第四十三景【食べ放題】裏
素朴な幸せ。
両親の分の昼食の用意を済ませた連は、悩んだ末にようやく決めた紺地のシャツに着替えて家を出る。麦との待ち合わせにはまだ早すぎるくらいだが、どうせ家にいても落ち着かないからと諦めた。
(……いいのかな)
お礼をしたいと言われたものの、麦が作っていたのは店の商品なのだ。自分が協力するのは当たり前のことなのに、断りもせずこうしてノコノコ待ち合わせ場所に向かっている。
麦の前ではできない溜息を洩らし、連はどうするべきだったのかと今更な問いを繰り返す。実は冗談だったというところまで思考が飛躍したところで、待ち合わせ場所に麦が来た。
冗談ではなかったのかとほっとしていると、麦がありがとうございますと頭を下げる。
「いや、ありがとうは俺が言うべきなんだけど……」
そう言いながらも込み上げるのは、目の前に私服の麦がいる喜びで。
最初からこれでは取り繕い切ることができないだろうと、連は内心気合いを入れ直した。
平日昼前の空いた電車では自然と隣に座ることになる。今にも触れそうな左半身が気が気でない。
パンフェアの時はここまで緊張しなかったのにと、連は己の変わり様を内心苦笑う。
―――いつの間にか麦のことを気にしていた。
もちろん最初は仕事仲間としてだったのだと思う。麦との勤務はとてもやりやすく和やかで。今まで何人も従業員を怒らせてきたことさえ忘れてしまえそうなくらい、居心地がよかった。
その居心地のよさが麦の性格と仕事に対する姿勢からだと気付き、いつの間にか彼女自身を見るようになっていたのかもしれない。
仕事に支障が出る前にどうにかしないと。
そう思う時点で既に己の想いを認めているということなのだと。そう自覚してしまえば余計に意識してしまう。
いい歳をして叶いもしない想いを抱いて。手放すことさえできずに一挙一動に浮き沈みして。
本来なら断るべき今日の申し出にも、みっともなくも喰い付き浮かれて。今こうして隣に座っている。
これからも麦に気持ちよく働いてもらうためにも、決してこの想いに気付かれてはならない。
麦はもう丸川ベーカリーにはなくてはならない存在。自分の分不相応な想いで失うわけにはいかないのだから。
連れてこられたのは少し郊外の住宅地にある老舗のパン屋だった。レストランもやっているとの麦の言葉通り、パン屋にしては奥行きがある。
ショッピングモールなどにも店舗があるが、取り立てて珍しいものを出すような店でもない。麦はここは特別だと言うが、今のところ違いはテイクアウトのパンが売っているか否かといったところだ。
怪訝に思っていると、あの、と麦に声をかけられる。
「中では連さんって呼びますね」
唐突に呼ばれた己の名に衝撃を受け、連は麦を見やった。
「あっ、熱田さん??」
疑問符が飛び交う頭では碌な言葉が出ず、ようやくそう口にしたものの。
「私だけ名前で呼ぶのもなんなので、よければ麦って呼んでください」
結局は更に追撃を受け、連はスタスタと店内に入っていく麦を呆然と見送るしかなかった。
(む……りだって……)
必死に越えないようにと引く線を、どうしてこう軽く踏み越えてくるのか。
そう思ってから、ああ、と気付く。
(……なんとも思ってないから、だな)
自分には意味のある線も、麦にとっては何の意味もないのだ。
浮かれていた気持ちが急激に冷えていく。
単なるお礼としてこうして誘ってくれたのだから、自分もただ素直にお礼としてだけ受け取らなければ。
そう心に決め、連も店内に入った。
焼けたパンの香りに嗅ぎ慣れたイーストの匂いが僅かに混ざる店内。気を遣ってくれたのだろう、先に売り場を覗こうと言われて並ぶ商品を眺めてからレストランへ入る。
案内された席でメニューを見て、麦がショッピングモールにある同名の店ではなく、わざわざここに連れてきた理由を知った。
「……そういうことか」
零れた言葉に麦が頷く。
ランチメニューはメインとパンの食べ放題と飲み物。そしてその食べ放題のパンは、店頭売りしているもののうちから数種類と書かれていた。
先程見た売り場に並んでいたものは、半分はスイーツ系や惣菜系、そして半分が食事用のシンプルなパン。食パンやハード系、全粒粉のパンなど大ぶりに焼かれたそれが、ホールや半分などで売られていた。
ショッピングモールの店舗にテイクアウトの売り場はない。食べ放題であったとしても、おそらくパンが違うのだろう。
麦の方へとメニューを向けようとすると、もう決まっていると返された。多分これかと思いながら尋ねると、案の定の返事をされる。
平日限定のプレートは色々なものが少量ずつ。女子受けしそうなメニューだが、麦がそれを選ぶ理由はおそらく違う。
「メインはパンだよな」
がっつり肉料理を食べてしまえばパンが食べられなくなる。ハンバーグより値の張るプレートは、パンを楽しむのに特化したようなラインナップだった。
麦らしい。浮かんだひと言に、店に入る直前のささくれた気持ちが和んでいく。
「どれにするんですか」
「同じのを」
緩む口元を堪えながら、不貞腐れた声に笑みを返した。
店員が持ってきたパンを全種類皿に載せてもらう豪快さを笑うと、不服そうな顔をして食べ始める麦。
本当にパンが好きなんだなと思いながら、連もバケットを手に取った。
しっかりと焼けたクラストに、ほどよく気泡の空く内側。かじるとパリッとした表面の食感と香ばしさに、中のもっちりとした甘みが加わる。
料理とともに食べる前提のパンではあっても、そのものだけで十分に味わい深く。丁寧に作られたのだということがよくわかる。
店では作っていないカンパーニュもライ麦パンも、こうしてじっくり味わったことはなく。素材の違いからの味と食感の差を確かめながら食べていると。
「連さん、顔。真剣すぎです」
かけられた声、呼ばれた名、こちらを見て微笑む麦。立て続けの衝撃にすぐに声など出るわけもない。
やっとの思いで視線を逸らし、ハイと小さく呟いた。
(人の気も知らないで……)
知らせるつもりがないのは自分であるのにと、内心苦笑する。
それでも今は伝えないと決めた苦しさよりも、こうして目の前で笑顔を見られる喜びが勝ってしまう。
やがて運ばれたプレートを前にはしゃぐ麦の様子に、自然と気持ちが緩められていくのを感じた。
また互いに礼を言い合い、顔を見合わせ笑い合う。
僅かな疼きを上回る幸福感。
目の前に好きな人がいて、その人が嬉しそうに笑っているのだ。これが幸せでなければなんだというのか。
「まぁ……俺も麦さんには感謝してるよ」
戸惑いは諦めに変わり、少し肩の力が抜けて自然と言葉が出るようになる。
「店のこと、大事に思ってくれてありがとう」
それでもこれだけは恋情からではなく、自分が心から思うこと。
「……当たり前ですよ」
少しの沈黙の後に返された言葉からは、麦がどう受け止めたのかを推し量ることはできなかった。
それ以降はパンの話題も加わって、試作の時のようにあれやこれやと意見を出し合ううちに、いつもの店での様子に戻っていった。
違うのはただお互いの呼び名だけ。
満足するまで食べて語ってから、そろそろ出ようかと準備をする。
やはり自分が払うと言ってはみたが、結局は押し切られた。
「じゃあお言葉に甘えてごちそうになるよ」
「お礼なんですから当然ですよ」
満足気に頷く麦に笑いながら、連はそれにと続ける。
「誰かとゆっくり食べることってほとんどないから。久し振りに楽しい食事だったよ」
家族で営む店であるからこそ、両親といつでも顔を合わせてはいる。しかし揃って落ち着いて食事をすることなど、店が休みの正月くらいだ。
学生時代の友人たちとも疎遠になり、休日も母親に代わって家事をするので、外に食べに行くことも滅多にない。
こうして誰かと一緒に食事を楽しむこと。その温かみを久し振りに感じることができたような気がする。
ただの感謝のつもりだったのだが、麦ははっとしたように連を見たあと、そうですよねと呟いた。
「私とでよければ、また行きますか?」
思わぬ言葉に驚きはするものの、連はもう顔に出したりはしなかった。
「……いいなら、ぜひ」
麦の申し出は恋情からではない。
しかし、親愛の情ではあるのだろう。
―――もう、それでいい。
「じゃあ今度は俺に奢らせて」
「連さん??」
「パンの美味しい、いい店探しておくよ」
温かくも覚える痛みは、きっとこれからも変わらないだろうが。
こうして語り合え、その笑顔が見られるのだから。それで十分。
慌てる麦に笑みを向け、席を立つ連。
伝えることも手放すことも諦めた想いは重く、時には痛みを伴うものではあるが。
あまりある幸せもまた、その想いからのものだとわかっていた。
今回は【食べ放題】です。
小池はまぁよく食べる方です。家族もそうなので、食べ放題率は高めかと。元が取れているとは思えませんけどね。
パンの食べ放題ももちろん大好きです(笑)。そして結構食べてしまいます。そして欲望のままに食べたあとに水分を取ると死にそうになります。要注意です。
トッピング違いでたくさん並ぶより、生地の違うものがたくさん並んでくれる方が嬉しい。
当て書きのお店にもまた行きたいなぁ。
珍しい食べ放題といえば。昔まだハーゲンダッツのお店があった頃、日にち限定でやっていた食べ放題に行ったことがあります。トリアタマゆえ何個食べたか覚えていないのですけど、結構お腹が張って、トリプル二回か三回くらいで限界だった気が。スモールサイズとかなかったのですよね。
さすがに以前ほどは食べられなくなりましたが。
色々なものを少しずつ食べられるのはいいなぁと思います。




