第三十四景【海】裏
互いを映し染めるもの。
砂浜に降りていく天哉のうしろ姿を見ながら、鳴海は覚悟を決めるように唇を引き結ぶ。
一年と三ヶ月振りの臨海公園は春を迎え明るく晴れていた。暖かみのある水色の空と穏やかに寄せる波は、あの冬の日の凛とした冷たさもなく、優しく包み込むように淡く広がる。
その穏やかさとは裏腹に、鳴海の心はざわめいていた。
今日、ここで。自分は天哉に嫌われてしまうかもしれない。
覚悟を決めるようにそっと息を吐き、鳴海は数歩先ゆくその背を追った。
「やっぱり海はいつ来てもきれいだよね」
波打ち際で立ち止まった天哉のうしろから声をかけると、海を見たままの天哉が頷いた。その隣に並び、視線を海へと移す。水平線は僅かに白む空と区切られ、互いに青さを増しながら広がっていた。
「前に来たのが二年の冬だったっけ」
忘れてなどいないがわざと濁して様子を窺う。すぐにあの時は寒かったと返され、やはり天哉も覚えているのだと確信した。
そうだねと頷いてから、風に広がる髪を押さえる。
「三年間、あっという間だったね」
心からの呟きが洩れる。
いつまでもこの時間が続けばいいと。ふたりになるたびそう思っていた。
「あちこち行ったよね」
「色々見たよな」
天哉の明るい声が胸を刺す。
その楽しかった時間を壊したのは、ほかでもない自分なのだ。
高校一年で同じクラスになった成海天哉。同じ『なるみ』だと話しかけられたのが始まりだった。
文を書く天哉と絵を描く自分、表現法は違えど創作を趣味とする者同士で話が合った。
明るく気さくな天哉。しかし創作に向き合う時はとても真摯でまっすぐで。その姿を知り、憧れ、恋に落ちた。
それぞれの創作の題材にと一緒に出掛けるようになり、学校では見ない、どこか緩んだその姿にますます想いは募っていく。
しかし同時に、絵を描くことにものめり込む自分がいた。
天哉を見てドキドキしても、すぐに描きたい気持ちが上回る。描いている間は絵のことしか考えられず、描き終えて我に返ってからようやく優しい目をして自分を待っていてくれる天哉に気付く始末。
天哉と出掛けるようになって思い知ったのは、そんな薄情な自分であった。
それでも呆れもせずに誘い続けてくれた天哉。
創り出すものだけでなく天哉自身のことが好きになってしまった自分とは違い、天哉が誘ってくれているのは創作者としての自分だと思っていた。
しかしあの冬の日、この場所で。
突然抱きしめられ、好きだと言われた。
それまでで一番嬉しくて。
それまでで一番苦しかった。
三月の海岸にはあの日の凍てつくような空気はなく、海からは柔らかさを増した風が吹いてくる。空に流れる薄い雲に代わり、海には白い波頭が立っていた。
「木津の見てる景色はなんかきれいだよな」
独り言のような天哉の声にそんなことはないと返し、鳴海は隣を見上げた。変わらず海を見る天哉の横顔に胸の痛みが増す。
自分は見たまま描こうとしているだけ。天哉のように目の前にある景色から目の前にないものを紡ぎ出すことはできない。
「私からすると、天哉の方がすごいと思うんだけどね」
常々思っていたことを口にすると、本当に驚いた顔をして天哉がこちらを見た。きょとんとした顔はどこか幼く。そんな表情を見られることへの優越感と、これで見納めかもしれないという寂しさを覚える。
「あの時の夕暮れなんて。すっかり闇の使者になってたよね」
「あれはホントにそう見えたんだって」
そう言い逸らされた眼差しに、つきりと痛みが増した。
自分勝手な理由であの日の天哉の告白を一年以上も保留にしている自分。
本当はもうとっくに呆れられているのかもしれない。
あの冬の日にはもう、大学で絵を学ぶためにここを離れることを決めていた。
絵に向かうとそれしか目に入らなくなる自分には、残る時間を天哉と過ごすことも、離れてからまめに連絡を取ることもきっとできない。
しかしそれでも、今ある天哉との時間を手放せなかった。
返事をするまでは今まで通り会ってもらえる。そんな狡くて臆病な考えから、またこの海へ来た時に返事をすると言った。
一方的な約束はそれでも天哉と自分を繋いでいてくれたが、それも今日まで。
天哉を引き止め続けたことを謝って、もう彼を解放しなくてはならない。
それが自分にできる最後のことだとわかっていた。
「ありがとう、天哉。お陰で三年間楽しかったよ」
「俺も楽しかった」
唐突な礼にも微笑んで返してくれる天哉。今まで一度も返事を急かすようなことはなく、変わらず接してくれていた。
受ける大学を告げた時も何も聞かずに応援をしてくれ、今も引っ越し先を探すのに苦労したと言うと、大変だなと返ってくる。
あっさりとした反応に、もう天哉の気持ちは自分に向いていないのかもしれないと気付いた。
それでいいのだと思いながらも。
悲しみと後悔が押し寄せた。
「ねぇ。一枚描かせてよ」
黙ったまま海を見る天哉へとそう願う。
最後に。そう思っていても、口にできなかった。
「いいよ。ポーズ取る?」
変わらぬ軽口で返してくれる天哉に、バカ、といつものように応えて。また海を見るその横顔を描き始める。
いつもは描き始めると絵のことしか考えられなくなるのに、今は天哉のことでいっぱいで。気を抜くとすぐに涙が滲む。
(……私、こんなに天哉のことが好きだったんだ…)
心中呟いた途端、溢れる想い。
どうせ嫌われるなら、と。
覚悟を決めた。
描き上がったと声をかけ、隣へと並ぶ。
スケッチブックを眺める天哉。描き取ったその横顔に唇を寄せる。
今までの感謝と謝罪。そして何より、今胸を占める想いを込めて。
身動ぎとともに天哉が目を瞠り、ゆっくりとこちらを見た。
「……き…木津……?」
どこか呆然とする天哉から距離を取る。
薄情で臆病で狡い自分を暴露して、返事を先延ばしにした理由を告げて。
俺のことが好きなのかと聞かれても頷けないまま。それでも零れる、好きだという気持ち。
反応が怖くて後ずさりながらも、描いた気持ちをスケッチブックごと抱きしめて。
自分は天哉のように言葉を紡ぐことは上手ではない。
取り繕えない素直な言葉は、拙くも赤裸々に己の想いを描いていた。
「私はここからいなくなるのに、天哉に忘れられたくなくて」
「木津っ!」
腕を掴まれ傍へと引かれる。
驚き上げた視界にあまりに真剣な天哉の顔が映り込み、逃げるようにまた視線を落とした。
ぎゅっと、腕を掴む手に力が込められた。
「それでもいいって俺が言ったら、このままの関係でいてくれる?」
何を言われるのかと怯える鳴海にかけられる、まっすぐな言葉。こちらの不安を拭おうとするそれは、彼が書くものとはかけ離れた等身大の気持ちで。
「木津を好きなままでいてもいい?」
請うのは自分のはずなのに、そんな願いを託される。
こんな自分をまだ好きだと言ってくれるのか、と。
動揺と喜びにすぐには動けなかった。
「木津……?」
心配そうな天哉の声が降ってくる。
「……いや」
反射的にそう返し、鳴海は天哉を見上げた。
不安げな天哉の表情に、本当はずっとこんな顔をさせてきたのかと申し訳なく思う。
自分の前ではいつも通りでいてくれた天哉からの、二度目の告白。
「このままじゃなくて。彼女がいい」
今度こそ、すぐに応えたかった。
「私も、好きでいていい?」
告げた瞬間、無言のまま力いっぱい抱きしめられる。
苦しいぐらいの抱擁はおそらく今まで不安にさせた分。甘んじて受け入れ、鳴海はその胸に身体を預けた。
「天哉、苦しいって」
「ごめん、でももうちょっと」
いつまで経っても動かぬ天哉にそう訴えると、ようやく少し緩めてくれる。
やっと見られたその顔は、溢れんばかりの喜びに染まっていた。こんなに嬉しそうな顔は初めてだと思って見上げていると、不意に顔が近付いてくる。
「……木津」
恥ずかしさに思わず間にスケッチブックを挟んでしまい、不服そうに天哉に呟かれた。
「あとは天哉が向こうに来てくれた時にね」
スケッチブックを少し下げ、まだ至近距離の天哉にドキドキしながらごまかすように告げる。
「……それって次の約束?」
「そうだよ。言ったでしょ、私は狡いんだって」
本当はそこまで考えていたわけではないのだが、天哉の言葉に乗ることにした。
普段は見ない、少し拗ねた顔。
見慣れぬ表情が嬉しくて仕方なかった。
「せっかく来たんだし。ちょっと歩こうよ」
緩んだままの天哉の腕の中からするりと抜け出した鳴海はそのまま海岸を歩き始める。
「鳴海」
呼ばれた名に驚いて振り返った瞬間、ぐいっと引き寄せられた。目の前にあるのは天哉の顔。その直後、軽く唇に触れたのは―――。
「狡いのは俺も一緒、かな」
真っ赤になって声も出ない鳴海を映すように、天哉もまた赤く染まり、そう告げた。
今回は【海】です。
写真でも映像でも実際にでも、見るといいなぁ、と思います。
でもあまり馴染みはないのです。
初めて海に入ったのは、多分成人してから。
実際に海に行ったこともさほどないですし、砂浜は輪をかけて縁が無い(笑)。
どちらかというと、眺めるものとして好きなのかもしれませんね。
そういう意味では空と同じ括りなのかもです。
少し離れたところから変わる色と様子を見ているだけで十分、なのでしょうね。




