第四十八景【からあげ】
今できることを。
「三橋さん、今日帰り一緒にどう?」
金曜日の夜八時前。仕事を終えた邦彦は、同僚ふたりにそう声をかけられた。
家に帰っても誰もいないことを知っているからこその急な誘いに、邦彦はごめんと返す。
「明日行くから、今日は急いで食べて帰ろうと思ってて」
どこに行くのかも知っているふたりは、その言葉にああと納得の表情を浮かべる。
「先週忙しかったもんなぁ」
「向こうでゆっくりしてきて」
「ありがとう。また誘って」
ふたりに礼を言い、邦彦はひとり先に部屋を出た。
すっかり日が落ちて人が少なくなったオフィス街を、早足で駅に向かう。
駅に続く大通りまで出ると、途端に車の数も人の数も増えた。金曜の夜、道行く人はどこか開放的な様子に見えるのは気のせいだろうか。
途中信号待ちの間にスマートフォンを覗き、メッセージを入れる。
『仕事終わった。体調はどう? 明日行くから』
ポケットにしまって歩き出して暫く。短い振動が返信を教えてくれた。
初産の妻を家でひとりきり待たせるのが不安で、臨月を迎えてからは実家に帰ってもらっている。
その分妻の顔は見られないが、自分も、そして妻も心配が減るだけありがたい。
駅に続く大通りに出ると、途端に光が溢れた。
自宅の最寄りよりこちらの方が大きな駅。賑わうここなら探さなくても店はある。
とはいえ、明日はできれば早く行きたい。金曜日なら混んでもいるだろうからと、飲み屋ではなく食事がメインの店に入るつもりだった。
駅前には飲食フロアのあるスーパーがあるが、中に入ると移動で時間を取るので避けた。高架駅の下に並ぶ店の中、目についたチェーンの定食屋に入る。
券売機前で少し考えた末、グラスビールとからあげ定食のボタンを押した。
席についてチケットを渡すとすぐに出てきたビールを数口飲み、先程来ていたメッセージを確認する。
お疲れ様から始まる妻からのメッセージには、自分もだが赤ちゃんも元気でよくお腹を蹴られる、明日会えるのを楽しみにしている、と書かれていた。
綻ぶ顔をごまかすようにビールを飲んでから返信を入れる。
妻は気にしないとわかってはいたが、食べに来ているとは書けなかった。
妻が妊娠してから生活が一変した。
待望の子ども、妻も自分も色々調べて準備しての毎日。
いいといわれることを取り入れ、だめだと噂のものを避け。あれはいいのかこれは大丈夫なのかと次々心配になる始末。
そのうち妻自身にも合った無理のない生活ができるようになったが、今考えると随分と情報に踊らされていたと思える。
幸いつわりも軽く、臨月まで何事もなく順調に過ごすことができた。
転院も問題なく、妊婦仲間もできたらしい。
あとは待つだけ、なのかもしれないが。
何もできない自分がもどかしくもあった。
ビールを半分ほど飲んだところで定食が運ばれてきた。
サラダとともに皿に盛られたからあげと、ご飯とみそ汁。申し訳程度の小鉢と漬物も添えられている。
いつもならみそ汁から手をつけるが、ビールがあるのでまずはからあげに箸を向けた。
熱いだろうと警戒しながらかじりつく。
香ばしく揚がった表面にさくりと歯を立てると、溢れる熱々の肉汁とニンニクと香辛料の香り。
あまりの熱さに噛むのもそこそこにビールを流し込む。
忙しい口内が落ち着いてから、ほぉっと息をついた。
(そういえば、揚げたてってのも久し振りだな……)
湯気をあげる食べかけのからあげを見てふと思う。
一人暮らしをしていたことがあるので最低限の家事はできる。なので妻が里帰りしてからも、毎食ではないが簡単な食事を作って食べていた。
しかしさすがに揚げ物はハードルが高い。
それ以前からも、お腹の子の成長とともに妻は食べる物に気をつけるようになり、揚げ物も甘い物も控えるようになった。
作るのは大丈夫だと言われたが、大きなお腹で揚げ物をするのも危なげなので断った。
あなたは好きなものを食べていいのに。
そう何度も言われたが、食べられない妻の前で好き勝手に食べるのは気が引けて、同じものを食べると言い張った。
それはそれで困ると笑われて、最終的には炒め物などを足すことで落ち着きはしたが。
自分と食の好みが似ている妻の目の前で、彼女が控えている物を食べることに罪悪感を覚えたからではあるものの。
おおらかな妻の言葉に、結局はただの自己満足だったのかもしれないとも思っている。
からあげふたつでビールを飲みきったので、あとは食事。
薄揚げとわかめのみそ汁は少し冷めてしまっていたが、馴染む味にほっとする。
ご飯のあとに食べるからあげはすっかり肴からおかずへと変貌を遂げた。
熱さも少し落ち着き、味わって噛めるようになったからあげ。塊肉というには小さいが、それでもしっかりと肉を噛みしめる満足感と、どこを食べても染みている醤油の味。ジューシーな肉とカリッと揚がった皮を同時に味わえるのも醍醐味だろう。
米にも野菜にも合うその味を堪能していると、また短くスマートフォンが震える。
ゆっくり休んでとの言葉とともに、大きなお腹も写るように撮られた妻の写真が送られてきた。
先週は行けなかったので、約二週間ぶり。記憶より大きく見えるそのお腹に驚く。
今まで妊婦を見たことがなかったわけではないが、間近で見るまでこれほどだとは思わなかった。
妻曰く、蹴られるお腹越しに足の裏の形がわかるという。
中にいるのは新たなひとつの命なのだと主張するかのように、こちらの戸惑いなどお構いなしに様々な変化が重なっていく。
初めてだらけの驚きと感動。
きっとこれから何度も味わうことになるのだろう。
食べ終わり箸を置いた邦彦は、お茶を飲みながら返信を入れる。
また明日、おやすみと送ってから、なんとなく空になった皿を見た。
熱いものを熱いうちに食べられない。
そんなことを言っていた女性の上司には、授乳以外は全部誰にでもできるんだからね、とやんわり釘を刺されている。
もちろん言われなくてもやるつもりではあったが、経験者からの言葉はやはり重みが違った。
これから妻と自分が通る道。
大変だけど嬉しいことも楽しいこともいっぱいあるよと笑う上司のように、ふたりで楽しんでいければと思う。
空になった湯呑みに手を伸ばしかけた邦彦は、ふと店内の時計を見やった。
(まだ開いてるな……)
時刻は八時四十分。駅前のスーパーの閉店は確か九時。
そのまま急いで立ち上がった邦彦は、上着と鞄を手に店を出た。
上着を着ながら足早に向かったスーパーは、閉店前であるのにそれなりに人がいた。閉店前の見切り目当ての客もいるのだろう。
まっすぐに向かったのはコーヒーやお茶の売り場。デカフェのコーヒーの粉と紅茶のティーバッグを手に取る。
元々コーヒーや紅茶の好きな妻。もしかしたら実家で既に用意しているかもしれないが。
子どもが生まれてからも妻がお茶を飲む時間くらい作ろうという、自分自身への決意表明として。
今まで通りの生活はできずとも、我慢ばかりさせずに済むように。
これもまた自己満足かもしれないが、何かせずにはいられなかった。
レジ近く、賑わう惣菜コーナーを横目で見る。
妻がまた揚げ物も食べられるようになってからも、おそらく暫くは作ることも食べに行くこともできないままだろうが。
子どもと三人、出掛けられるようになったなら。その時は妻に熱々のうちに料理を食べてもらおうと決める。
まだまだ先の話かと、気の早い自分に苦笑しつつ。とりあえず今は購入したこれを喜んでもらえればいいかと思い直す。
もちろん恥ずかしいので込めた決意を話すつもりはない。
ただ喜んで受け取ってもらえればそれでいい。
そんな思いをともに鞄にしまい込み。明日の再会を楽しみに、邦彦は帰路に就いた。
今回はからあげです!
嫌いという方にはまだ会ったことがないかもしれません。カレー嫌いは身近にいたのですけどね。
惣菜コーナーの並びっぷりもすごいですよね。普通のこぢんまりしたスーパーでも数種類あったりしますもの。
もちろん家でも揚げます。普通ってどのくらいの量を揚げるものなのかなぁ、と。揚げた端から消えていくからあげを横目に考える小池……。
この時期になるとあちこちで竜田なバーガーが出ますよね。
昔は定番だったあの店のあれ。何がおいしいって、あのパンが大好きなのです。中がたまご色で、もちもちで。
パンだけ売ってほしいのですけど。もちろん売ってもらえません……。
結局パン(笑)。




