第四十景【月】
ただ、空にいるだけ。
わたしは今日も空にいる。
細くなったり、丸くなったり。
小さくなったり、大きくなったり。
わたしに不思議な力があるのかなんて、わたし自身にもわからないけど。
それでも今日もここから、変わらずに地上を見ている。
遠くから呼ばれたような気がして、わたしは辺りを見回した。
今度ははっきりとわたしを呼ぶ声が聞こえる。
舌っ足らずな子どもの声。泣いているのか、時々途切れながらも必死にわたしを呼んでいた。
どこだろうかと耳を澄ませる。
まだ細いわたしの光では、地上の隅々までは照らせない。星の力も借りながら声の主を探していく。
暗闇に命を抱く森。
水底に星の光を孕む海。
風と踊る草原にも、歩みを止めない川にもその姿はない。
いるのはただ、黙ってわたしを見上げるもの。
わたしに気付いて微笑むもの。
じっと見つめて佇むもの。
眼差しの奥、心の中で願う声。
声なき声はこうしてわたしを惹きつける。
呼びかけられてはいないけれど、向けられる想いに瞬きを返す。
わたしには、叶える力はないけれど。
少しでもその気持ちが明るくなるように、せめて精一杯の光を向けた。
空にいるわたしの姿が見えているならば、わたしからも必ずその姿は見えるはず。
そう思い、小さな声を辿っていく。
向けられる声は、困り果てた悲しみに溢れ、だんだんと暗さを増すようで。
すぐに見つけるからねと瞬きで応えて辿るうち。
明るすぎる光に溢れ、わたしからは見づらい街の片隅。ひっそりと息を潜めるように隠れる小さな陰をようやく見つけた。
どうしたのかと尋ねると、その子はその場で顔を上げる。
わたしの声だと気付くと、ますます泣きながらお母さんが迎えに来ないのだと話してくれた。
どうやら母親と一緒に街まで来て、ここで待っていてと言われたものの、いつまで経っても母親が迎えに来ないらしい。
周りは見たことがないものだらけ。唯一知っているわたしの姿を見つけて、必死に呼んでくれたその子。
一緒にお母さんを捜しに行こうかと言うと、悲しそうに首を振る。
ここを動かないで言われたから行けないと言い張るその子に、お母さんが戻ってきたら教えてあげるから、と説得する。
わたしと一緒に空にいれば、お母さんも捜せるし、どこからだってこの場所が見える。そう言うと、その子はようやく頷いてくれた。
暗闇から出てきたその子を空へと導いて、まずはその子の家に戻ってみることにした。
戻る、とは言っても。この子は自分の住んでいたところがどこなのかよくわかっていない様子で。
空から見てもらおうと思っても、ほっとしたのか涙が止まらないまま。まずは落ち着いてもらわないとどうしようもなかった。
家があるのはどんなところか尋ねると、川の近くにお花の咲いてるところ、と返ってきた。
ほかには何が見えたか、何があったかを少しずつ聞いていく。
そうして話すうちに涙は止まったみたいで。この子はじっとわたしを見て、お母さんも同じ金色なんだよ、と笑顔で教えてくれた。
ようやく笑ってくれたこの子と、今度は地上を見ながら捜していく。
見覚えのある景色はないかと聞くけれど、こんな上から見たことないからわからないよと笑われる。
明るいその笑顔にほっとしながら、家の周りのことを詳しく聞いていった。
川ではお魚が捕れて、お花はもうすぐ咲きそうで。街とは違って静かだけど、もっといろんな音がするんだ、と。最初は楽しそうに話していたのに、次第にしどろもどろになっていって。
帰りたい、とまた涙ぐむこの子を宥めるうちに、東の空が明るくなってきた。
今夜はもう帰る時間。
この子と一緒に眠りについた。
それからは毎夜、この子と一緒に母親と家を捜した。
出会った頃は細かったわたしもだんだんと膨らみ、それに従い光も増して。初めは光の届かなかったところにも光が届くようになった。
川面を跳ねる水飛沫。
木々の隙間から覗く花。
どれを見せても違うと首を振るこの子。
煌めいて広がる海原に、初めて見たよと歓声を上げたり。
赤黄に染まる山肌に、どんぐりをたくさん拾った話をしてくれたり。
目に映る景色を楽しむ様子は子どもらしく無邪気であっても、すぐに母親のことを思い出して沈み込む。
暗く陰を纏うよう。それでもわたしの光が届く限り、暗闇に囚われるようなことはない。
ただ、やがて来る新月の日にわたしはいない。
それまでに母親を見つけないと、この子は―――。
迎えた満月の日。今日が一番わたしの光が強い時。
いつにもまして輝けるよう、わたしも精一杯力を振り絞る。
この世のすべてを余すことなく照らせるように。
そして今夜、この子の母親を見つけられるように。
木の根元に萌え出た芽の影。
川を上った魚の卵の下。
いつもは隠れて見えないところまで、私の光を届かせる。
見上げて願うものの多い、今日この日。もしかしたらこの子の母親も、空を見上げてくれるかもしれない。
気付いてと思いながら
隅々にまで光を当てた。
不思議な願いが伝わってきた。
普段はただその場で静かに咲いている花たちが、少しでも遠くまでこの香りを届けたい、と願っている。
ありのままを受け入れる植物たちが、こうして願うことは本当に珍しい。そう思いながら、声の方に視線をやった。
小さな川が流れ出る山、その中腹に濃淡様々な桃色の花がたくさん咲いている。
小さな鼻がぴくんと動いた。
お花の匂いがする、と騒ぎ始める。見下ろしてみてもわからないとは言うものの、この子の家の傍にもあの桃色の花畑があるらしい。
降りてみようかと声を掛け、花畑へと連れて行った。
ここ、と叫ぶその子。
小さな脚をバタバタさせる様子に身体を放してやると、まっすぐに花畑の横にある川へと向かった。
川の土手には横穴が空いている。お母さん、と叫びながらその子は穴へと入っていった。
どんなに頑張っても穴の中までわたしの光は届かない。何もできず待つうちに、中から柔らかな白い光が溢れた。
時折目にするその光は、柵から解き放たれた証。わたしの傍でもまだ薄く陰を纏ったままだったその子も、穴から出てきた時にはすっかり元の色を取り戻していた。
ありがとうと笑うその子のうしろから、その子にそっくりの金色の毛並みの母親が姿を現した。
深々と頭を下げ礼を言い、母親は事の顛末を話してくれた。
足りぬ食料に街へと降り、その子と別れてから命を落とした母親。
戻った時には子も既に落命しており。ここにいなければならないという思いに囚われた子はその地の陰に縛られてしまっていたのだろう、母親には姿を見つけられなかったという。
一縷の望みを託して戻ってきたものの、もちろん巣穴にも子はおらず。子を想う気持ちに囚われたことで母親も子と同じく地に縛られ、そのまま出られなくなってしまったらしい。
ふたりを知る花畑の花たちが、子に会いたいと願う母親のためにわたしに願ってくれた。
懐かしい花の香り。届けば子が戻るかも、と―――。
涙ながらに礼を言う母子。懐かしむように暫し花畑で佇んだあと、還ろうねと母親が告げた。
花たちに見送られ、ふたりと一緒に空へと昇る。
わたしの居るべき場所よりも、もっと上へとゆくふたり。もうはぐれないように、わたしの光で行先を示す。
嬉しそうなふたりの姿が見えなくなるまで、ずっとずっと照らし続けた。
すっかり静かになってしまって、少し寂しくなるけれど。
地上からは変わらずに声なき声が聞こえているから。
夜が明けるまで、まだもう少し。
声のする方へと、わたしは視線を向けた。
わたしは今日も空にいる。
丸くなったり、細くなったり。
大きくなったり、小さくなったり。
わたしに不思議な力があるのかなんて、わたし自身にもわからないけど。
それでもここから、ずっと変わらずに地上を見ている。
中秋の名月、ということで。久し振りのカレンダー連動です。
お月さま。いいですよね。
満月でも。三日月でも。どちらでもなくても。
月の向こうに誰かを見ているのか。
月を通して自分の心の中を見ているのか。
わからないですけど、じっと見ていると、何か余分なものが落ちていくような気もします。
まぁこれは月に限らずで。
素敵な景色を前にすると、そういうものなのかもしれませんね。




