだろうに、放課後一緒に残って勉強をし、わからないと言えば基礎まで遡って教えてくれた。
返ってきたテストを見直してわからない時も、わかるまで付き合ってくれる。
何に躓いていたのかが明確になっていくことで、確実に積み重なっていく理解と実感。頑張れていると示されることで得られる達成感と、喜んでくれる梨沙の姿がまた新たな力となってくれていた。
抱く感謝はひとつではない。
そして何より、こうして一緒に過ごしてくれることが嬉しいのだ。
「……ありがとね」
零れた小さな呟きは心からのもの。これからもこうしてふたりでひと息つくたびに、また新たな感謝を覚えていくのだろう。
「何か言った?」
見つめていたカップから顔を上げると、怪訝そうにこちらを見つめる梨沙と目が合う。
「ううん。なんでもない」
今はまだ言い切れぬ感謝は、自分が夢に近付けたいつの日にか。
その時には少しくらい何かを返せるようになっていればいいのにと思いながら、今はただ笑みを返した。




