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第五十四景【夕焼け】

 あの空の下で。

 住宅街へと向かうバスは不規則な振動を伴いながら、決められた道を走っていた。

 駅方面ではなく通学通院のために組まれたような経路を辿るからか、夕方の帰宅ラッシュの時間帯だというのに車内も空席の方が目立つ。

 ふたり席の窓側に座り、彼女はぼんやりと過ぎる街並みを見つめていた。

 夕日は既に遠く建物のうしろに隠れてしまっていたが、まだ名残と呼ぶには強い光が空をオレンジ色に染めている。直接照らされているのだろう、ぷかぷかと浮かぶ雲は一際眩く輝いていた。

(よくこうやって外を見てたよね)

 懐かしさに浮かぶ笑み。

 もちろん窓の外の風景をすべて覚えているわけではないが、それでも時折見覚えある景色が過ぎていく。

 高校の通学に使っていた路線バス。大学へは電車通学になり、すっかり乗る機会がなくなった。

 今日はサークル活動での他校交流試合で、よその大学へと行っていた。解散した現地からは、一度大学に戻ってからよりバスを乗り継いだ方が早かったのだ。

 二年振りの景色を眺めながら、なんとなく昔を思い出していた。



 友達に誘われて、小学校三年生の時に地域の人が教えてくれるバレーボールクラブに入った。上達することより楽しむことに重きを置いたクラブであったが、いいプレイをすると周りの大人たちが褒めてくれるのが嬉しかった。

 中学校でも部活で続けた。まだ初心者が多い中で四年のアドバンテージは大きく、経験者としてチームを引っ張る立場となれた。

 もちろん高校でも迷わずバレーボール部に入った。しかし中学の時とは違い、周りはほぼ経験者ばかり。身体的にも技術的にも抜きん出たものがない自分はすぐに埋もれてしまった。

 中学時代の万能感など粉々に砕かれ、ただ皆に置いていかれないようにと足掻く日々。朝早くから暗くなるまで部活に明け暮れ、それでなんとかついていった。

 いくら頑張っても人並みでしかなく、頑張ることをやめれば置いていかれる。

 どうにもならない状況が情けなく、諦められない自分が苦しくて仕方なかった。



 雲の反射が弱くなり、透き通るオレンジの空は落ち着いた黄赤へと変わった。夕焼け空を背にした建物は暗く色を落とす代わりに白い明かりが並ぶ。

 その苦しかった時期をどうやって抜けたのか、正直あまり覚えていない。

 ある日ふと自分の努力を認められるようになって、それからはとても気持ちが楽になった。

 少なくとも自分は人よりもほんの少し長い間、諦めずに粘り続けることができる。

 頑張らないと追いつけないのは同じでも、頑張らなければではなく、頑張りたい、頑張ろうと思えるようになった。

 やっていることは変わらないし、できることも変わらない。しかしそれからは純粋にバレーボールを楽しむことができている。

 選手として残せたものは何もないかもしれないが、部員としては充実した最後を迎えられた。

 気持ちを切り替えることができたお陰でバレーボールを嫌いにならずにいられて、今も大学のサークル活動として続けている。

 思う結果は得られずとも頑張り抜くことができた。そのことだけは、ささやかながら誇れるものだと思っている。

 到着した最寄りの停留所でバスを降りた頃には、真上の空は淡い藍色に変わり、西の空に夕日の名残を残すのみとなっていた。

 周りが夜よりも明るいせいで街灯はまだその白さも目立たず、一面薄闇のフィルターを纏ったようにその色を沈ませている。

 夜とは違った暗さの中を家へと向かう途中には、昔よく遊んだ公園があった。今はすっかり様変わりして、鉄棒とベンチ、そして申し訳程度の花壇があるだけだ。

 あの頃の景色はもうないが、朧気ながら覚えている光景はいくつもある。

 逆上がりができなくて、躍起になって練習したのもこの公園だった。

 見上げるほど大きなハクモクレンの木は、青い空を背景に咲き誇る白い花がとても綺麗だった。

 幼い頃は毎日のように遊んだ場所。当たり前ともいえるが、中学高校と進むにつれ足を踏み入れることもなくなくなった。

 ハクモクレンの木の撤去に伴い長く封鎖されていたが、高校を卒業する直前には改装も済み再び開放された。

 もちろん名前は変わらず同じ公園。しかし記憶と大きく違う光景はどこか寂しく、以前以上に足を踏み入れる理由を失った。

 いつもより強く感じる懐かしさは、きっと久し振りにあのバスに乗ったからだろう。

 暫く公園の外から懐かしい景色を重ね見てから、高台にある家へと帰る。

 ただいまの声を、母親からのおかえりとピィピィと賑やかな小鳥のさえずりが迎えた。



 荷物を置いてリビングに行き、鳥籠を開けて手を入れる。

「しろちゃん、おいで」

 鳥籠の中の白文鳥は暫くキョロキョロと辺りを見回していたが、そのうちちょんちょんと跳ねながら近付いてきた。

 手のすぐ前で止まり、首を傾げてからチッチッと鳴く様子を微笑ましく見つめる。

 大学の友人が飼う番の白文鳥に雛が五羽生まれたと聞いて、見せてもらいに行った。

 あまりにかわいいかわいいと友人が言うので見てみたかっただけ、飼うつもりどころか今まで小鳥を飼ったこともない。それなのに、じっと自分を見上げるこの子とどうしても一緒にいたくなってしまった。

 両親を説得し、友人に飼い方を一から教わり、迎えた白文鳥。もうすっかり成鳥だがよく懐いてくれている。

 手の上に乗ってくれたので、そのままそろりと鳥籠から出した。

 辺りを見回したあと、白文鳥はパタパタと窓際の棚の上へと飛んでいく。事前に窓も扉も閉めてあるので慌てることもなくあとを追った。

「そこ、好きだよね」

 高さ一メートルちょっとの棚の上に、いつも窓の外を見るようにとまる白文鳥。つられるように同じ方向を見ると、沈みきった夕日の残光が僅かに空と建物の境目に残っている。

 赤とも橙ともつかない色合いには確実に暗く夜闇が混ざり、空が明るいころにはまだ黄色を経てからだった淡い藍空も今はすぐに濃紺となる。

 どこかまだ明るかった夕焼け空から宵闇へ。

 ふと、見覚えのない夕方の風景が脳裏に浮かんだ。



 ―――一面の田んぼが夕日に輝いていた。反対の山側は既に暮れ始めて薄暗く、正面に大きな木木がある。

 その下に場違いなほど赤い風船がひとつふわふわと浮いていた。

 やがて田んぼ側の空も僅かに赤みを残すのみとなり、山側の空は段々と夜へ向かう。それに従い周囲も暗さが増していき、ざわざわと揺れる木の影になるからか、赤い風船の周りも影が濃くなり何もわからない。

 最初はとても落ち込んでいて、苦しい気持ちだった。

 それがいつの間にか和らいで、大丈夫だと思えるようになっていた。

 真っ暗になってしまう少し手前で、一筋の光が闇を割いた。

 自分の手には赤い風船が握られている。

 振り返り、手を振る先。泣き出しそうにも思える笑顔で、君なら大丈夫だと言ってくれたのは―――。



 ピィ、と鳴かれて我に返った。

 白文鳥を見ると、じっと自分を見つめている。

「……しろちゃん」

 なぜか胸がぎゅっとなって、白文鳥に手を伸ばす。優しくその体を撫でていると、いつものように首を傾げてから自分の肩の上に飛んできた。

 そのまま羽づくろいを始める白文鳥を暫く眺めてから、思い出したように窓の外を見る。

 西の空の赤みも消え、街も空もすっかり夜の装いとなっていた。

「ごめん、しろちゃん。もう戻ろっか」

 キュウ、と甘えた声を出す白文鳥を優しく手で包み込み、鳥籠へと戻す。

 先程過った風景は既に記憶の暗闇の奥底へと沈んでいた。

 鳥籠の中、見上げる白文鳥に微笑みかけてから。

 彼女は窓のカーテンを引いた。



【空】で大体書いてしまいましたが、この時間帯の曖昧な空の色が好きなのです。

 自宅はお世辞にも眺望がいいとは言えませんが、西向きの窓のお陰で夕焼け空は見放題です。

 色具合、雲の様子。全く同じ空になることはないのだと思うと、ちょっと特別感がありますよね。

 人だけでなく景色とも一期一会なのだと思います。


 今日で四周年、ということで。過去作の後日譚となっております。

『停留所』https://book1.adouzi.eu.org/n9594hw/


 いつもお読みくださりありがとうございます。

 すっかり月イチでしか更新できなくなってしまいましたが、なんとか細々と続けていければと思います。

 これからもどうぞよろしくお願いいたしますね。

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― 新着の感想 ―
昼間の青空から、夕焼けのオレンジ色、そして藍空から濃紺の宵空へと。夕映えの空は、昼と夜のあいだ、オレンジと藍のあいだの何ともいえないほのかで優しい色ですよね。 主人公が続けてきた部活で、良いときも、…
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