第四十六景【たまご】表
重なる面影は熱に消えて。
土曜日の昼過ぎ。珠子はカラカラと引き戸を引き、「お食事処はじめ」と書かれたのれんを潜る。
「いらっしゃいませ!」
重なる声はみっつ。厨房の中年の男女が珠子に笑顔を向けた。
店の奥にいた男が急ぎ足で近付いてくる。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
同級生の文翔がにこやかに声をかけた。
カウンター席に案内された珠子に、文翔の母親が今日は何にするかと尋ねる。
「だし巻き定食で」
「佐伯さん、もしかしなくてもかなり気に入ってくれてる?」
水を持ってきた文翔にそう言われ、珠子は苦笑いを返した。
小学生の頃に「たまご」と散々からかわれてきたため、自分の名前が嫌いになった珠子。
中学三年生の時、初めて話した文翔の言葉をからかうつもりのものだと受け取った珠子は、続く言葉を聞かずに強く拒絶した。
以降お互いそのことには触れぬまま卒業したふたり。大学卒業目前に行われたクラスの同窓会で再会した際に、ようやく誤解が解けた。
一方的に決めつけ最後まで話を聞かなかった自分が悪いのに、真摯に謝ってくれた文翔。
彼もまた七年間悩んできたのだと知り、珠子は後悔と踏み込んでくれたことへの感謝を抱いた。
―――そんな再会から数ヶ月、珠子は時々というにはもう少し頻繁に、文翔の両親が営むこの店を訪れるようになった。
大学卒業後は両親とともに店で働く文翔には、あの時食べただし巻き卵が美味しかったからだと言ってある。
もちろんそれは嘘ではないが―――。
「はい、おまたせ」
目の前に皿の載った膳が置かれた。
「ありがとう」
見上げて礼を言う珠子に、ごゆっくりと文翔が返す。
優しげに緩む表情に、珠子も口元を綻ばせた。
膳にはご飯と味噌汁に漬物、切られていないだし巻き卵と日替わりの小鉢ふたつがいつもと同じ配置で並んでいた。
いただきますと軽く手を合わせてから箸を取る。
まずは水菜と薄揚げの味噌汁。何度も通ううちに、青菜の小鉢がない時は必ず味噌汁に葉物が入っていることに気付いた。
厚みのあるだし巻き卵は、箸で割るとじわりと出汁が染み出してくる。
切っていないからか、温かいからか、定食で出されるだし巻き卵は同窓会の時のものよりも柔らかい気がした。
「いつもありがとうね」
昼のピークを過ぎてから来るようにしているので、珠子が食べている間に店内の客は少しずつ減っていく。
厨房も少し余裕ができたのだろう、文翔の母親が声をかけてきた。
「今日も美味しいです」
「佐伯さんみたいな若い人にそう言ってもらえると嬉しいねぇ」
朗らかに笑うその顔はどこか文翔と似ている。
「母さん。余計なこと言わなくていいから」
文翔が慌てて割り込むと、母親ははいはいとわかっているのだかわかっていないのだか判別がつかない返事をしながら、再び仕事に戻った。
「ごめんね、佐伯さん」
「別に謝ることじゃないよね」
居心地悪そうなその顔に懐かしい面影を重ねながら、珠子はほんのり温かくなる心のままに笑みを浮かべた。
文翔たちに礼を言い、珠子は店を出た。
帰りにどこかに寄るでもなく、ただあの店で食べるためだけの外出。
珠子自身、どうしてこんなに足繁く通っているのかわからなかった。
もちろんあのだし巻き卵が食べたいのは本当だ。しかしこうして店を出たあとに浮かぶのは、微笑み見送ってくれる文翔の顔で。店を入る前に期待するのもまた、出迎えてくれる文翔の声なのだ。
(……私……)
よぎる言葉に首を振る。
目を逸らし続けた中学三年生の自分。
関わろうとしなかったそれからの自分。
ずっと文翔を悩ませていたことにさえ気付けなかった自分。
そんな自分が一体何を考えているのだろうか―――。
そうして戸惑う間にも、取り巻く環境は変わっていく。
本格的に仕事に関わるようになり、覚えることも格段に増えた。日々の忙しなさは休日にも尾を引き始める。
文翔の店は日曜が定休日、夜はひとりでは入りづらく。卒業直後のように自由の利かない今となっては、珠子が食事に行けるのは土曜の昼のみ。そのうちと思ううちに、すっかり足が遠のいてしまった。
ようやく生活のリズムが整ったころにはすっかり間が空いてしまい、どうにも行きづらく。ためらううちに日ばかりが過ぎる。
このまま疎遠になるのだろうか―――。
ふと浮かんだその言葉に、思った以上に動揺した自分に気付く。
この気持ちが恋と呼ぶに足るかはわからない。だが、自分はまた会いたい。
そこにあるのは正直な己の気持ちと、動かなければ変えられないこの先。
中学の時は何もできなかった。
同窓会の時は文翔が踏み込んでくれた。
―――今度こそ、自分が動かなければ。
土曜日、珠子はドキドキと落ち着かないままのれんを潜る。
「あら、佐伯さん!」
明らかに嬉しさが滲む厨房からの親しげな声に、内心ほっと息をついた。
奥からはいつものように急ぎ足で近付いてくる文翔の姿。
「いらっしゃい」
かけられたのはいつも通りの言葉。
態度が変わらぬことへの安堵と、変わらぬことへの寂しさと。矛盾する思いに内心苦笑する。久し振りの来店を喜んでくれるだろうかと、どこか期待してしまっていた。
「こんにちは」
平静を装ってそう返し、勧められるままカウンター席に着く。
「久し振りだね。来てくれてありがとう」
しみじみと呟く文翔の母親。客としてではなく自分を待ってくれていたのだとわかるその響きに、こわばっていた珠子の心も少し緩んだ。
「すみません。まだ仕事に慣れなくて、余裕がなくて……」
「文翔もずっと心配しててね」
「母さんっ!!」
ちょうど水を持ってきていた文翔が半ば叫ぶような声をあげる。しかしすぐ店内の客たちと厨房の父親の眼差しに気付き、すみませんと頭を下げた。
「ごめん、佐伯さん……」
明らかに赤い文翔の顔。
「う、ううん……」
首を振り、珠子はうつむく。
いつも通りだと思っていた。
だが―――。
コトリと水が置かれる。そっと視線を上げると、まだ顔の赤い文翔が緊張した面持ちでじっと自分を見ていた。
「……あの、さ。今日このあと、閉店まで残れる?」
あまり周りに聞こえないようにだろう、囁くような小さな問いに、珠子はこくこくと頷く。
ありがとうと笑う文翔。中学生の頃の面影にあの頃にはない色が重なって見えるようで、なんだかいたたまれず見ていられない。
注文を取り仕事に戻る文翔の背を見送ることができないまま、置かれた水を一口飲んだ。
昼の営業が終わり、客の捌けた店内。言われた通り店に残った珠子の前には、だし巻き卵が一切れ載った小皿が置かれていた。
「お昼食べたあとで悪いけど、よかったら一切れだけでも食べてくれないかな?」
ちょっと待っててと言ったあとそれを焼き上げた文翔。意図がわからず見上げる珠子に、実はと切り出す。
「同窓会の時のだし巻き、俺が作ったやつなんだ」
「えっ?」
驚いて文翔とだし巻き卵を見比べると、苦笑いを返される。
「ほんとはまだお客さんに出す料理は作らせてもらえないんだけど。あれだけは頼み込んで許してもらった」
「どうして……?」
ただ皆に振る舞いたかっただけだというには含みある声音を怪訝に思って問うと、苦さを含んでいた笑みがどこか観念したように変わる。
まっすぐに向けられる眼差しに、先程まで窺えた少年の面影はなく。珠子は初めて目の前の文翔のことを、あれから七年を経た大人の男性なのだと認識した。
「佐伯さんに食べてもらえたら、上手く話ができる気がしたから」
一度意識してしまうと途端に恥ずかしく。視線を上げられなくなってしまった珠子の前に、記憶よりも節の目立つ大きな手が小皿を近付けてくる。
「だからこれも。食べてくれる?」
「う、うん」
急に騒ぎ出した胸を宥められないまま、珠子は箸を手に取った。
いただきます、と呟き箸で半分に切る。感じる視線に更に気恥ずかしさが増す中、その半分を口に入れた。
口内に広がる熱と出汁の香り。普段店で出されるものとどう違うのかわからないまま、そのまま咀嚼し飲み込んだ。
「美味し―――」
「明日、空いてる?」
顔を上げた珠子の言葉を最後まで待たず、文翔が被せる。
「同窓会でも、店でも、あんまりゆっくり話せなかったから。ちゃんと話したくて」
珠子を見つめる文翔の頬が見る間に紅潮していった。一方的に言うだけ言っておいてばつが悪そうな顔をする文翔を、箸を持ったまま惚けて眺める。
既に熱は胃に落ちたというのに、顔も胸も確実に熱い。
―――何からの熱かなど、もはや考えるまでもない。
「うん。私も話したい」
きっと自分も同じように赤くなっているのだろうと思いながら。
それでも珠子は今度こそためらわずに、文翔と同じ場所へと踏み込んだ。




