第三十七景【梅】
継がれる味と思い出。
子どもを寝かしつけたあとの、束の間のくつろぎの時間。リビングに漂う甘く爽やかな香りに、秀明は顔を上げた。キッチンでシンクに向かう妻を見ると、何かを洗っている。
ソファーから立ち上がり覗きに行くと、ボウルの中にはピンポン玉くらいの若々しい緑色の青梅がいくつも入っていた。
どこか桃に似たその香り。未熟な実から香っているというのに青臭さは全くない。
「梅酒?」
「ええ。今年も漬けようと思って」
妻の横に置かれた保存瓶と氷砂糖、そしてホワイトリカー。
懐かしい光景を思い出し、秀明も頬を緩めた。
母は毎年のように梅酒を漬けていた。
この時期になると出てくる大きな広口の瓶の中には、美味しそうには思えない緑の実とガラスのような氷砂糖が透明な酒に沈んでいた。
外にあると白いのにホワイトリカーに浸かると透明になる氷砂糖も、そこから細く立ち昇る糖分も、子どもの自分には不思議で仕方なく。揺するとカラカラと氷砂糖が瓶に当たる、氷よりも硬質な音も好きだった。
母の代わりに毎日カラカラと音を立てながら揺すり混ぜては、溶けた氷砂糖が陽炎のように揺らめくのを飽きもせずに眺めていた。氷砂糖の粒が小さくなってくる頃には沈んでいた実も浮き上がり、その実の下で糖分の濃い部分と薄い部分が境目でゆらゆらと波打つ。
出来上がっても飲めぬというのに毎日見続ける自分を不憫に思ったのだろうか。翌年、母は瓶をふたつ用意してくれていた。
ちょっと手伝ってね、と母に頼まれ、何もわからぬまま台所へとやってきた秀明。作業台も兼ねられている食卓の上、母と自分それぞれの前に青梅と氷砂糖が置かれていた。
「洗ってあるから、引っかかないようにヘタを取って」
こうやってやるのよ、と手元を見せてくれる母。秀明も見様見真似で、渡された爪楊枝で小さなヘタを外していく。
自分の前の青梅は母の半分ほどしかなかったが、取り終わったのは母の方が早かった。
「じゃあ半分ずつ、交互に入れてね」
「お母さんは全部入れちゃってるのに?」
ヘタを外した梅を直接瓶へと入れている母にそう言うと、いいのよ、と返される。
怪訝に思いながら、小振りな瓶に青梅と氷砂糖を交互に入れた。
「秀明のは蓋をしたらおしまい」
「お酒入れないの?」
「入れたら秀明が飲めないでしょ」
きょとんと見返す秀明に、母は笑うだけだった。
その日から毎日青梅と氷砂糖が縞々に入った瓶を眺めた。
果汁などなさそうな硬い実と湿気を含みそうにない硬い砂糖を一緒に入れたところで、何も変わりそうにないのに。日が経つにつれ底に水分が溜まり、氷砂糖が小さくなっていく。十日もすると実が砂糖液に浸り、ひと月経つ頃には氷砂糖はすっかり溶け、水分の抜けた実はしわしわになっていた。
子どもである自分が飲めるようにと作られた梅シロップ。市販のジュースほどはっきりした味ではなく、甘みの中に柔らかな香りと酸味を感じる。
美味しくなくはないが、大好物というわけでもなく。ただその不思議さに惹かれるように、毎年作っては飲んだ。
いつからか作らなくなってしまったそれは、自分にとっては子どもの頃の夏の味。
懐かしい、思い出の味だった。
「パパ、おかえりなさい〜」
翌日。仕事から帰ると、息子がいつも通りに迎えてくれた。
「ただいま。今日はお土産があるぞ」
「えっ? なに? ケーキ??」
「ケーキじゃないなぁ」
違うのかぁとがっかりする息子に笑いながら、秀明は買ってきた小さな広口瓶を妻に渡した。
着替えている間に妻が洗ってくれていた瓶を、少しだけ残しておいたホワイトリカーですすぐ。リビングのテーブルに洗った瓶と取り分けていた十個の青梅と氷砂糖を並べると、息子はあっと声を上げた。
「うめだよね。ぼく知ってるよ!」
「正解。すごいな」
「ママと買いにいったもん!」
得意そうに話す息子に手伝ってくれるかと尋ねると、元気一杯に手伝いたいと返ってくる。
手を洗っておいでと促して、跳ねるように駆け出す小さな背中を見送った。
洗ってきた、と意気揚々と戻ってきた息子を微笑ましく思いながら、それじゃあと手順の説明をする。
「なにができるの?」
「それはできてのお楽しみだな」
かつての自分と同じように、何が起こるかわからないまま青梅五個と半量の氷砂糖を二度に分けて瓶に入れた息子。味見と称してもらった氷砂糖をコロコロと口の中で転がしながら、半透明の白と緑の側面を暫く見つめていた。
「これ、どうするの?」
「このまま置いておくよ」
「このまま?」
不思議そうに瓶を見つめる息子は、きっとあの日の自分と同じ疑問を抱いているに違いない。
「毎日見てたら、何か変わってくるかもしれないぞ?」
「そうなの? わかった!」
見つけたら教えるね、と嬉しそうに笑う息子。
氷砂糖が溶けだしたらどんな反応をするのか―――。容易に想像できるその様子が今から楽しみで仕方なかった。
息子が寝ついたそのあと。去年漬けた分だと言って、妻が梅酒を出してくれた。
氷の入ったグラスには、ウィスキーよりも薄い琥珀色の酒とまだ青みの残る丸い実が入っている。
「梅、残してもらって悪かったな」
「あの子も喜んでたからいいじゃない」
突然梅シロップを作りたいと言い出したことを謝ると、自分の分を持って隣に座った妻はそう笑った。
「梅酒は無理だけど、あれならあの子も飲めるわね」
あのあと昨日仕込んだ梅酒も見せると、じっと覗き込んだあとに「どうしてふにゃふにゃしてるの?」と聞いてきた息子。やはり気になるところは一緒なのかと嬉しく思った。
カラカラと瓶を鳴らしながら楽しそうに揺する息子とそれを微笑んで見つめる妻の姿に、自分と母もこんな風だったのかなと考える。
「そうだな」
カチリと妻とグラスを合わせ、ひと口飲む。
甘みより先に感じるのは、若い梅酒らしい酸味とまだ少し刺の残るアルコール感。口の中に残る味は甘酸っぱく、鼻を抜ける香りも青梅から香る桃のような柔らかな甘さではなく、いかにも梅らしい爽やかな酸を感じるものだった。
「まだもう少し置いた方がいいかしらね」
グラスを揺らして氷を溶かしながら呟く妻に、そうだなと相槌を打つ。
もちろん今でも美味しくは飲めるが、好みとしてはもう少し寝かせてからの方がいい。
そしてそれは実に対しても同じことが言えた。
「こっちもだいぶ辛いわね」
ひと口かじった梅の実を見つめながら、仕方なさそうに妻が呟く。
アルコール分をぎゅっと凝縮して詰め込んだような濃さに、まだ甘みも酸味も太刀打ちできないようで。かじると溢れるのは果汁ではなく、舌先がしびれるような強いアルコールの辛味だった。
「やっぱり一度煮ないとだめかしらね」
そう言いつつもそのひとつを食べ切って、少し顔を赤くした妻がふふと笑う。
「お義母さんのゼリー、美味しかったわよね」
母が作っていた、煮直してアルコールを抜いた梅を入れたゼリー。妻が梅酒を漬けるようになったのは、亡き母のその味を懐かしんでのことだった。
「……今はお前が作ってくれたのが一番だよ」
お世辞ではなくそう告げる。
妻が漬けてくれる梅酒は、昔の懐かしさを含んだまま妻の優しさに満たされるようで。こそばゆくも温かい。
「まぁ。そんなこと言って」
酔っ払ってるの、と、なんだか嬉しそうに妻が笑った。
年月を経て角が取れてまろやかになっていく梅酒。
穏やかに笑う母を思い出しながら。
自分も年月を経ることで、人に対して穏やかに丸くなれたのだろうかと思う。
グラスを揺すり、カラカラと、なぜか氷砂糖より柔らかく聞こえる氷の音を立ててから。
今ならではの初々しい爽やかさとこの先の可能性を感じさせる味を、口に含んだ。
【梅】といいつつ梅酒な回(笑)。
毎年漬けようかなぁと思うのですが、のんびりしている間に青梅の時期が過ぎてしまいます。今年ももう黄梅になりましたね。
あとはなかなか減らない! 申年の梅はいい、ということで漬けた梅酒も梅の実も、まだ残ってる……。
果実酒は十年くらい過ぎると、梅だろうがヤマモモだろうがチェリーだろうが同じ味になりますよね(笑)。まだ若い、梅酒らしい梅酒もいいのですが。年月を経た果実酒の味も、あれはあれで好きなのです。
梅味のお菓子も好きです。スナック系もいいのですが、特に飴とかラムネとか、甘いお菓子は甘ったるくない桃のような感じで好み。梅ミンツも好き。梅ガム味のラムネも美味しかったです。
昔、酔い止めにいいと聞いたものの、本当かどうかは知りません。でも梅味の飴とか食べているとマシだった気がします(もう本っ当に乗り物に弱かったのですよ……)。
梅干しも好きですが、近頃多いうすら甘いのはあんまり……。しょっぱくて酸っぱいのがいいです。お茶漬けの素に入っているような、乾燥したやつも好き。
そんな小池のマイベスト商品は「あかり」改め「うめこ」です。カリカリ梅を干したもの。
「あかり」が廃番になったときは絶望しましたとも……。そして「うめこ」としての復活を知った時はもう……!!
今は百均で手に入るので嬉しいです。退色するとわかりつつ、一度に五袋とか買ってます(笑)。




