第五十一景【食事】裏
語る時間と相手。
丸川ベーカリー最古参のパート、有原が辞めることになった。
麦にとっての有原は、最初に販売のバイトとして入った頃に仕事を教えられ、助けてもらった相手。
そんな有原の離職は麦にとっても大きな衝撃であった。
有原の後任を待つ間に、恒例になりつつある連との食事の日を迎えた。
自分が礼として誘った食事の際に、仕事柄誰かとゆっくり食事をすることがないと言っていた連。それならばと思い自分とではどうかと誘ってから、だいたい月に一度のペースで食事に行っている。
二度目は色々なクロワッサンの食べ放題。デニッシュ好きの麦なら喜ぶと思ったと笑う連がこれはお礼だからと譲らず、支払わせてもらえなかった。
三度目は様々な種類の小さなパンが並ぶ店。生地違いは少ししかないが、トッピングの参考になるかと思い麦が選んだ。ここでも支払おうとする連にそれをされるともう一緒に行けないと訴えると、今度はおとなしく引き下がってくれた。
四度目のイタリアンを経て、今回は焼きたてパンが主役のコース。サラダなどは好きに取り、お品書きに並ぶパンが焼き上がるなり運ばれてくるという店だった。
「とってもよくしていただいてたので。寂しいです」
パンを待つ間に自然と有原の話題になり、麦は心からそう呟く。
「社員になるときに、就職祝いをもらったんですよ」
一緒に行ったバレンタインの買い出し。気になって見ていたかわいい缶入りのチョコレートをいつの間にか買ってくれていた。
そんな話をすると、確かにやりそうだと連が笑う。
「よく見てるよね」
「はい。困るほどではなくても、どうしようかなって考えてると声をかけてくれるんですよね」
そんな有原に助けられたことは一度や二度ではない。
「うん。恥ずかしい話、俺も今になって助けてもらってたんだって思い知った」
「連さんも、ですか?」
もちろん、と頷く連の笑みに苦さが混ざる。
「俺は親父と違って次々指示を出すから。特に店長交代してからは、人使いが荒いってよく言われた」
連が指示を出すのは滞りなくパンを焼くため。生地作りから焼き上げまで時間がかかるからこそ全体を見る目が必要で、その役割を連が担っているからにすぎない。
「有原さんがフォローしてくれてたけど。それでも嫌がって辞める人も結構いたよ」
「そんな……」
「まぁ口うるさいのは自覚してる」
そんなことないと言いかけて、ふと気付く。
自分も連に「人使いが荒い」と何度も言っている、と。
「私、そんなつもりじゃ―――」
「うん。麦さんは冗談で言ってるってわかってるし、お節介が過ぎたなって気付かせてもらえてる」
慌てる麦に対し、連は穏やかな口調のままで。本当にそう思ってくれているのだとわかる一方で、どうして、と思う。
「そんなこと……」
もちろん自分は本気で言っているわけではなかった。ただいつまでも追いつけないことが悔しくて、八つ当たりのようにそう言っていただけである。
実際そんな風に言って辞める人がいたなどと考えもしなかった。
自分の子どもじみた報復を、連はどんな思いで聞いていたのだろうか。
「もう麦さんには俺の指示も必要ないんだろうけど」
その言葉を聞いた瞬間浮かんだ否定の言葉は、ちょうどパンを運んできた店員の声にタイミングを逃してしまった。無言で皿が並べられるのを待つ間に、どうにも言いづらくなってしまう。
「食べようか」
自分に気を遣ったのだろう、いつもよりも明るい声で連が告げた。
最寄り駅まで戻り、連と別れた麦。
いつも通り美味しいパンと食事、そして実りある会話。充実の時間だったと思う一方で、言えないまま終わった否定の言葉が引っかかったままだった。
連はいつも先を見越し指示をする。いつかは追いつき、指示される前に動けるようになりたいと思っていた。
そして今日の連の言葉は、自分はもうそうできるのだと認めてもらえたようなものであるのに。
そんなことない、と。そう言いかけていた。
自身を卑下するような連の言葉を否定したかっただけなのか、それとも自分の軽はずみな言葉で嫌な思いをさせていたかもしれないから、取り繕いたかっただけなのか。
自分がどうして否定しようとしたのかはわからないが、ひとつだけわかることがあった。
(……なんだか嬉しくないな)
認められているは本当なのだとしても。あんな諦めたような顔で言われても、素直に喜ぶことなどできない。
確かに自分は認めてほしかった。だけどあの連の言葉は何かが違う。
それがなんなのかわからないまま、それでも店ではいつもと変わらぬ日々を過ごす。
そのうちに有原の後任も決まり、引き継ぎも無事に終わった。
「むーぎちゃん! お疲れ様!」
「有原さん! どうしたんですか?」
麦が退勤して外に出ると、今日が最終勤務だった有原が外で待っていた。
「今から正治さんたちに挨拶に行くんだけど、その前に麦ちゃんにお願いがあって」
今から会う連の両親でもなく、自分よりも長く一緒に勤務している人でもなく、どうして自分にと思いながら。それでも麦は私にできることならと答える。
少しホッとしたような顔をして、ありがとうと有原が笑った。
「連くんのこと、頼んでいいかな?」
「店長の?」
「うん。連くん、自分のこと言わないからすぐ誤解されちゃうんだよね。気付いたときだけでいいから、フォローしてあげてほしいんだけど」
食事のときの連の言葉を思い出す。
気遣いの足りぬ自分、有原のように上手くできるかはわからないが。
「もちろんです」
すぐに言いきった麦に、有原が嬉しそうに再度礼を言う。
「連くんも、麦ちゃんの言うことなら素直に聞けるだろうから。何かバカなことしてたらお説教してあげてね」
「そんなことないと思いますけど……」
「してたらっていうより、してなかったら、かな。連くんは考えすぎて動けなくなるから」
少し言葉にするだけで違うのにねと言う有原は、最終勤務を終えて帰るときより寂しそうで。
本当に連のことを心配しているのだなと思う一方で、なんだかもやりとしたものを感じた。
「……店長のこと、よくわかってるんですね」
ポツリと零れた言葉に、なぜか有原は嬉しそうに微笑んで。
「大事な弟だからね」
明るくそう言い、また来るねと手を振り丸川家の方へと歩いていった。
何も言えないままそれを見送った麦は、小さく息をつき、家路に就いた。
連の言葉に何を思ったのかも有原を相手になぜああ感じたのかもわからぬまま、それでも穏やかに日々は過ぎていった。
メンバーが変わっても特に大きな問題はなかったが、新人が来たことで社員である麦たちの勤務時間は確実に増え、連と同日の休みが取れなくなった。
「ごめんね熱田さん。落ち着いたら休み増やすから」
麺台で成形をしながらの連の謝罪に、焼成前の仕上げをしていた麦が何を言ってるのかと笑う。
「大丈夫ですよ。どうせ一緒に出かける人もいませんし」
「熱田さんなら、誘えばいくらでもいると思うけど」
らしくなく小さな声に連を見るが、連の目線は手元の生地に向けられたままだった。
「……それこそ、俺とじゃなくても……」
「嫌です」
なぜか少し苛ついて、気付いたらそう返していた。
自分の指示は必要ないだろうと言われた、あの日の気持ちが蘇る。
「私は連さんと行きたいんですから」
「あっ、熱田さんっ」
店での名呼びに慌てた連が麦を見た。
その連をまっすぐ見返し、麦は続ける。
「だって。お互いパンのことをあんなに語れるの、連さんしかいないでしょう?」
一瞬呆けたように麦を見つめた連が、暫しの空白のあとふはっと息を吐いた。
「……そっ……か」
洩れたのは力ない呟き。連の表情が仕方なさそうに緩む。
「うん、確かにそうかな」
「はい。だからまたお願いしますね」
休みが合わないので保留のままの六回目。まだまだ行ってみたい店はあるのだから。
「こちらこそ」
緩んだままの連が、普段店では見せない柔らかな笑みを浮かべた。
「……楽しみに、してるよ」
先程は反射的に答えられたのに、今度はすぐに言葉は出ず。
「……とりあえず、まずは仕事をしないとですからね」
ようやく引き出したそれに、連ははいはいと頷く。
「もうすぐ窯鳴るから。それから―――」
「ホイロですよね」
いつも通りの会話にどこか安堵を覚えながら、麦は鳴り始めた窯のブザーを止めた。
今回は【食事】です。
小池はまぁご想像の通り食べることは好きです。
ただ、適当です。
食べるものもそうですが。食べ方も同じく。座って食べられないことなんてざらにありますよね。
本当なら毎食優雅に食べたいものなのですが。時間的にも食べる量的にも許されない(泣)。
特に朝はゆっくりするのはキケンです! 気付くとこんな時間! もあるあるですから。
一緒に食事をすると仲良くなれる、は持論。
絶対ではないですけど。
少し気は緩みますよね。




