第三十三景【チェリーコンポート】裏
噛みしめる尊敬と嫉妬。
「おはよう、熱田さん。バレンタインのお返し、バックヤードにあるからひとつ持っていってね」
三月十四日、出勤した麦が既に作業に入っている連に挨拶をすると、すぐさまそう返ってきた。
「ありがとうございます」
父親からも今朝お返しをもらったのでもちろんホワイトデーだと知ってはいた。バックヤードに行くと、リボンのついた小さな袋が置かれている。
こちらは従業員一同で買っているのに、毎年個別にお返しをくれる連。律儀だなぁと思いながら、ひとつ受け取り着替えに行った。
出勤したらまず店内の状況を確認することにしている。今の商品とホイロの状況に加えて、滅多にないが、作業が遅れていればフォローに回るためでもあった。窯は開けると温度が下がるので、使用状況と残り時間を見るだけに留めている。
ちょうど焼き上がりのブザーが鳴ったので、麦はブザーを止めて耐熱グローブを嵌めた。
「出しますね」
窯を開けると香ばしいバターの香りが広がった。一枚だけ入っている天板を前に引き出すと、見たこともないパンが並んでいる。
四角い外側はこんがりとこげ茶色に焼き上がり、真ん中には深い紫色の丸いものが三粒載っていた。側面の特徴的な立ち上がりにそれが何かを把握したものの、なぜ窯に入ってるのかがわからずに凝視する麦。
「焼けてそうなら出して」
麺台からの指示に我に返り、慌てて叩き台へと出した。
「いい色に焼けてるね」
手を止めて見に来たのだろう、すぐうしろからの連の声がする。
「店長、これ……」
丸川ベーカリーにはないはずの、チェリーデニッシュ。
驚き見つめる麦に、連はちょっと作ってみたのだとなんでもないことのように話す。
「参考にするから、食べたら意見ちょうだいね」
「えっ?」
「お礼のお返しを兼ねて。ついでみたいで悪いけどさ」
思わず振り返ってから、麦はその言葉の意味に気付いた。
バレンタインデーにパンフェアの時のお礼として渡したチョコレート。本当にただお礼がしたかっただけなのだが、何を贈ればいいのかわからずに。結局は押しつけのように自分の好きなものを選んで渡した。
「絶対俺より熱田さんの方が場数踏んでるし」
「なんの場数ですか……」
内心ものすごくうろたえているところにからかうようにつけ足され、麦は渋面でぼやく。その反応に笑いながらそう言わずにと言う連は、いつも通りのようでもどこか違和感があって。
「だって、いろんなところの食べてるよね? 厳しく採点してくれていいから」
少し上ずる声に気付き、緊張しているのかと理解する。
試作だというのなら、断る理由はないのだが。
「……わかりました。ありがとうございます」
礼を言うと連が少しほっとしたような顔になったので、なぜチェリーデニッシュなのかとは聞けなかった。
昼休憩のため二階に上がってきた麦は、休憩室でチェリーデニッシュを見つめていた。
真ん中が窪んで四角く枠があり両側に少し飛び出した部分があるこの形は、ほかの店でも見かけるものだが。どういう成形をすればこの形になるのかは、麦にはわからなかった。
側面はきれいに層となって立ち上がり、中央のチェリーの下にはクリーム色のフィリングが見える。
暫く眺めてから、そっと手に取った。
「いただきます」
ひと口目はデニッシュだけ。表面はサクリと軽く、中はパイより甘く柔らかい。続いてのふた口目。缶詰のブラックチェリーほど柔らかくはなく果肉感がしっかりとしているチェリーは、噛むと穏やかな酸味が広がる。次いで独特な甘さとどことなくミルキーな濃厚さを感じた。
(……これ…)
口中に残る覚えある風味に、麦は今度はフィリングの部分を食べてみる。チェリーのものではない酸味を含むそれは、カスタードではなくチーズケーキを思わせる味だった。
ゆっくりと味わいながらチェリーデニッシュを食べきった麦は、ほぅ、と息をつく。
デニッシュ生地も、チーズフィリングも、甘いチェリーも。丸川ベーカリーでは扱っていないものばかり。
ほかの店の物真似ではないこれは、間違いなく丸川ベーカリーのチェリーデニッシュ。それが食べられたことはとても嬉しく、文句のつけようのないくらい美味しかったと思うのだが。
嬉しい気持ちを覆い隠すように、滲む黒い気持ち。
丸川ベーカリーのチェリーデニッシュを食べられたことは、とても嬉しく。
そして同時に、悔しくもあった。
いつか丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリーを。
自分にはまだ先の、『いつか』の目標。
それを、こんなに簡単に―――。
麦が休憩から戻ると、今度は連が昼休憩に向かった。
嫉妬心を口に出さずにあくまで試作への感想を伝えねばならないと思い、ひとりの間に考えようとするが纏まらず。どうしようかと溜息が洩れる。
生地も、トッピングとのバランスも、文句などつけようもない。他店の商品であれば、美味しいチェリーデニッシュを見つけたと浮かれただろうと思えるほど、自分の好みにも合っていた。
素直にそう言えばいいとわかっていても、足を引っ張る劣等感。
ずっとこの仕事に携わってきた連と比べること自体が無謀でも。
それでも、悔しかった。
そんな風に思ってしまう自分に落ち込みながら作業を進めていると、今日は休みのはずの連の父正治が入ってきた。
「麦ちゃんお疲れさま。バレンタインデーのお返し、ここに置いとくから」
「ありがとうございます」
麺台にいた麦は手を止めて、わざわざ持ってきてくれた正治に礼を言う。
それからふと、正治になら聞けるかと思いついた。
「デニッシュ、出すんですか?」
唐突な麦の問いに一瞬驚いて見返した正治だが、すぐに思い当たったのか、ああと納得の声を洩らす。
「連が作ってたね」
「今日試作をもらって……」
麦の言葉に窯の横のラックを一瞥した正治は、少し考える様子を見せた。
「バターの量からしてコスト的に高くなるし、うちの客層には正直あんまり向かないかもね」
「そうですか…」
「それに、連もかなり苦戦してたから。もう少し安価で手軽に作れるようにならないと難しいかな」
予想外の言葉に麦が瞠目して動きを止める。
自分は作っているところすら見ていなかったので、連は労せずすんなり作ったのだと思いこんでいた。
その姿を見ていないということは、その苦労も見ていないということ。
連がいつもその大変さを表に出さないことは、自分だって知っていたはずなのに―――。
「麦ちゃん?」
かけられた声に我に返り、なんでもないと首を振る。
ぎゅっと締めつけられるような胸の痛みの原因は、今の麦にはわからなかった。
「美味しかったですよ」
昼休憩から戻ってきた連に、麦はそう伝えた。
「それだけ?」
不服そうな連に笑い、だってと返す。
「あれは商品化できないんですよね?」
「親父か……」
ぼそりと呟き連が溜息をついた。
「定番にするには手間がかかるから。ほかに支障が出そうなんだ」
「ということは、手間と、あとコストをなんとかすれば出せるってことですよね?」
被せるような麦の声。驚愕、というよりは呆然と見返す連へと麦は続ける。
「店長。あのデニッシュ、どう作ったか教えてください。改良できるところがないか、私も考えてみます」
一から形にしたのは連であり自分ではない。苦労したという連、その恩恵にあずかるのは少しずるいような気もするが。
「丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリー。私に挑戦させてください」
まっすぐ連を見たまま、麦が言い切った。
その日仕事を終えた麦は、店の袋を手に帰路に就いた。
袋の中には三個のチェリーデニッシュ。
あのあと、連はわかったと頷いてくれた。レシピを書いてくると言い、参考にどうぞと残る三個をすべてくれた。
いいのかと尋ねる麦に、お返しでもあるからと穏やかに笑う連。どこか安堵に緩む様子に、麦はまた聞けないままだった。
(……どうしてチェリーデニッシュだったのかな)
缶詰なら桃やパイナップルが手軽で定番だろう。それをわざわざチェリーにした理由はなんだったのか。
そして何より、なぜ急にデニッシュパンを作ろうと思ったのか。
(……気に入ったのかな)
パンフェアのあの日に食べたチェリーデニッシュ。確かにあれも美味しかったが、このチェリーデニッシュも負けてはいないなとひとり笑う。
パンフェアのお返しのチェリーのチョコレート。そしてこの、連の作ったチェリーデニッシュ。
小さく甘い果実を思い、そういえばこのチェリーも連が用意したのだろうかと考えながら。
『いつか』などと言わずに、今から自分にできることをしていこうと。麦はそう心に決めた。
生のさくらんぼも好きなのですが、今回はコンポート、砂糖煮です。
毎年生のアメリカンチェリーで作っていたのですが、段々とお値段が(泣)。
最近業務なスーパーで冷凍チェリーを発見。しかも種抜き!! 飛びつきました。
輸入元がアメリカではないのでアメリカンチェリーとは書かれていませんが、品種としては多分同系統。
嬉々として煮ました。
焼菓子に入れても美味しいのですが、小池しか食べないのでできません。せいぜいプレーンなチーズケーキに添えるくらい。あとはヨーグルトに入れたり、こっそりそのまま食べたり(笑)。
煮汁はハイボールに混ぜたりも。
チェリー、家で煮るようになったのは某カフェのバターサンドとレモネードがきっかけでした。お店にはなかなか行けませんが、バターサンドはお取り寄せできるのですよね。
便利な世の中になりました……。




