第三十八景【ソフトクリーム】表
内に落ちる冷たさに。
二限目の講義を終え、橙也は急いで教室を出た。
目的地は隣の棟の三階。ぞろぞろと教室から出てくる人波を逆行して中へと入る。
階段状の席の真ん中、一番窓際。
いつもの場所にその姿があって内心ほっとした。
少し茶色がかった髪を無造作にうしろで纏め上げ、ジーンズに綿シャツのいつも通りのラフな格好。
「橙也。おつかれ」
入ってきた橙也に気付き、ふっと笑みを見せる女性。
間に合ったと安堵しながら、小さく手を振った。
高校の同級生で同じ陸上部の小岩玲とは大学に入ってからも「友人」だった。
さっぱりとした性格の玲。いつも周りを明るく前向きにしてくれるようなその為人で、高校時代から男女区別なく皆から好かれていた。しかし本人がそれを鼻にかける様子はなく、こうして冴えない自分のこともほかの人と変わらず接してくれている。
もう必要単位は取れているのに面白そうだからと玲が取ったこの講義は、専門ではなく一般教養なので同じ学部の友人もおらず。それをいいことに毎週自分が一緒に昼食をと誘いに来ても、邪険にされたことなど一度もなかった。
「お待たせ! 行こう!」
軽い足取りで前の入口まで降りてきた玲は、ぽんと橙也の背を叩いて先に教室を出た。
向けられた笑みと気楽に触れていく手に、嬉しさ半分、戸惑い半分の吐息をこっそりとつく。
(人の気も知らないでさ)
本当は、友達の範疇などとっくに超えている。
週に一度のこの時間を自分がどんなに心待ちにしているのか。どんなに緊張して彼女の姿を探しているのか。
きっと玲は知る由もないのだろう。
「お腹すいた! 何食べよっかな」
学食の券売機に並びながら、にこにこと嬉しそうにメニューを眺める玲。
「橙也は? 決めた?」
「日替わりかなぁ」
「う〜ん、ハンバーグもいいけど、今日は唐揚げの気分なんだよね」
それぞれチケットを買い、注文口へと持っていくと、すっかり顔見知りの従業員たちに今日も来たねとにこやかに挨拶される。
「玲ちゃんの食べっぷりは、いつ見ても気持ちいいね」
「おばちゃんたちの作ってくれるご飯が美味しいからだよ」
「嬉しいことを言ってくれるねぇ」
カラカラと笑いながら出してくれたトレイを持って、空いているテーブルに向かい合わせに着いた。
「いただきまーす!」
嬉しそうに、前に置いたご飯大盛りの唐揚げ定食に箸をつける玲。
この細い身体のどこにこれだけ入るのかと皆から言われるくらいに、玲はよく食べる。陸上を辞めてからは、本人曰く少し減ったものの、それでもこうして大盛りご飯を難なく平らげるのだ。
幸せそうに頬張る姿と、美味しいねと向けられる微笑み。普段は少し男っぽい言動なのに、食べている彼女はたとえどれだけ頬張っていてもかわいらしくて仕方ない。
それに気付いてしまい、あっという間に恋に落ちた。
そうして彼女を見るようになると、普段の行動の端々の女性らしい素振りが目につくようになった。
どんなに男らしく、どんなに気安く振る舞われても、自分にとってかわいらしい女性でしかない彼女。片思い歴ももうすぐ丸六年ともなると、ほかの男子生徒と気さくに話している姿に嫉妬めいた感情を抱くのにももう慣れた。自分に対してもそうであることは嬉しくも、異性として認識されていないのだと悲しくなる。
だが友人としてではなく女性として見ていると知られたら、もうこうしてふたりで食事などしてもらえないかもしれない。
かわいらしい様子を向かいで見られる喜びと想いが成就するなんて一縷の望みなど天秤にかけるまでもなく。こうして友人の立場から逸脱しないように過ごしてきた。
しかし、タイムリミットは確実に近付きつつある。
大学は運良く第一志望が同じであったが、就職先は違う。
今のままでは、卒業すればそれまでの縁。
わかってはいたが、一歩を踏み出すことができずにいた。
「橙也?」
箸の止まる橙也に気付いた玲が声をかけた。
「どうかした?」
はっと顔を上げた橙也は、心配そうに自分を見る玲になんでもないと首を振る。
「そういや夏休み、何か予定立てた?」
話を逸らすと、まだ少し怪訝そうにしつつもいくつかはと返してくれる。
「学生最後の休みだし。少し遠出もできたらなって思ってるんだ」
「そうなんだ」
「橙也は?」
「まだ特に決めてないよ」
一緒にどこかに行かないかと誘うこともできずに、橙也は残っていた食事へと視線を落とす。
再び食べ始めた橙也。暫くじっと見ていた玲も、ぱくりと唐揚げを口に放り込んだ。
箸を置き、ごちそうさまでしたと手を合わせた橙也が、トレイを手に立ち上がる。
「行ってくるよ」
既に食べ終わっていた玲の分のトレイを引き寄せながら尋ねると、玲はふにゃりと笑った。
「ありがとう」
先に買ってあったチケットを受け取り、ふたり分のトレイを返却口へと戻してから、笑みとともに待ち構えている従業員へとソフトクリームと書かれたチケットを渡す。
「お願いします」
「はいよ。コーンでいいね」
毎度のことなので、みなまで言わずとも汲んでもらえる。プラスチックのスプーンがいらないことも、もう伝える必要はなかった。
すぐに渡されたソフトクリームふたつを手に席に戻ると、食べる前から満面の笑みの玲が待っていた。
「ほら」
「ありがと」
溶ける前にとふたりしてかぶりつく。
あとは慌てなくてもいいくらいに食べ進めてから玲を見ると、普段よりも緩んだ表情でソフトクリームを食べていた。
食べている彼女はいつでもかわいいが、その最たる瞬間はこのデザートタイム。甘いもの、とりわけアイスやソフトクリームに目がない彼女は、本当に幸せそうに食べるのだ。
橙也も甘いものが好きなこともあり、こうして一緒に食後のデザートを食べるようになった。
かわいらしい彼女の姿を間近で見つめられる喜びは何にも代え難い反面、甘くも冷たいクリームのように、いつしかその存在に甘やかさを感じながらも冷えていく心に気付いていた。
もうすぐこの喜びを手放すことになると思うと、慣れたはずの嫉妬に翻弄されそうになる。
この先自分以外の誰かがこの場所に座るのかもしれない。
それは嫌だと思うのに、もし自分が彼女への想いを口にしようものなら別れの時を待たずして手放さなければならなくなるのだ。
それくらいならギリギリまでこのままでと思うものの、やはり心から納得はできず。日を追うごとに深まる迷いに、もはやどうすればいいのかわからない。
もうすぐ前期も終わり。
このまま夏休みに入り、後期に入り、そのうち会えなくなってしまうのか―――。
「……夏休みに、ソフト食べに行きたいなって思ってるんだ」
コーンの際まで食べた玲が、自分の手元のソフトクリームを見て呟いた。
唐突な言葉に橙也が顔を上げると、玲も視線を上げて笑みを見せる。
「覚えてないだろうけど、食べに行きたいって言ってた牧場。頑張れば日帰りで行けそうかなって」
確かに以前、牧場のソフトクリームを食べてみたいと話していたことがあった。しかし場所はここからだと新幹線や特急を使わねばならず、ひとりでふらりと行くには遠い。
「……誰、と……?」
ざわりと湧き上がる嫉妬心。
旅行に近い遠出を共にして、嬉しそうにソフトクリームを食べる彼女の隣に座るような、そんな相手がいるのかと―――。
呑み込みきれない動揺と、込み上げる言いようのないごちゃ混ぜの気持ち。嫉妬も不安も苛立ちも悲しみも、その根底にあるのは玲への想い。
まだ先だからと突き詰めて考えようとしなかったこの先のこと。目の当たりにした現実に、橙也は切実な焦りを感じていた。
少し低くなった声に気付いた様子もなく、玲はかじったコーンを飲み込んでからおかしそうに笑う。
「もちろんひとりだよ。こんなの誰もつき合ってくれないだろうし」
返された言葉に息を呑み、反芻し、橙也はよかったと内心深く息をついた。
目の前ではにかむように微笑む玲。覚えた安堵に気が緩む。
「……じゃあ、俺と行く?」
ほっとしたのも束の間、自分が発した声に我に返った時にはもう遅かった。
目を瞠る玲に、一気に羞恥が押し寄せる。
「ごっ、ごめん、忘れ―――」
「いいの?」
遮られた言葉に、今度は橙也が瞠目する。
「橙也が一緒に来てくれたら嬉しい」
向けられる玲の笑みは、甘いものを食べている時の何倍も幸せそうに見えて。
冷えた心が解かされていくのを感じながら、橙也はなんとか頷いた。
その瞬間弾けるように花開く笑顔に、塗り替えられていく言いようのない気持ち。
言葉にならないのは同じでも、今はただ幸福感に満ちていた。




