第四十一景【バター】表
目指すものの姿。
ピー、ピー、と電子音。それを合図に麦はオーブンから天板を取り出した。
オーブンシートの上にはこんがりといい色に焼き上がった細長いデニッシュ。表面に振ったグラニュー糖は溶け、透き通る艶を加えている。
少し冷ましてからカッティングボードに取り、三分の一ほど切る。冷えて飴状に硬化した砂糖の膜が、表面の生地とともにパリパリと割れていく。そこを越えればあとの手応えは柔らかく、最後にザクッと底に当たる。
幾重にも重なりながら柔らかさを失わず、周りはパイ生地のように軽さをもって。
ようやくできたレシピ通りのデニッシュに、麦はほっと息をついた。
丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリーを作る。
そう宣言してから、自宅で何度も試作を重ねてきた。
連からもらったレシピで作ろうにも、連は店で作った菓子生地を使っていて。自宅で試作するには生地から作ることになり、そのあまりの勝手の違いに時間がかかってしまった。
とにかく作業に慣れるために、自宅での試作段階では扱いやすい家庭用のレシピで生地を作り、改善できそうな点を考えた。
減らさなければならないのはコストと手間。そのための案はひとつあるが、上手くいくかどうかはわからない。
とにかく、と。麦は冷ましたデニッシュをひとつ袋に詰めた。
「おはようございます」
「おはよう」
出勤した麦を、いつも通り麺台から連が迎えた。麦はデニッシュの入った袋をバックヤードに置いて、二階へと着替えに上がる。
(……持ってきちゃったな)
まだレシピ通りのデニッシュができただけ。改良案を試したわけでも、丸川ベーカリーらしいといえるものができたわけでもないというのに。
自分にも作れるのだということを見せたいだけの対抗心なのだろうか。なんとなく、連に食べてもらいたくなったのだ。
己の行動はどうにも子どもじみたライバル視にしか思えず。連に笑われてしまうかもしれないなと思いながら、コックコートに着替えた麦は店へと降りた。
今の状況を一通り見て、遅れがないことを確認する。昼前にパートの有原が来るまでは店内仕事が主となるので、客の様子を見ながら店内と作業場を行き来する。
バックヤードには置いたものの、持ってきたデニッシュのことを連に言い出せないまま。しかしこのままでは出勤した有原に見つかってしまう。
そう考えてから、別に隠すようなことではないのにと、己の心境を怪訝に思う。そもそもこうして言い出せないこと自体、どうかしているとしか言いようがない。
デニッシュの出来をどう思われるのかが心配なのか、と内心苦笑して、麦は客のいない間に作業場に入った。
「デニッシュ作ってみたんです」
窯出しを手伝いながらそう言うと、麺台で生地玉を伸ばしていた連の手が止まった。
「まだレシピ通りですけど。裏に置いてあるので、あとで食べてみてください」
「ちょっと待って、熱田さん」
慌てた様子でこちらを見る連。
「作ったって、家で?」
「はい」
生地は、と尋ねる連に家で作ったと返すと、どうにも申し訳なさそうな顔付きで溜息をつかれた。
「ごめんね、熱田さん。そこまで気が回らなくて」
「店長?」
「試作なのに。店で就業時間内にすればいいって、俺が言わなきゃならなかった」
掛かった費用と時間を教えてと続ける連に、今度は麦が慌てて首を振る。
自分が勝手にやりたいと言いだして始めたことなのだ。それなのに店側に迷惑をかけるわけにはいかない。
結局今までのことは考えない代わりに、これからは店でできるだけ就業時間内に試作をすることで落ち着いた。
「仕事増やしてごめんね。忙しくなっちゃうかもしれないけど」
「何言ってるんですか」
謝る連に麦はにっこり微笑む。
「私も丸川ベーカリーの社員なんだって、パンフェアの時に言いましたよね?」
そもそも言い出したのは自分なのだ。やりたいことをやっているだけなのだから、忙しくなったとしても気にはならない。
一瞬瞠目した連が、短い息とともにふっと緩んだ。
「ありがとう」
仕事中に見ることのない、しかし覚えある、柔らかな表情。
なんだか見ていられなくて、仕事に戻ります、と言い残してその場を離れた。
午後、麺台で並んで一次発酵の済んだ生地を分割しながら、デニッシュの改良点を話し合う。
「何か案はあるの?」
「コストダウンはバターの量を減らせればと思って」
切り分けられた生地を丸めながら、麦が答える。
「調べたら、柔らかくしたバターを塗る方法もあるみたいで。それならいっそ溶かしバターにすれば量も抑えられるかな、と」
「あれは普通に折り込んだんだよね」
昼休憩の時に麦の作ったデニッシュを食べてきた連。
「やっぱり手間はかかるか」
「溶かしバターなら伸ばすのも少しやりやすくないかな、と思ってて」
「そう……だなぁ……」
思案顔の連の言葉は妙に歯切れが悪く。その場では怪訝に思っていた麦も、すぐにその理由を知ることとなった。
手が空いたからどうぞと言われて試作を始めた麦。窯で溶かしバターを作り、冷やしてある仕越し用の生地玉を伸ばして塗る。二つ折りにして伸ばそうとするが、上下が滑ってすぐにずれる。伸ばすうちにバターが押し出され、生地につくと更に折った生地がくっつかなくなる。
まだ成形の下手な時、中に入れる餡やクリームが溢れると閉じることができなくなったことを思い出した。
結局麦には纏めることができなくなり、見かねた連から三つ折りにしてから巻けばいいとの助言をもらう。なんとか形を整えて焼いてみたものの、できあがったのは僅かに渦の跡が残るだけのパンだった。
「多分上手く折り込めたとしても、デニッシュって呼ぶにはバターが少なすぎたと思うよ」
慰めるような連の声に、頷くことしかできなかった。
それからも合間に試作を重ねるものの、これといった打開策は見つからなかった。
作業の簡易化が滞っているのも事実だが、問題はもうひとつある。
ただ手間とコストをカットしただけではなく、目指すのは丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリー。明確なイメージがないままなので、向くべき方向を決めきれずにいた。
その日も閉店作業をしながら、麦は己の目指すべきものをぼんやりと考える。
(ここらしいって……なんだろう……)
「熱田さん、もう上がっていいよ」
かけられた声に、思わず飛び上がる。
そんなに驚かなくても、と苦笑する連。営業中よりは若干和らいでいるその顔に、先程までぐるぐると考えていた問いが口をついた。
「……店長にとって、この店ってどんな場所ですか?」
「え?」
「丸川ベーカリーって、どんな店だと思ってますか?」
少し思い詰めたようにも見える麦に、連は緩めるように笑みを見せ、そうだな、と呟く。
「……なんてことない普通のパン屋、かな」
予想もしない返答に瞠目する麦。続く連の声音は、諦めでもなげやりでもなく。
「子どもの頃からそうだけど。俺から見たこの店は、特別なことなんて何もない、お客さんの普段の生活の中にある店だった」
どこか羨望にも似た響きを含み、紡がれる。
「今はもう時代遅れかもしれない。それでも俺は、親父たちの作ったこの店のままがいい」
親父たちには内緒で頼むよ、と。空気を戻すように軽くつけ加えて。
「うちのパンは食べて印象に残るパンじゃないけど。その分お客さんにとってのいつものパンになってくれたらいいかなって、そう思うよ」
願うように、連が呟いた。
数日後。丸一日接客をさせてほしいと申し出た麦は、望み通り店頭に立っていた。
連の両親、正治と千春が始めたこの店は、地元の常連に愛される素朴な店だ。中には開店当初から、もう数十年間は来ているという人もいる。
朝によく来る常連のおばあさんは、やっぱりここのが食べたくなるのと言って、クリームパンと何かもうひとつを買っていく。
最近幼稚園帰りに来てくれるようになった親子は、ホイップメロンパンは大きいからはんぶんこにするのだと教えてくれた。
昔ながらの店舗でも、だからこそ落ち着いて入れる。並ぶパンは素朴だからこそ誰にでも好かれ、何年経っても飽きられることがない。
一日客に接して、そしてあの日の連の言葉を頼りに、麦がようやく見つけた答え。
―――目指すのは、素朴で飽きのこないヴィエノワズリー。
洒落た店にきらびやかに並ぶものではなく、日々の生活に寄り添うようなものであるべきだ。
方向が決まれば、あとは前に進むだけ。
(店長にも相談に乗ってもらって……)
自分が、と意気込んでいた気持ちがいつの間にか変わってきていることに気付かないまま。
店内を整えながら、麦は目指す夢の姿を思い描いていた。
1/10追記。
【バター】以後「丸川ベーカリー」が「丸山ベーカリー」になっておりました……。
修正いたしました。申し訳ないです。




