第五十一景【食事】表
甘く苦い時間。
待ち合わせ時間の十五分前。連は最寄り駅で麦が来るのを待っていた。
もう四度目だというのに、こうして待つのはやはり不安で落ち着かない。しかし待たせるのが嫌で、いつも早めに着いている。
いい歳をして思春期の子どものようだとの苦笑いは、そのまま溜息に変わった。
家族経営の小さなパン屋の店長の自分と、従業員の麦。
恋人はもちろん友達ですらない、社員で仕事仲間、そして自分の想い人。
ひょんなことからこうしてふたりで食事に行けるようになったが、ただそれだけの関係で。それを変えるつもりもない。
麦は丸川ベーカリーにとってなくてはならない人物。自分の不相応な想いで失うわけにはいかない。
しかし告げぬと決めたところでなかったことにできるはずもなく―――。
嬉しくも苦しいこの時間。このままでいいのだろうかと思いつつも、それでも手放すことができないままだった。
「連さん、いつも早いですよね」
待ち合わせ十分前にやってきた麦。駆け寄ってくるなりのその言葉に、連は先程までの鬱々とした気持ちが解けていくのを感じた。
「今日は勝ったと思ったんですけど」
「勝負してるわけじゃないんだから」
そう笑い、行こうかと歩き出す。
今日は行くのは少し離れた商業施設内にある店。フォカッチャが美味しいと評判のイタリアンだ。
「正直フォカッチャをすごく美味しいって思ったことないんですよね」
移動の電車の中。隣に座る麦の呟きに、確かになと頷く。
「材料がシンプルなだけに粗が目立ちやすいからね」
店では扱っていないが、シンプルなパンほど少しの配合の差と生地の扱いで大きく差が出る。
パサついたり、重すぎたり。好みもあるのだろうが、なかなか万人の「これ」を満たすものを作るのは難しい。
「でもその分だけ、美味しくできたら嬉しいんだけどね」
トッピングやフィリングももちろん大きな割合を占めるが、それでごまかすのではなく。きちんとパンを食べているのだという満足感を味わってもらえればと思う。
自然と口から出た言葉に、じっと連を見ていた麦がくすりと笑った。
「やっぱり連さんは作り手なんですね」
「えっ?」
「すっかり作る側の意見になってますよ」
笑う麦の眼差しはただ呆れただけには見えないが、何が含まれているのかはわからずに目を逸らす。
胸の疼きも慣れたもの。
呑み込み、そうかなぁ、とできるだけ明るい声を返した。
評判の店だけあり、出されたフォカッチャはとても美味しかった。
「何が違うんだと思います?」
厚みがあり綺麗に焼き色のついたフォカッチャはもっちり重めの生地ではなく、だからこそメインやサラダに馴染む。
「塩と油のバランス、とか?」
「そうですねぇ」
まじまじとフォカッチャを見る麦の様子に、思わず連も口元を緩める。
家族経営のパン屋であるがゆえに、誰かとゆっくり食事をすることなどめったにない。そんな自分に麦が申し出てくれた「一緒に食事をする」こと。
月に一度程度のことではあるが、自分にとってはとても大切な時間になっていた。
繰り返した回数の分だけ名で呼ぶことにも慣れ、電車で隣に座るのも前ほど緊張しなくなった。
美味しそうにパンを食べてはどう作るのだろうかと考えているその様子は微笑ましく、なおかつ仕事仲間として頼もしい。
一緒に出かけて食事ができて、その笑顔を見られるのだから。
それで十分幸せであるはずなのに、帰宅後の余韻はどこか苦しい。
いつまでこうしていられるのだろうか、と。
浮かぶ不安に向き合うことは、まだできなかった。
パートの有原から話があると言われたのは、それから暫く経ってからだった。
本格的に親の介護をすることになったので、パートを辞めなければいけないという。
有原は連が幼い頃から店の常連で、中学生の時からパートとして働き始めた最古参。連にとっては単なるパートのひとりではなく、姉のような存在である。
その有原が辞める―――仕方ないと納得する気持ちも確かにあるのに、それでも動揺する己に驚きと納得を覚えながら、それでも顔には出さずにわかりましたと頷くしかなかった。
新たに人が入り、引き継ぎが済むまで残ると言ってくれた有原。話が終わり帰る間際、連を見て大丈夫だと笑う。
「心配しなくても。これからは麦ちゃんが間に立ってくれるよ」
製パンは止まることのない発酵に合わせた時間との戦い。仕事が詰まると一番いいタイミングで焼くことができなくなる。
先回りして仕事を振る連は人使いが荒いと嫌がられることも多く、実際に何人も辞めていった。
有原はそんな自分をずっとフォローしてくれていたのだと気付く。
そして同時に、ますます麦が居づらくなるようなことをするわけにはいかないのだと感じた。
店が成り立っているのはこうして理解してくれている人がいるから。そのひとりである麦を失うわけにはいかない。
表に出すつもりのない自分の想い。
こうなった以上、持ち続けることも諦めたほうがいいのかもしれない―――。
その後は新たに募集をかける準備をし、ほかの従業員たちにも報告をした。
古株の有原が辞めることに誰もが驚き、中でも麦の動揺は傍目にもわかるほどだった。
そんな中での五度目のふたりでの食事。
焼きたてパンのコースを前にしても、やはり話題は有原のことだった。
「とってもよくしていただいてたので。寂しいです」
サプライズで就職祝いももらったのだと、懐かしそうに語る麦。
「うん、恥ずかしい話、俺も今になって助けてもらってたんだって思い知った」
人使いが荒いと言って辞める人も多いのだという話をすると、途端に麦が慌て始める。
「私、そんなつもりじゃ―――」
「うん。麦さんは冗談で言ってるってわかってるし、お節介が過ぎたなって気付かせてもらえてる」
「そんなこと……」
従業員に対してどこまで指示を出していいのか悩んだ時期もあったのだが、前向きに受け取ってくれる麦のお陰である程度吹っ切ることができた。
「もう麦さんには俺の指示も必要ないだろうけど」
ずっと思っていたことを言うと、はっとした様子で口を開きかける麦。しかしちょうど次のパンが運ばれてきたため、続く言葉が紡がれることはないままだった。
それからはパンのことやこれからの店のことを話しながら、いつも通り楽しい時間を過ごした。
本当は今回で最後にしようと思っていたふたりでの食事。
結局言い出すことができなかった。
幸いすぐに応募があり、有原がきちんと引き継ぎを済ませてくれた。
勤務最終日、家は近いから買いに来るし落ち着いたら復帰するから繁盛させといてね、と明るく告げて帰った有原であったのだが。
連がひとりで閉店作業中をしていると、自宅側の裏口から有原が姿を見せた。両親にあいさつに来ていたという有原は、連にも話があるのだと言う。
今までありがとうとお互いに言い合ったあと、ふっと有原が真顔になった。
「連くん。私はね、お店のことを大事にしている連くんのこと、店長としても、人としても尊敬してる」
向けられた眼差しはこちらを見守るものでもあり―――。
「けどね。連くんは連くんのことを一番に考えていいんだよ」
―――同時に、責めるものでもあった。
「今のままで、連くんは幸せになれる?」
なんのことを言われているのか。
浮かんだ顔を、そんなはずはないと振り払う。
「……店のことが一番大事だから」
「気まずくなって辞められると困るから?」
わざと伏せられた言葉は問い質すまでもなく。やはり麦への想いを気取られていたと確信した。
どうごまかそうかと口を開きかけ、やめる。それが通じる相手ではない。
「……俺ひとりの問題じゃすまなくなる」
それでも濁して答えると、有原はあからさまに溜息をつき、睨むように連を見上げる。
「そんな無責任な子だと思ってるの?」
「そんなことっ……」
「それこそ麦ちゃんを馬鹿にしてる」
先程伏せられた名が、今度こそはっきりと有原の口から出た。
答えられなくなり、連は口を噤む。
これ以上は逃げ道がなくなる。
たとえ気付かれていたとしても、認めることはできなかった。
有原は暫く黙って待っていたが、連に話す気がないと覚ったのか、やがて辞色を和らげる。
「連くんが色々考えてるのはわかってるけど、それだけ言っておきたかったの」
そう言いながら手を伸ばした有原は、幼い頃のように連の頭を撫でた。
「大事な弟だからね。後悔してほしくないよ」
お節介でごめんねと言い残し、有原は帰っていった。
誰もいない店内にひとり、連はうつむき佇む。
自分はこの丸川ベーカリーが大切で。
麦への想いを抱えている。
自分の望むふたつの幸せはきっと両立しない。
それならば自分は店を選ぶ。そう決めたはずなのに。
有原に言われたことを反芻し、連は深く息をついた。




