第四十一景【バター】裏
折り重なる気持ち。
「じゃあ休憩行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
昼休憩から戻った麦にあとを任せ、連はバックヤードへ向かった。
棚の端に置かれた、袋入りのデニッシュ。
麦が自宅で試作してきたものだ。
店で作るとばかり思っていたので、突然デニッシュを作ってきたと言われて驚いた。
これからは就業時間内にしてもらうことになったものの、余計な手間と時間をかけさせたことを申し訳なく思う。
息をつき、連はデニッシュを手に取った。
この先いつもの仕事に加えて、丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリーを作る作業が加わることになる。
仕事を増やしたことを謝ると、麦からは自分も社員なのだとパンフェアの時に言っただろうと返ってきた。
その言葉に蘇る、同日の出来事。
この店のことを「うち」と言ってくれた麦。それがどうにも嬉しかったことを思い出す。
あの時はまだぼやけていた想いも、今はもうはっきりと胸にはあるが。きっとこの先も、口に出すことはないと思っている。
彼女はここの社員。それ以上を望むのは間違っているのだから―――。
帰るなり真っ先に麦のデニッシュを取り出し、切った断面を見てからひと口食べる。
焼いたのは昨日、もちろんもうデニッシュらしい食感はないが、ほんのりとした甘さはその柔らかさとも合っていた。
(……相当作ったんだろうな)
自分にも覚えある、その苦労。毎回生地から作ったとなれば尚更だろう。
気付かず手間をかけさせた申し訳なさよりも、店のためにそこまでしてくれたことへの嬉しさが上回る。
店に戻り、中の作業となった麦に食べてみたと伝えると、少し緊張したような顔付きでどうでしたかと聞かれた。
「層もきれいに出てたし、店に出せそうな出来だったよ」
「お世辞でも嬉しいです」
明らかにほっとする麦に、お世辞じゃないけどと思いつつ、改良案があるかと尋ねる。
溶かしバターならコストも手間も省けるのでは、と言う麦。
思うところはあったが、経験することも大切だと思って口には出さなかった。
試作の結果は案の定というところで。
落ち込む麦に声をかけたものの、その顔が晴れる様子はなかった。
思いついたことは何でもやってみればいい。
そう許可は出したものの、麦も初めの頃は変わらず詰めるだけ詰めてから試作に取り掛かっていた。そのうち案も尽きたのか、詰める前のぼんやりとしたイメージを話してくることが増えた。
相談とまではっきりしたものではない。麦自身も漠然とした何かを掴むような心持ちだったのかもしれない。
重なる失敗に方向を見失いつつあるように思えたものの。尋ねられたことは濁さず答え、それ以上はあまり踏み込まずに見守る姿勢を貫いた。
その日も閉店作業をしながら考え込んでいる様子の麦に、もう上がっていいと声をかける。大袈裟なくらい驚く麦に、どれだけ思い詰めているのかと少し申し訳なくなった。
「そんなに驚かなくても」
苦い笑みは、手を貸さずに導くことができない己へのもの。上手く誘導してやれれば、これほど麦を悩ませることもないだろうに。
暫し連を見た麦が、不意に口を開いた。
「……店長にとって、この店ってどんな場所ですか?」
「え?」
「丸川ベーカリーって、どんな店だと思ってますか?」
唐突な問いに驚くものの、麦の表情は真剣そのもので。
普段の雑談で振られたのならば、きっと本音は言わずにごまかす話題であったが。
「そうだな……なんてことない普通のパン屋、かな」
今の麦に逃げる答えは返したくなかった。
この店は決してはやりの店ではなく。あの日麦に案内された店のように、小洒落たスマートさもない。
自分が子どもの頃から変わらない。何も特別なことなどない、客の日常に寄り添うような、本当に普通の町のパン屋。
「今はもう時代遅れかもしれない。それでも俺は、親父たちの作ったこの店のままがいい」
それが両親が作り上げたこの店で。
この先自分が守りたい店の姿。
まっすぐに麦を見返しそう告げる連。
驚きで強張る麦を緩めるように、息をついて笑みを見せる。
「ま、親父たちには内緒で頼むよ」
いつも通りの軽い口調でつけ足すと、呆けていた麦がはっと我に返った。
向上心がないと呆れられるかもしれないと思ったが、自分を見る麦の表情からはそうも思えず。内心安堵の息をつきながら、連は今は空っぽの店内へと視線を向ける。
「うちのパンは食べて印象に残るパンじゃないけど」
並ぶパンはいかにも普通の、映えどころか写真を撮られることすらないものばかり。ここでしか買えないようなものではないが。
「その分お客さんにとってのいつものパンになってくれたらいいかなって、そう思うよ」
だからこそ特別な、ではなく。見慣れたそれ、になれたなら。
自分はその方が嬉しいと思うから―――。
どこまで伝わったかはわからない。
黙ったまま話を聞き終えた麦は、暫しの沈黙のあと、ありがとうございますと頭を下げた。
翌日、麦は都合のいい日に一日店に立たせてほしいと言い出した。こっそり自分の休みを半日潰して都合をつけようとしたが気付かれ、麦と休みを入れ替えることでどうにかシフトを調整した。
麦は店に立ちたい理由を言わなかったので、連も聞き出すようなことはしなかった。
「ありがとうございました。無理言ってすみません」
当日、退勤した麦は少しすっきりとした顔でそう礼を言ってきた。
店に立っている間はいつも通り明るく客に接していた。傍目には何も変わった様子はなかったが、麦本人は何か得るものがあったようだとほっとする。
「これくらいいつでも」
努めて軽く。そう心がけて応える。
麦は和らいだ表情で、お先に失礼しますと頭を下げた。
「ひと晩考えてくるので、また明日相談に乗ってもらっていいですか?」
「もちろん」
即答に返されたのは、安堵と何かが含まれた笑み。
お願いしますね、と言い残し帰っていく麦の背を見送って。暫く立ち尽くしていた連は、喜びと自嘲の混ざった吐息をついた。
素朴で飽きのこないヴィエノワズリーを目指したい。
翌日、麦は久し振りに見る明るい笑顔でそう告げた。
「シンプルなのがいいと思うんですけど、具体的にどうとはまだわからなくて。店長も一緒に考えてもらえますか?」
はっきりとそう頼まれたものの、最初はどこまで出しゃばっていいのか迷っていた連。しかし麦からの質問に答えるうち、そんなことも気にならなくなってきた。
以前新商品を考えた時のように。麦とふたりで考え、話し合い、突き詰めていく作業は楽しかった。しかしその反面、あの時よりも色濃くなった気持ちを隠し通すことが厄介で。気を抜くとすぐに滲みそうになる。
言うつもりはない―――のに。
ふとした瞬間にいちいち動揺する自分が情けなかった。
結局折り込みを簡略化することは諦め、柔らかくしたバターを少し控えめに使い、店に出すのを週に一度にすれば、少しではあるがコストと手間を減らすことができそうだということになった。
当面はシンプルなシュガーデニッシュだけ。作業に慣れた頃に売上が好調なら、カスタードかチョコレートのデニッシュを増やしてもいいかと話し合った。
「じゃあ熱田さん。これから忙しくなるだろうけど、よろしくね」
実際に売り出すのはまだもう少し先。ひとまず社員全員が安定した商品を作ることができなければならない。正治と千春には頑張ってもらわねばならないが、丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリーを作りたいという麦の気持ちを知れば張り切ってくれるだろう。
退勤する麦にそう声をかけると、麦は連を見上げてもちろんですと頷いた。
「私が言い出したのに、結局私ひとりじゃできませんでした」
「ひとりでやる必要なんてないって」
思わず強くなってしまった語調に、ふたりで顔を見合わせて笑う。
「そういえば。店長、今のシフト、休みが被ってるところありましたよね?」
ひとしきり笑ってから、思い出したように麦が切り出した。
「あったと思うけど……」
何をと尋ねかけ、自分を見る麦の笑顔に声を失う。
仕事中のそれとは違う、少し緩んだ表情。目の前にいるのはパンフェアの時と同じ、プライベートの麦。
一気に膨れ上がりそうになる気持ちをなんとか堪える。麦の瞳に特別な熱はない。自分に都合のいい展開などあるわけないと、連は己に言い聞かせる。
「うちらしいヴィエノワズリー、形にできたのは店長のお陰です。……だから、よければ」
こちらの荒れる胸中などお構いなしに、いっそ腹が立つほどなんでもない様子で。
「お礼がしたいので、一緒に出掛けませんか?」
麦から渡されたその『お誘い』に。
―――否を返せる強さは、連にはなかった。
ちょっと半端に終わってしまいましたが。続きはまた来月に。
ようやく【バター】を書けました。
バター、すっかりお高くなってしまって(泣)。パウンドケーキなんかだとひと箱使うのですよね……。
なので代替用にオイルのレシピを買ったのに、今度はオリーブオイルまで高くなって。
……日本にも牛さんいるんだから。バターいっぱい作ってほしい……。
市販ものでも、パンやらお菓子やらで「バター」がつくと見てしまいます。
食べてみたいのがセブンのバターステイツ。
小さそうなのに三つで三百円。思わず手が止まるのです……。
クッキーのソルティバターは止まらないからヤバい。某メーカーのは食感も好みで。先日ファミリーパックを発見……。我慢……。




