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第四十三景【食べ放題】表

 ここ、の理由。

 クローゼットを開けて、端から端まで何度か行ったり来たりして。これでいいかと淡い紫のカットソーを出してくる。

 準備を済ませ、待ち合わせの時間に十分間に合うように家を出た(むぎ)

 (れん)との集合場所は最寄りの駅。浮かれているというわけではないが、どこか落ち着かない。男性とふたりで出掛けることなどないからかと思い、ひとり苦笑する。

 連にお礼をしたいと思った時に浮かんだ店。

 喜んでもらえたらいいなと独りごちた。



 改札前には既に連の姿があった。麦の姿を見つけると、どこかほっとしたような表情を浮かべる。

 少し歩調を上げて連の前へと来た麦は、そのまま軽く頭を下げた。

「店長。今日はありがとうございます」

「いや、ありがとうは俺が言うべきなんだけど……」

 少し言葉に詰まってから、連はまっすぐ麦を見る。

「店の商品を考えてもらったんだから、本当なら俺の方がお礼をすべきじゃあ……」

「今日は私がお礼をするって言ったんですからね」

 それ以上は言わせぬ勢いでそう言い切り、行きますよ、と麦が歩き出した。

「ちゃんとお腹減らしてきました?」

「まぁ、食べれるけどさ……」

 慌てて追いついた連が苦笑する。

「どこ行くのかは教えてくれないんだ?」

「すぐにわかりますよ」

 電車に乗って向かったのは、少し郊外の住宅地。大型の店舗が点在する中に麦の目当ての店はあった。

 店名は老舗のパン屋と同じ名。入り口隣の壁は上半分がガラス窓で、整然と並んだパンが見える。

「ここ、レストランもやってるんですよ」

 パン屋にしては大きすぎる店舗の半分以上はレストランスペースとなっていた。

 麦の隣で店を眺めていた連が、そういえばと呟く。

「確かあのモールにもあったんじゃ……」

 パンフェアで連と行ったショッピングモールにも確かに同じ名の店はあるのだが。

「ここは特別なんですよ」

 にっこり笑って麦が答える。

 その「特別」こそがここへ連を連れてきた理由でもあった。

 時間を確認するとまだ予約の時間には少し早いが、おそらく大丈夫だろう。

 問題は、と、麦は連を見上げた。

「……あの、中では連さんって呼びますね」

 店の中でいつも通り店長と呼ぶと周りや従業員の視線を集めることは、前回でよくわかっていた。

 この間のようなことにならないために、今日はちゃんとどう呼ぶかを決めてきていたのだが。

 店を眺めていた連が瞠目して麦を見返す。

「あっ、熱田(あつた)さん??」

「私だけ名前で呼ぶのもなんなので、よければ麦って呼んでください」

 連の慌てた声になんだか妙に恥ずかしくなってしまって、言おうと思ったことを口早に言い切り店へと入った。



 店内は入ってすぐにテイクアウトのパン売り場、そして奥にレストランがあった。

「ちょっと覗いてから行きませんか?」

 売り場の方を気にする様子の連にそう声をかけると、すぐに見たいと返ってきた。ひと通り見て回ってからレストランへと行き、案内された席に着く。

「……そういうことか」

 メニューを見た連の呟きに、そうなんですよと頷く麦。

 この店のランチメニューはメインの料理にパンの食べ放題と飲み物がつく。

「私はもう決まってるので」

 こちらに向けてくれようとする連を止めると、どれかと聞かれる。

 ハンバーグやチキングリルと並ぶ平日限定のプレートを迷いもせずに指差すと、ぼそりとやっぱりと言われた。

「メインはパンだよな」

 含みのありそうな眼差しにジト目を返し、どれにするんですかと急かすと、笑って同じのをと返された。

「ありがとう。店、興味ありそうなところを選んでくれたんだ」

 謝辞を伝える連の表情は普段よりも和らいでいて。仕事中ではないのだから当たり前ではあるが、見慣れぬ緩みになんだか落ち着かない。

「自分が好きなところを選んだだけですよ」

 紛らわせるようにそうごまかして、麦は店員を呼んだ。

 注文を済ませるとすぐに皿やカトラリーが運ばれてくる。そしてそれを待っていたかのように、平籠を持つ店員が席に来た。

 籠には二口ほどの大きさに切り分けたパンが数種類並んでおり、ひとつひとつの説明のあと、どれにしますかと尋ねられる。

 手っ取り早く、ひとつずつくださいとお願いする麦。向かいで連が笑いを噛み殺しながら、じゃあこっちにも、と告げた。

「豪快だね」

 皿に積まれた八種類のパンを見ながら笑う連を、麦は不服そうに睨み返す。

「いいじゃないですか。私はパンを食べに来てるんですから」

「わかるけどさ」

 何がそんなにおかしいのか、まだ笑いを堪える連にはもう何も言わず、麦はメインが来る前にとレーズンローフを手に取った。一般的なものよりもレーズンの割合が多く、パンもしっかりとした硬さがある。噛んでみると、ライ麦や全粒粉を思わせる粗めの重い生地にレーズンの自然な甘さがよく合っていた。

 続けてオレンジブレッドの爽やかな香りと生地の柔らかさを堪能し、ライ麦パンにはバターを塗って独特の酸味を楽しむ。

 そろそろ笑いも止まっただろうかと思い顔を上げた麦は、正面の連の表情に声をかけるのをやめ、先程の不満をそっと吐息で散らした。

 じっとパンを見て、一口かじって味わって。その真剣な眼差しは仕事中の様子と変わりない。

 ―――そう。だから自分は連をここへ連れてきたかったのだ。

 この店のパンは生地の違いを楽しむパン。バケットとブールの食感の違いや、ライ麦や全粒粉の粉そのものの違いを味わうことができる。そっけなくシンプルではあるが、その分こだわって丁寧に作られていることが伝わってくる。そんなパンを食べ比べられるのだ。

 同じように素朴なパンを真摯に作る連ならば、きっと得るものがあると思ったから。

 やはり正解だったという安堵と、それを選ぶことができた嬉しさと、思った通りの真剣さへの尊敬と。混ざる想いは多く、胸の内のすべての感情を自覚することはできなかったが。

(よかった……)

 目の前の連の様子に温かなものを感じながら、それにしてもと笑みを浮かべる。

「連さん、顔。真剣すぎです」

 大真面目な顔でパンを無言で味わう様子は、さすがに食事を楽しんでいるようには見えない。小声で注意すると、連ははっと瞠目して何やら口をぱくぱくとさせてから。

「……ハイ」

 視線を逸らして小さく呟き、手に持っていたパンを口に放り込んだ。



 おまたせしました、とふたりの前に皿が置かれる。

 大きめの皿にはハムとスモークサーモン、グリーンサラダやマリネ、スープ、ディップやペーストなどがすべて少量ずつ載せられていた。

「パンもそうだけど。これだけあると何から食べるか迷うね」

 置かれた皿をまじまじと見つめ、連が感嘆混じりの声を洩らす。

「ですよね」

 平日限定のプレートは、パンを主役として食べるための一皿だった。

「なかなか友達とは予定が合いませんけど。こういう時は平日お休みでよかったなって思います」

 カンパーニュに蜂蜜を垂らしながら、麦は笑顔でそう言い切る。

「でもひとりじゃ来ないんで。今日久し振りに来れて嬉しかったです」

「そう言ってもらえるとありがたいけど。お礼を言うのは俺の方だよね」

「そもそも私からのお礼ですって」

 平行線な感謝にお互い顔を見合わせて笑い合い。すっかり表情の緩んだ連が、まぁ、と呟く。

「……俺も()()()には感謝してるよ。店のこと、大事に思ってくれてありがとう」

 和らいだ声は、店長としてではなく連個人としての気持ちのように思えて。

 自分からそう呼べと言ったというのに、いざ本当に名で呼ばれるとなんだかむず痒く、どうにもいたたまれなかった。



「この大きさで焼くからってのはあると思うんだよなぁ」

「クラスト部分が減るので柔らかくなりますけど。切ると乾きますからね」

「うちはどっちかっていうと小さめの方が需要があるから難しいな」

 腹も満たされ緊張も解れてくると、自然とパン談義が始まった。

 新製品の試作でもそうだったが、連とふたりでこうして突き詰めていく作業はとても楽しく。同時に連の経験と知識の量に、麦は尊敬の念を抱く。

(……丸川ベーカリー(あの店)に勤められてよかったな)

 自分はまだ連のようにはなれないが。こうして話ができる程度には成長したと思ってもいいのだろうか。

 背中を追うだけではなく、いつか並ぶことはできるだろうか。

「麦さん?」

 かけられた声に我に返り、なんでもないと首を振る。怪訝そうにこちらを見る連はいつも通りのはずなのに、時々視線をやってしまうのは私服のせいか、と尤もらしい理由を並べた。

「そういえばさっき連さんが食べてたやつなんですけど―――」

 いつの間にか名を呼ぶことにも呼ばれることにも慣れてきていると気付かないまま。

 思っていた以上に楽しい昼食は、ふたりがこれ以上食べられなくなるまで続いた。

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― 新着の感想 ―
 麦、考えましたね。  食べ放題。平日限定のプレートならパンを思う存分味わえそうです! 美味しそう。パンの食べ放題はサン○ルクしか知らないのですが、ほかにもあったら食べに行きたいなぁと、この回を読んで…
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