第三十六景【ココア】
いつも通りという幸せ。
「「いってきまーす!!」」
「忘れ物はない? お弁当入れた?」
「入れたー。大丈夫」
「私もー」
「そう、いってらっしゃい。気をつけてね」
いつものようにバタバタと玄関から駆け出していく子どもたちを見送り、智世はふぅと息をつく。
やることはまだまだある。これでひと息、というわけにはいかなかった。
今日のうちにしておかなければならないことを確認してから、食器を片付け、洗い終わった洗濯物を干しにベランダに出る。
五月ももう終わりだが、梅雨が近いといってもまだ毎日雨が降るわけでもない。干す手を止めてすっきりと晴れた空を見上げると、初夏を思わせる濃い水色の空には雲ひとつなく。元気のいい声に目線を下ろすと、登校中の小学生たちが楽しそうに話しながら駆けている。
そこにあるのは穏やかで明るい日常。長く見失っていたそれに、智世は自然と笑みを浮かべた。
家族が次々と感染症にかかったのは今月初めのことだった。幸い程度は軽く済んだのだが、表立った症状が治ってからもどこかすっきりせず。ずるずるといつまでも僅かに尾を引く不調に手を焼いた。
子どもたちも登校こそすれど、なんだか以前より疲れた様子で帰ってくる。
夕方にくったりと寝入ってしまっている姿に、まだ調子が戻っていないのだろうかと心配をした。
そういう自分もすっかり体力が落ちてしまい、少し動いては疲れたと座るようになっていて。臥せていた間に滞っていた細かな日々のことをあれこれせねばと思うのだが、遅々として進まない。
そんな己への歯がゆさに、尚更気持ちが沈む。
いつもなら気分を変えるのにコーヒーの一杯でも飲むところであるが、鼻詰まりが治ってからもどうにも味覚が鈍くなってしまっていた。
塩味は変わらず感じるので食事にはそれほど困らないが、甘みと、特に苦みに対してが鈍く。らしさを失った飲み物は飲んでも何かがはっきりせず、好きでよく飲んでいたコーヒーや紅茶が全く美味しく思えない。
口に含むと水ではないとろみや質量を感じはするが、最初はただそれだけで。飲み進めるうちにうっすらと苦みもわかるようになるが、到底覚えあるそれでも好むそれでもなかった。
気分転換に何か、とは思うのだが、冷たいジュースではひと息はつけず。ハーブティーならどうかと思ったが、紅茶と同じ結果に終わりそうで、わざわざ買う気になれなかった。
中身を伴わず戻った外側だけの日常に、なんとなく気持ちが削られていく日々。
どうにも落ち着かない、追い立てられるような焦りを感じながら、今までのようにと思えば思うほど忙しなさが浮き彫りになる。
大きな気晴らしではなく、合間に少しお茶を飲む、そんなひと息つける時間。
それが自分にとってどれだけ助けになっていたのか、今更気がついた。
そんなある日。智世はふと冷蔵庫の中のあるものに目を留めた。
ドアポケットに入ったままの茶色い箱。製菓用に常備してあるココアパウダー、いわゆる純ココアと呼ばれるものだ。
子どもたちが小さい頃はお湯で溶かすだけのミルクココアを買っていた。ここ最近は買うこともなくなったなと思いながら箱を手に取ると、裏側にはココアの入れ方が載っている。
少し考えてから、箱を取り出した。
こうして純ココアから入れたことはなかったなと思いながら、作り方を読んでいく。鍋で入れると洗い物が多くなるので、少々雑にはなるがどうせ味覚も心許ないのだからと割り切って、マグカップで作ることにした。
少しだけ水を入れて電子レンジにかける。量が少ないのであっという間に沸いたそれに、ココアパウダーと砂糖を入れて混ぜていく。
混ぜるではなく練ると書かれているのは、単に粉っぽさがなくなるまでではなく、そこから更に混ぜろということなのだろう。
混ぜるうちにダマがなくなり、なんとなく艶が増したように見えた。本当は温めたものを使うのだが、冷たいままの牛乳を少しずつ加えて伸ばしながら、マグカップ八分目まで作る。
溶け残りがないようによく混ぜておいてから、最後に電子レンジで温めた。
取り出したマグカップから、ふわりと湯気と甘い香りが立ち昇る。
ココア、というよりチョコレート独特の濃厚で甘い香りが鼻を抜けた。今まで気にしたことなどなかったが、味ではなく香りだけなのに「甘い」と感じるのを不思議に思いながら、マグカップに口をつける。
舌に纏わりつくような、見た目以上に濃い感触。相変わらず口に入れた瞬間の甘みも苦みもはっきりはしないが、それでも鼻から感じる甘さとチョコレートの香りに補填されているのだろう、ちゃんとココアを飲んでいるのだと思えた。
その温かさと甘さにほっと息をつく。
久し振りに味わう、今までと変わらないと感じる味。美味しいと思える飲み物に、ようやく肩の力を抜くことができたような、そんな緩みを覚えた。
暫く振りのひと息は、今まで以上に身に沁みて。
嗜好品と呼ばれるものが世に多くある理由をなんとなく納得できたような。
そんな思いとともに、智世は温かなココアを飲んだ。
その日も疲れた様子で帰ってきた子どもたちに、ココアを飲むかと聞いてみた。
製菓用のココアパウダーを手に鍋で入れてみると言うと、どうにも不思議そうな顔をしている。
ココアという響きの懐かしさもあるのだろうか、子どもたちに興味津々に覗き込まれながらの作業は、なんだか小さい頃を思い出してくすぐったかった。
作り方はマグカップとそう変わらない。少量の湯を沸かして火にかけながらココアと砂糖を練り、沸騰させないように注意して牛乳を入れて温めていく。
加糖のミルクココアしか飲んだことのない子どもたちは、出来上がった普通の見た目のココアに驚いていた。
熱いからねと言って渡すと、初めは恐る恐る、そしてそのうち嬉しそうに少しずつ飲み始める。
「ちゃんとココアの味!」
「でもちょっと苦い?」
ふたりで楽しそうに話す姿は、最近の疲れた様子とは全く違って。次第に緩んでいくその様子に内心安堵の息をついた。
普段あまり温かい飲み物を飲まない子どもたち。これで疲労がなくなるわけではないが、気持ちだけでも和らいでもらえたら、と。楽しそうに話すふたりにそう願う。
ゆっくりと時間をかけて飲み終えた子どもたちは、久し振りに見るくつろいだ表情で美味しかったと言ってくれた。
そのあとすぐに、お湯を注げばいいだけの加糖のココアを買った。
今はもう味覚も戻り、コーヒーも紅茶もまた美味しく飲めるようになってからも。頻度は減ったが、それでも時折ココアも飲んでいる。
ちょっと疲れた時。
ちょっと落ち着きたい時。
コーヒーや紅茶と甘いものでもいいけれど、飲み物ひとつで手早く切り替えられるのがいい。
子どもたちからも頻繁に「ココアちょうだい」と言われるようになった。
余計なものを覚えさせてしまったかと思う一方で、嬉しそうに飲むその姿に感じる幸せ。
しんどそうに座り込む、そんな様子を見るのは自分のことよりつらい。
多少怒ったり困ったりすることがあっても、元気でいてくれたらいいと改めて思えた。
小学生たちを見送り、止まっていた手を動かし始める。
「次は…」
朝は色々とすることが多い。洗濯物を干し終えてもまだ休憩には程遠いが、それも日常。
用事の合間の僅かな時間、温かいものを飲んでほっと息をつく。
日々の忙しなさをそうして切り替えて。今日も明日もまた変わらぬ日を迎えられるように、その時にできることを頑張ろうと思う。
穏やかに晴れた空をもう一度見上げてから、智世は室内へと入った。
今回は【ココア】です。
純ココアは製菓用に常備している小池ですが、飲み物としてのミルクココアは普段は買いません。
ただ、気になるフレーバーがあると手が出てしまいます。
そして結局常備となる……。
最近のラインナップは、アーモンドココア、キャラメルココア、リピートのミントココアです。
ところで。小池は加糖ココアの一番美味しい味わい方は、粉をそのまま食べることだと思うのですが……。同意見の人、いませんよね……。
今回せっかくだからと純ココアから作ってみました。カップでココアを練って。牛乳を入れて混ぜていたのですが、やけにとろみがあるのですよ。
よく見ると、飲むヨーグルトでした……。
ちゃんと飲みましたけど。美味しくなかったです……。
下の子に話したら爆笑されました。
残念なかぁちゃんですまん。




