第四十六景【たまご】裏
滲み溢れる気持ちに。
カラカラと開けられた入口に、文翔はテーブルを拭いていた手を止めて顔を上げた。
入ってきた男性に声をかけながら、違ったかと内心思う。
大学卒業後、両親の営む食堂で働き初めて暫く。いつの間にか土曜日は、昼のピークを過ぎた頃からソワソワと入口を気にするようになってしまった。
今日は来るだろうか。そう考えているうちに、静かに入口を開けて顔を出した客。
自分を見て笑みを浮かべる女性に、自然と文翔も和らぐ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
微笑んで挨拶してくれるのは、中学の同級生の珠子。
今日も来てくれたとの喜びは表に出さないまま、改めていらっしゃいと迎えた。
珠子は中学三年生の時のクラスメイトだった。
同じクラスになるのは初めてだが、自分は前から珠子のことを知っていた。しかし本人の何を知るわけでもないということをきちんとわかっていなかった。
結果、珠子が気にしていることを知らずに名前の話題を出し、傷付けてしまった。
何に対して嫌がられたのかはわかっても、なぜ嫌がられたのかはわからないまま。本人に聞くこともできず、卒業までずっとその話題を避けて過ごした。
だからこそ心残りはいつまでも消えず。大学卒業目前に同窓会を開くと聞いた時、改めて珠子の傷を知るだろう人物に教えてほしいと再度頼み込んだ。
同じ書道部だった西村琴美は、小学生の頃から珠子の友人。あの時は勝手に話すことはできないと断られたが、今回はもう時効だろうと教えてもらえた。
珠子の事情は予想通りではあったものの、だからこそ彼女の傷の深さが窺い知れて。安易に口に出してしまった己を改めて悔いた。
あの日の自分はただ話してみたかっただけだったとしても、彼女を傷付けてしまったことに変わりはない。
ここで謝らねばもう機会はないと思い、自分なりに準備を整え同窓会で声をかけた。
ちゃんと謝れただけでなく、珠子からも話せてよかったと言ってもらえた。
そしてそれ以降、珠子はだし巻き卵が美味しかったからだと言ってこうして店に来てくれるようになった。
まさか願掛けとして出しただし巻き卵を気に入ってもらえて、四月を過ぎてからもこうして顔を見られるなんて、と。降って湧いたような幸運にひとり喜んだ。
今日もだし巻き定食を頼んだ珠子は、客も減り手の空いてきた母親と和やかに話している。
わざと忙しい時間を避けてくれていること。何気なくこちらを気遣う仕草や言葉。元々自分は彼女を好意的に見ていた上に、あの一年はずっと彼女を気にしていたのだ。蟠りが解けた今、どんどん彼女への気持ちが膨らんでいることは明白で。
今はまだ友人にも満たない関係だが、徐々に自分のことも知ってもらえればと思っている。
「ありがとう。今日もごちそうさま」
「こっちこそ。来てくれてありがとう」
客として来る珠子とそれなりに話せるのは注文時と会計時。いつも通り述べられる感謝を受け取って、こちらからも礼を返す。
「仕事は慣れた?」
「だいぶ。でも今からかな」
「そっか。頑張ってるんだな」
一瞬きょとんと自分を見上げた珠子がくすりと笑った。
「斉藤くんだって、毎日夜まで頑張ってるんでしょう?」
当たり前であるかのように労う声に望む甘さはないものの、それでもその温かさに嬉しさが込み上げる。
「明日は定休日よね。ゆっくり休んでね」
「佐伯さん……も」
言いかけた言葉を呑み、続く意味と先を変えてごまかした。
またねと微笑む珠子を見送り、文翔はまたひとつ灯る熱に息をつく。
ゆっくり話したいから日曜日に会えないか、と。
今までに何度も呑み込んだ言葉。
今日もまた言えないままだった。
こうして少しずつ親しくなっていければと思っていた文翔。しかしその日を境に珠子は店に来なくなった。
最初こそ仕事が忙しくなったのだろうと思っていたのだが、幾度も土曜日が過ぎていくにつれて不安になってくる。
体調が悪くなったのではないだろうか。それともまた何か傷つけるようなことをしてしまったのか。
どうしたのかと連絡を入れようとメッセージを打ちかけては、珠子にとって自分はただの店員でしかないかもしれないと迷い手が止まる。
―――ようやく話せるようになって。そのうち珠子にあの日の礼を言えるかと思っていた。
なのに、今度こそ無遠慮に踏み込まないようにと様子を窺いすぎて、まだ肝心なことを話せていない。
同窓会の時はもうあとがないから行動に出られたが、今はそうではない。
このまま待っていればまたいつか来てくれるかもしれない。踏み込むことでまた距離を取られるかもしれない。
一度手にしたささやかな幸せ。
失うのが怖かった。
そうしてまた土曜日を迎えた。
もしかしたらという一縷の望みを捨てきれないまま昼のピークの終わりを迎える頃、ゆっくりと入口が開けられる。
「あら、佐伯さん!」
母親の声に遅れて入口を見た文翔は、待ち焦がれた珠子の姿に息を呑んだ。
(……来てくれた)
溢れそうになる喜びを抑え込み、いつも通りと言い聞かせて傍に寄り声をかける。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
文翔が水を取りに行っている間に、久し振りだと嬉しそうに話しかける母親。仕事が忙しかったのだと答える珠子の様子に、特にこちらが気に障ることをしたというわけでもなさそうだと安堵した瞬間。
「文翔もずっと心配しててね」
「母さんっ!!」
確かに間違ってはいないが、ここで言うのは間違っている。
しかし父親の非難の眼差しと居合わせた客の驚く顔に、すぐにすみませんと頭を下げた。
「ごめん、佐伯さん……」
謝ると、珠子ははっとして自分を見、首を振ってからすぐにうつむく。
「う、ううん……」
恥ずかしそうに呟く珠子。
これが原因でまた来なくなってしまったら―――。
不意に浮かんだその言葉に蘇る焦りと不安。
またあんな思いをするくらいならと、文翔は咄嗟に覚悟を決めた。
視界に入るように水を置くと、珠子が顔を上げた。
その顔に不快感がないことに背を押されながら、声をひそめて呼びかける。
「今日このあと、閉店まで残れる?」
向けられた驚愕の顔はすぐに赤らみ、無言で頷きを返された。
片付けはしておくからと閉店後早々に両親を追い出し、文翔は日課のだし巻き卵を焼いていた。
カウンター席にはそのまま残ってくれた珠子の姿。どこか落ち着かなさそうな様子を申し訳なく思う。
焼き上がっただし巻き卵を六つに切り、真ん中の一切れを小皿に載せた。
「お昼食べたあとで悪いけど、よかったら一切れだけでも食べてくれないかな?」
珠子の前に置くと怪訝そうな顔をされたので、同窓会の時のだし巻き卵は自分が作ったのだと白状する。
まだ見習い中の自分、客に出す料理は作らせてもらえない。
しかしどうしてもあの日のだし巻き卵は自分が作りたかった。
「どうして……?」
驚いた顔でだし巻き卵と自分を見比べていた珠子。
不思議に思うのも尤もだとわかりつつ、それでもなんの自覚もない彼女がなんだかおかしい。
「佐伯さんに食べてもらえたら、上手く話ができる気がしたから」
自分は珠子に食べてもらいたかった。
そうすれば、中学三年生の時にはできなかった話をして、改めて謝れそうな気がしたのだ。
「だからこれも。食べてくれる?」
小皿を珠子の方へと押しやる。
「う、うん」
まだ動揺しつつも頷いてくれた珠子が、箸で半分に切っただし巻き卵を口に入れた。ゆっくり味わうように食べてくれるその様子が嬉しい反面、言うべきことが吹っ飛んでしまわないうちに早くとも思う。
穏やかな空気が幸せで、それでいてもどかしくて。
いつの間にか溢れそうなくらいの想いが自分の中にあることに、ようやく気付いた。
食べ終えた珠子が顔を上げた。
和らぐその表情に、ああ、と思う。
彼女が店に来てくれる理由は、多分ひとつだけではないのだろう。
「美味し―――」
「明日、空いてる?」
待ちきれずにそう問うと、珠子の動きが止まった。
「同窓会でも、店でも、あんまりゆっくり話せなかったから。ちゃんと話したくて」
ずっと言えずにいた言葉がようやく音になったというのに。
答えずただまっすぐ向けられる珠子の瞳に、急に我に返ってしまい恥ずかしくなってくる。
締まらぬ自分を情けなく感じていると、ふっと珠子が微笑んだ。
「うん。私も話したい」
柔らかなその笑みと赤く染まる頬に、文翔は自分が感じたものが間違いでなかったと確信する。
じわりと染み出すような喜びの中、文翔もまた笑顔を向けた。
「……ありがとう。話したいこと、たくさんあるんだ」
中学一年生の時の文化祭で珠子が自分の書を褒めてくれていたのを見て気になったのだと話したら、一体どんな顔をするのだろうか、と。
そんなことを思いながら、文翔は嬉しそうに微笑む珠子を見つめた。
今回はおそらく何で来るかはバレていたのではと思います。
たまご。冷蔵庫から消えるとそわそわするもののひとつ。あとは人参と玉ねぎ。
お高くなりましたが、幸い小池のところではそれほどでもなく。以前の倍値であってもまだ安い方だと思います。
大食らいな家庭に優しい環境です……。
お料理にもお菓子にも。万能ですよね。
一番好きな卵料理は……選べない……。
お菓子も……選べない……。
一度冷凍卵を試してみたいと思いつつ。冷凍庫が空かないので試せないままです(笑)。
このお話の前日譚『この殻の向こう』https://book1.adouzi.eu.org/n4487kb/、同窓会の時の話になります。




