第四十四景【料理】表(残酷な描写あり)
紡ぎあげてきたものを。
少年はテーブル上のパンを掴み、一口食べる。
腹にたまるように硬めに作られたパンは、それだけを食べるのには向いていない。日に日に食べにくさを感じるようになってきたそれを、少年はなんとか噛んで飲み込む。
パンの匂いにはまだ嫌悪感はないが、かといって美味しそうだとも思えず。身体を動かし命を繋ぐためだけに、少年はそれを食べていた。
水で流し込んでから、気休め程度の量のサラダに手をつける。酢の匂いもまだ平気だが、食べたいと思えないのも同じであった。
傍らから自分を見ている視線には気付いていたが、そちらは見ずに食べ続ける。
こんなになってしまった自分を文句ひとつも言わずに世話し続けてくれている兄弟子。自分たちは対等だからと今は友として隣に立つ彼に心配をかけていることはわかっていたが、どうにもできなかった。
二ヶ月ほど前に起きた大きな騒動。
その渦中にあった少年は、心身ともに深い傷を負った挙句に、その残禍全てを背負い立つことを余儀なくされた。
身体の傷は癒えても心の傷は残り、性格まで捻じ曲げる。
重責を担うこととなった少年は、それでも表向きは変わらぬ立ち姿を見せていた。
憧れも妬みも一身に受け、それでも笑顔を絶やさずに。誰に対しても誠実に、何に対しても真摯であり続けた。
しかしそんな生活では蝕まれた心がそう簡単に回復するわけもなく。こうして次第にその影響が深刻になってきている。
少年が見た苛烈な光景は、宿兼食堂で育った少年の思い出の大半を塗り潰した。普通の家庭よりも幼い頃から身近にあったはずの、食べるということ。五感から受けるその刺激が少年には苦痛でしかなくなってしまったのだ。
「……付き合わせてごめん」
どうにか食べ物を詰め込んだ少年が苦笑う。
ふたりが暮らす寮の部屋に炊事場はなく、食事は食堂を利用する。
しかし自身が食べる物だけでなく、調理中や周りの人々が食べる物の匂いにまで影響を受けるようになってしまったため、段々と食堂での食事が困難になってきた。
皆同じ物を食べるため既に作り終えている朝と、利用者の少ない昼はまだなんとかなっていたが、夕食となるとそうはいかず。わざと空いていそうな時間を狙って行くのだが、充満する食べ物の匂いに思い出したくない記憶を揺さぶられ、とてもその場にはいられない。
そんなことが重なるうちに、食堂に足を踏み入れることはおろか、初めは食べられていた物まで食べられなくなってしまった。
元々は肉と果物に対してだけの反応だったはずが、今やスープの湯気さえも敬遠するようになり、口にできるのはパンとサラダと水のみ。食堂で食べることもできず、こうして青年に部屋まで運んでもらっている。
「気にするな」
怒ることも呆れることもしない青年は、いつも通りの穏やかな返事をした。その言葉が心からのものだと理解していても、日に日に募る罪悪感。
「これお願い。ゆっくり食べてきて」
自分と一緒では、きっと食べたい物も食べられないだろう。
それならこれでよかったのかもしれない。手間を掛けさせているが、少なくとも青年の食事の邪魔はせずに済む。
そう思いながら空の食器を渡すと、青年はじっと少年を凝視してから頷いた。
「ああ。行ってくる」
向けられた眼差しに、己の浅はかな気遣いなど気取られているのだろうなと思いながらも。
部屋を出ていく青年の背を見送り、少年は深い溜息をついた。
ひとりになった部屋で、少年は袖をまくり上げて己の腕を見る。
見るからに細く、頼りない腕。服で隠れているが、足も似たようなものだった。
怪我の療養から今まで、二カ月の間にすっかり肉が落ちてしまった。年齢的にはまだ成長期に入ったところ。周りより小柄で当然だが、この状態が普通でないことはわかっている。
自分に課された役目を果たすためには前線に立たねばならない。耐え得るだけの身体を作る必要があるのに、これではそのうち日常生活ですら危うくなる。
無理にでも食べなければ。
そう思えば思うほど身体は受け付けず。見かねた青年も最早勧めてこなくなった。
元々寡黙で表情の乏しい青年。思っていることは口にも顔にもなかなか出ない。今までの付き合いでそれはわかっているからこそ、本当はとっくに呆れられているのではないかという思いが頭をよぎる。
そんなわけがないと思う心を、自身の不甲斐なさが暗く黒く塗り替えていく。
あの光景はもう自分の目の前にはない。それなのに、いつまでも抜け出せない弱い自分。
こんな情けない自分は青年の献身に相応しくなどない。
呆れられて当然だと思う気持ちが胸の奥底に燻ったままだった。
それからも改善は見られないまま日は過ぎた。
そんな中、少年はとある噂を耳にする。
それは、青年が寮を出る準備をしているらしい、というもの。本部の敷地の外にある単身者用の建物に出入りしているところを何度も見かけられているそうだ。
しかし毎日顔を合わせる青年からは、そんな話は一言も出ない。
聞けば答えてくれるのかもしれない。しかし聞けぬまま、もやもやとした思いを隠して過ごす少年。
浮かぶ思いは、どうしてとやはり。
どうして自分に黙ったままなのか。
やはり自分は見限られるのだろうか。
だとしても、これだけ迷惑をかけているのだから仕方ない話なのかもしれない。
―――現状への落胆は自身への失望へと変わる。
こんな自分には重すぎる荷。
果てしなく遠いその先の望みなど、きっと叶えられやしないのだと―――。
今まで以上に食べられなくなった少年。青年は労るような声をかけながらも、明らかに姿を見せる時間が短くなった。
一向に抜け出せない自分など、もう見放されてしまったのだろうか。
問えないままに日は過ぎ、とうとう青年から寮を出るのだと告げられた。
「……そう、なんだ……」
もしかしたら間違いかもしれないという僅かな希望も打ち砕かれ、少年は取り繕いきれずに自嘲を浮かべる。
「……俺は大丈夫。子どもじゃないんだから、ひとりでも―――」
「一緒に出てくれるか?」
被せられた言葉に少年が瞠目した。
動きの止まった少年に、青年は更に続ける。
「隣の部屋も借りてある。まだ最低限の準備しかしていないが、お前もそこに移ってくれないか?」
言われた内容を理解するまでには暫し時間が必要だった。
もちろんこの真面目な兄弟子が冗談など言うはずもなく。呆然と見返していた少年の表情に、少しずつ希望の色が差す。
「……俺も……?」
「ああ。食堂で食べられるようになるまでは俺が作る」
その言葉で、少年はようやく青年の行動の真意を知った。
その日の夜、少年の前には透き通った淡い茶色のスープが出された。
湯気も立たない、一口分だけのスープ。
少しだけすくい、口元に持ってくる。冷めているお陰で鼻に届くのはほんの僅かな匂いだけ。
震えそうになる手で、恐る恐る口に入れる。
パンや水からは感じられない、柔らかな舌触り。冷めているのになぜか温かく感じる。あからさまに何かの味はせず、どことなく覚えのある甘みと塩味がわかるだけ。
(……美味しい……)
忘れていたその言葉が自然と浮かぶ。
ゆっくりとそれを飲み込むと、口内から喉を通り、身体の内側にその温かさが行き渡っていくように感じた。
感じる熱はあの日の熱とは全く違う、包み込むような温かさで。奪うものではなく守るものとして、穏やかに広がっていく。
顔を上げると、青年はじっとこちらを見つめていた。読み取りにくいながらも、今は心配そうな顔をしているのだとわかる。
じわりと視界が滲むのは、久し振りに美味しいと思えたからか。それとも、見捨てられたのではなかったのだという喜びからか。
零れそうになる涙に再び視線を落とす。
その心を疑ったことを詫びながら。
少年はゆっくりと、二口目を口に入れた。




