第五十三景【栗】
手放した欠片。
幾日か曇天が続いたあとの、久し振りの青空。鮮やかだった夏の空はすっかり秋の色へと変わっていた。
吹き抜ける風に、交差点を渡っていた麻里は思わず腕をさする。
(長袖の方がよかったかしら)
名ばかりだった秋もようやく気温で実感できるようになってきたが、あまりにも変化は急で。つい半袖のまま買い物に出てしまったことを少し後悔した。
とはいえ、どうせ近所でいつも通り買い物をするだけかと思い直し、行き慣れた道を歩いていく。
日用品は少し先にあるスーパーで買うが、食材なら商店街で事足りた。さほど長くもないアーケード商店街だが、八百屋に肉屋に魚屋にと、必要な店は一通り揃っている。
今日の夕食は何にしようかと品揃えを見ながら歩いていると、八百屋の店頭に並べられた栗が目にとまった。
今年ももうそんな季節かと思いながら、五センチはありそうな艷やかな茶色の実を眺める。これだけ大粒なら剥く手間も少しは減りそうだ。
買いもしないのにとひとり笑ってから、麻里は店の前を離れた。
買い物を終えて帰宅した麻里は、まずはあるべきところへ食材たちを片付ける。最後に残った菓子パンはダイニングテーブルの隅に置いた。
食パンを買うために入ったコンビニで目についた菓子パン。パッケージに描かれた栗の絵に、思わず手に取ってしまった。
改めて店内を見るとあちこちに栗の商品が置かれている。クッキーやチョコレートなどの菓子や、チルドコーナーにあるモンブランクリームの載ったプリンや栗餡のワッフルといったスイーツ。ドリンク棚にはマロンラテ、弁当コーナーには栗ご飯まで並んでいた。小さなコンビニなのにこれほどあるのかと驚きながら店内を見回ったあと、一度棚に戻したパンをレジに持っていった。
ひと盛千円を超える生栗を見たあとでは、百円ちょっとのパンは安く見えて。この程度なら自分ひとりで食べても許されるだろうと思えたのだ。
自分は好きだが家族はさほど栗に興味はなく、生栗を買ってマロンペーストを作ったところで食べるのは自分だけ。そう思うと自分ひとりのために買うのもどうかと思い、結局毎年買わずにいる。
嗜好品を我慢して切り詰めなければならない程財政状況が厳しいわけでも、買ったからといって家族に咎められることもない。そうわかっていても手が出せずにいた。
テーブルの上のマロンクリームパン。
自分には安くお手軽なこれで十分なのだろうとひとりごちた。
「あれ、これお母さんの?」
夕方学校から帰ってきた娘にそう聞かれ、麻里は菓子パンを食べていなかったことを思い出す。
午後に手が空いた時にでも食べようと思っていたのだが、バタバタとしていてすっかり忘れていた。
「食べたかったら食べていいわよ」
「ううん、いらない」
一応聞いてはみたが、娘の返事は案の定で。明日の朝にでも食べようと思い、キッチンへと持っていく。
おそらくこれが菓子パンでもケーキでも生栗でも、娘の返事は変わらないのだろう。
やはり生栗は買わなくて正解、それどころかこのパンも買わない方がよかったかもしれない。
そんなことを思いながら、夕食の準備を始めた。
翌朝夫と娘を送り出した麻里は、いつものようにひとり遅れての朝食を取ることにした。
電子レンジでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを溶かす。
隅に追いやられていた菓子パンの袋を開けようと手にしたものの、一旦やめてマグカップと一緒にダイニングテーブルに持っていった。
妥協したとはいえ自分にとっての好物。もう買ってしまったのだし、座って味わうくらいはしようと思ったのだ。
椅子に座り、コーヒーを飲む。湯気からも感じる温かさと香りにほっと息をついた。
数口飲んで朝の慌ただしさを払ってからパンの袋を手に取る。端から引き切り、中のドーム型のパンを手前に寄せて齧りついた。
甘い香りのする柔らかめのパンは、数口食べると途端に栗の香りが広がる。入っているのは少し重めのマロンカスタードと軽やかなマロンホイップ。どちらも少し甘みが強くて栗らしいざらつきがないのは残念だが、風味は十分感じられた。
パンを味わい、甘くなりすぎた口内をコーヒーでリセットし、ゆっくりと食べる。
美味しくはあった、が。やはり好みに添うには自分で作るのが一番なのだとよくわかった。
最後のひと口を食べ終えてからコーヒーで締めくくり、それでも美味しかったと微笑む。
久し振りに食べた好物―――自分だけが好きなもの。
(……好きなもの、ね……)
浮かべた笑みが、少し曇った。
結婚し、子どもが生まれて。当たり前のことではあるが、自分の中の優先順位が変わっていった。
あまりに我欲を出すと叶わないことにストレスが溜まる。だんだん自分を後回しにするうちに、すぐに諦めがつくようになった。
その結果、遠慮や我慢をするのではなく、最初からどうでもいいと思うことも増えてきた。
何が食べたいもどこに行きたいも、尋ねられてもすぐには出ない。もちろん何もかもというわけではないが、家族に合わせた有限の選択肢から選ぶことはできても、好きにしていいとの無限の選択肢から選ぶことが難しくなってしまった。
『好き』が『好きだった』に変わってしまうと、気にはなっても執着はなくなる。ひとつ、またひとつと手放し空いた内側には代わりに家族への思いが満ちてはいるのだが、その分自分が薄れていくようで。
それが嫌だというわけではない。
ただ時々、自分自身というものが見えなってしまったことを寂しく感じるだけ―――。
馬鹿なことをとひとり苦笑し、麻里は席を立った。
何を思ったところで日々は過ぎる。ほんの束の間の感傷など忘れ、麻里はいつも通りそれなりに忙しく充実した毎日を送っていた。
そんなある日、会社から帰ってきた夫から白いビニールの袋を渡された。職場の人からもらったのだという。
ガサガサ鳴る袋を開くと、中には二十個ほどの小振りな栗が入っていた。
きょとんと袋の中の栗を見つめてから、麻里は夫へと視線を向ける。
「どうしたの、これ?」
「パートの人なんだけど、親戚から送ってくるらしくて。毎年お裾分けしてくれるんだ」
毎年と言われても、麻里にとっては初耳で。余程怪訝な顔をしていたのだろう、夫は笑って当然とばかりに頷いた。
「小さいから剥くのも大変だって聞いてたから、いつももらわなかったんだけど。この間栗のパン買ってるのを見たから、好きなのかなって」
夫が帰る前にはキッチンに引っ込めていたはずの菓子パン。気付かれていたのかと驚く。
「手間だろうけど、何か好きなの作って食べて」
「あ、ありがとう……」
着替えてくると言ってリビングを出ていく夫を見送ってから、麻里は手元の袋へと再び視線を落とす。
小振りで歪な栗の実は、確かに下拵えには手間がかかることだろう。
しかしそれよりも何よりも、夫があんな些細なことを気に留めてくれていたことがくすぐったく、嬉しかった。
翌日もいつものように家族を送り出し、麻里は朝食もそこそこにやるべきことを片付けていく。
シンクに置かれたボウルにはお湯に浸された栗。牛乳で煮てペーストにすると決めていた。
おそらくたいした量はないが、好みの味に仕上げて薦めてみたらふたりは食べてくれるだろうか。
これが自分の好きなものだと知ってくれるだろうか―――。
きっとまだ、好きなものはと聞かれてもすぐに答えることはできないだろうが。
それでもこうして好きなものをひとつひとつ形にして示していくことで、また新たに家族への思いと自分自身を色濃くできるのかもしれない、と。
そんなことを考えながら、麻里は洗い終わった洗濯物を干しに向かった。
秋になったので栗、です。
この時期になるとお店にも色々並びますよね。あれを見ると、秋だなぁ、と(笑)。
栗ご飯などお料理よりはお菓子のイメージ。
生栗はここ数年買っていませんが、作るなら牛乳と砂糖で煮潰してからペーストにして冷凍しておきます。そのままモンブラン、生クリームやカスタードと合わせてマロンクリーム、焼き菓子の生地に混ぜ込んでもいいですし。結構色々使えます。栗はお高いのでさつま芋で作ることも。
まぁどちらも小池しか食べないのですけどね。美味しいのに……。
菓子パンも好きなので、ついつい見てしまいます。
かろりー? だから何の話でしょうか??




