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第三十四景【海】表

 浮かび寄せる想い。

 穏やかに晴れる臨海公園。砂浜へと続く階段を降り、天哉(てんや)は海岸を波打ち際へと歩く。

 三月の終わりも近付き、随分と風も陽射しも暖かくなってきた。空もいつの間にか冬の寒々しさはなく、薄い雲を纏いながら濃い青の海の上に広がっている。

「やっぱり海はいつ来てもきれいだよね」

 うしろから近付く声に、海を見たまま天哉は頷いた。そのまま隣に並んだ鳴海(なるみ)は同じように遠くを見やる。

「前に来たのが二年の冬だったっけ」

「あん時は寒かったよな」

 そうだったね、と笑う鳴海。

「三年間、あっという間だったね」

 懐かしむようなその声に、天哉は少しだけ顔を向けて隣を見た。

 海風に吹かれる髪を押さえながら海を見つめる鳴海の横顔。以前より少し髪も伸び、なんだか大人びたように見えるのは気のせいなのだろうか。

 


 鳴海との出逢いは一年生の時。同じクラスになったことがそもそものきっかけだった。

 彼女の名は木津(きづ)鳴海。

 自分の名は成海(なるみ)天哉。

 同じ『なるみ』同士だということから話すようになった。

 絵を描く鳴海と文を書く自分。話も合い、気も合って。そのうち絵と文の題材に、と一緒に出掛けるようになった。

「あちこち行ったよね」

 やはり今までを思い出していたらしく、口元に笑みを浮かべて鳴海が呟く。

「色々見たよな」

 鳴海から視線を逸らし、天哉も水平線を見つめた。

「木津の見てる景色はなんかきれいだよな」

「そんなことないと思うけど」

 変なこと言うんだね、と返されるが、実際にそう思うのだから仕方ない。

 冬の海もあの日の夕焼けもお祭りの喧騒ものんびりした動物たちも道端の草花も、鳴海にかかると鮮やかに白い紙の中に切り取られる。

 見たままを描く鳴海と。

 見たままを書かない自分と。

 同じ景色でもこれだけ違うのかと驚くことも多かった。

「私からすると、天哉の方がすごいと思うんだけどね」

 思わぬ言葉にまた隣を向くと、いつの間にか鳴海もこちらを見つめていた。

「あの時の夕暮れなんて。すっかり闇の使者になってたよね」

「あれはホントにそう見えたんだって」

 一度は合わせた視線をすぐに逸らし、天哉は自嘲気味に呟く。

 あの日、徐々に暮れていく砂浜で佇む鳴海はとても儚く、本当に闇に呑まれて消えてしまいそうに見えた。徐々に見えなくなる鳴海を不安に思う気持ちと、どこか神秘的なその光景を壊してはいけないと思う気持ちとの狭間で立ち尽くしていた自分。

 どうしたのかと問う鳴海の声に我に返った瞬間に、堰を切ったのは不安の方だった。

 目の前に鳴海がいる安堵に、ようやく理解した己の想い。溢れてしまった感情は、拒絶こそされなかったが受け入れてももらえず。

 鳴海から、またふたりでここへ来た時に返事をすると言われた。

 あれから一年と少し。とうとう鳴海からここへ来ようと誘われた。

 何度も出るあの時の話に、鳴海も約束通り返事をしてくれるつもりなのだろうとは思う。

 尤も。聞かずとも、もう返事はわかっていた。



「ありがとう、天哉。お陰で三年間楽しかったよ」

 過去形の鳴海の言葉に、天哉はやっぱりなと薄く笑う。

「俺も楽しかった」

 先を望めど言えぬまま。同じく過去形で返した。

「住むとこ決まった?」

「探すの苦労したよ。四月に入ったらすぐ引っ越し」

「そっか。大変だな」

 自分は地元で進学。そして鳴海はここを離れ、芸術系の大学へ行くことが決まっている。

 高校生より自由でも、大人のようには動けない大学生。離れた距離を無にできるほどのお金も時間も、そして、自信もない。

 告げられる返事はわかっている。だから自分からは聞かないと決めていた。

 先送りにできるのはほんの僅かな時間だとしても。できるだけ長く、このままでいたかった。

 お互いまた黙り込み、暫く海を見ていると。

「ねぇ。一枚描かせてよ」

 鞄からスケッチブックを出しながら鳴海が聞いてくる。

 最後に、と言われなかったことが、少し嬉しかった。

「いいよ。ポーズ取る?」

「バカ」

 そう笑い合ってから、天哉はまた海を見た。



 昼の空を映す青い海に、あの日の引き込まれそうな暗さはなく。繰り返すようで同じ調子ではない波の音が、諦めにささくれた気持ちを落ち着かせていく。

 空の姿を追うように色を変える海。

 自分もこの海のように。望む道を進みだす鳴海を晴れやかに見送ることができたなら、と願う。

 自分の望みは奥底に沈め、希望に輝く鳴海の姿だけを映し取って。

 笑顔で、叶うことのない再会の約束ができるように。

 それが旅立つ鳴海に自分ができる最後の(はなむけ)

 好きな子の前では少しでも格好つけていたいので、追い縋るような無様な姿を見せたくなかった。

 多分、否、絶対に。後悔するとわかっていても―――。

 視界の端で鳴海が動いたことに気付いた天哉は、ゆっくりと首を巡らせる。

「描けたよ」

 すぐ隣に来た鳴海が広げたスケッチブックを見せてくれた。鏡でも見ることのない自分の横顔はなんだか照れくさい。

 さほど時間もかけずに描き切るところはさすがだなと思いながら顔を上げようとしたその時。

 頬に触れた柔らかく温かな感触に、天哉の動きが止まる。離れ際、くすぐるように鳴海の髪が頬を撫でていった。



 瞠目したままの天哉が、ぎこちない動きで鳴海を見やる。

「……き…木津……?」

 天哉を見たまま一歩後ずさった鳴海は、なぜか今にも泣き出しそうな瞳をしていた。

「……天哉が思ってるよりもっとずっと、私は薄情で、臆病で、(ずる)いんだよ」

 いつも元気な鳴海らしくない、波の音に消されそうなくらい小さな声。

 驚く理由が塗り替えられていく中、天哉は呆然と鳴海を見つめていた。

「絵を描いてる間は天哉のことも忘れてるのに、急に寂しくなって声が聞きたくなるんだよ」

「……それって俺のこと好きってこと?」

 上ずる声に応えはなく。鳴海はもう一歩後退し、視線を落とした。

「私は私のやりたいことがあるから、天哉に合わせられない。でも会いたい時に連絡ができる関係でいたいから、ずっと返事をしないままだった」

 あの冬の日の告白に返事をしなかった理由を口にして、鳴海は手に持つスケッチブックを抱きしめる。

「今だってそう。私はここからいなくなるのに、天哉に忘れられたくなくて」

「木津っ!」

 鳴海が下がった分を踏み込んで詰め、天哉は腕を掴んで引き寄せた。



 あの日溢れた鳴海への想い。ここを去る鳴海に再び渡すことはできずに沈めたはずのそれが、再び浮かび打ち寄せてくる。

 自分が離れていく鳴海にできることを考えたように、鳴海も残される自分のことを気遣ってくれていた。

 自分のことを狡いのだと言いながらそれでも零れたこの言葉は、自分にとってはあの時の返事で―――。

「それでもいいって俺が言ったら、このままの関係でいてくれる?」

 うつむいたままの鳴海の肩が少し揺れる。

「すぐに会いにはいけないけど。いつでも電話してくれていいから」

 ―――それならば、自分もまた。

 「だから俺も。木津を好きなままでいてもいい?」

 諦めなくてもいいのかもしれないと。そう思った。

 期待と不安に高鳴る鼓動を感じながら、動かぬ鳴海を見下ろす天哉。暫く待てども反応はなく、だんだんと不安が勝ってくる。

「木津……?」

「……いや」

 顔を覗き込もうとした瞬間、ぽつりと鳴海が呟いた。

 聞こえた言葉に息を呑んだ天哉が掴んでいた腕を放すよりも早く、鳴海の顔が上がる。少し潤む瞳を細めるその仕草から伝わるのは、拒絶ではなく。

「このままじゃなくて。彼女がいい」

 赤らむ頬からも同様に、返されるあの日の返事。

「私も、好きでいていい?」

 歓喜の言葉はすぐには声にならず。

 天哉はたまらず目の前の鳴海を抱きしめた。



 じわじわと満ちる喜びに、天哉の腕に力が籠もる。

 鳴海の進路を聞いてからは、自分への返事は否だと覚悟していた。しかし現状維持どころか夢見ることさえ諦めていた展開に、ただただ幸せを抱きしめる。

 たとえ鳴海がここを離れても、鳴海の気持ちを返された今なら信じていられると思った。

 我ながら単純だと内心苦笑しながらも、胸を占めるのは喜びしかない。

「天哉、苦しいって」

 腕の中の鳴海の声に慌てて緩める。

「ごめん、でももうちょっと」

 一年以上待ってようやく知った鳴海の気持ち。まだ名残惜しくて離れられなかった。

 見上げる鳴海をじっと見つめると、先程よりも赤く染まる頬。見返すその瞳に引き寄せられるように顔を近付けると、間にスケッチブックを挟まれた。

「……木津」

 言葉がそれしか出てこない。

 そろりとスケッチブックを口元まで下げた鳴海は、赤い顔をしたまま笑みを見せる。

「あとは天哉が向こうに来てくれた時にね」

「……それって次の約束?」

「そうだよ」

 釈然としない気持ちで鳴海を見返す天哉。

「言ったでしょ、私は狡いんだって」

 くすりと笑って、鳴海が告げた。

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