第三十三景【チェリーコンポート】表
重ね募る期待と不安。
休みの日に訪れたショッピングモールで、連は途方に暮れていた。
イベントスペースではホワイトデーの催しの真っ最中。連もそれを目当てにやってきていたのだが。
これだけの商品が並ぶ中、何もピンとこないなんてことがあるのかと嘆息する。
バレンタインデーに従業員一同からもらったチョコレートのお返しには、いつも同じものを人数分用意することにしていた。ひとりずつ渡さなくてもいいと言われたこともあるが、日頃の礼も兼ねてと思っている。
今年は小振りなクッキーの詰め合わせ。同じものがたくさん入るより、少しずつ色々なものがある方が好まれるのもわかっていた。
こういう判断は早い方なので、毎年それほど悩むことなく決まる。現に今日も皆へのお返しはすぐに見つけることができたのだが。
問題は、麦個人へのお返し。
パンフェアの時のお礼だと言って渡されたチョコレートを、普通にバレンタインデーにもらったものとしてお返しをしていいのか。それともあくまでお礼としてただ受け取るべきなのか。その判断に迷っていた。
もちろんどちらを選んだとしても、麦はたいして気にしないとわかっている。
それなら返したいと自分では思うのだが、物によってはお礼だったのに大袈裟だと言われそうで。かといって適当には選びたくなくて、どうすることもできずにいた。
結局何も買えずに帰宅した連は、続けて母千春に頼まれていた買い物に出た。全員が同職の丸川家、多くの家事は千春が担ってくれていたが、任せきりというわけにはいかない。予定のない休みの日は連も夕食を作るので、何にしようかと考えながらスーパーの食料品売場を歩いていく。
しかし朝から色々と考えすぎているので、夕食メニューも全く思い浮かばず。もうカレーか鍋にしようと諦めて、頼まれたものを籠に入れていく。
冷凍食品のコーナーでブロッコリーを取りながら、ふと近くに置かれていた冷凍フルーツに気付いた。
時期を問わず安定した値で使えることは魅力だが、解凍すると水分が出てへたるので正直使い勝手は悪く。店では使っていない。
最近は色々と種類も増えたなと見ていると、赤黒いさくらんぼが描かれたパッケージが目についた。
(……アメリカンチェリー?)
商品名にはダークスイートチェリーとあるが、絵はどう見てもアメリカンチェリーで。手に取り裏返してみても、袋の透明な部分から見える果肉はやはりそうとしか思えない。
一度商品を戻してスマホで調べてみると、どうやら同じものと考えていいようだった。
もう一度商品を手にとって見てみる。ほかの果物同様に、加熱も加糖もされておらずそのまま凍らせた商品のようだった。
ふと浮かんだ面影に、暫くその場で考え込む。
大袈裟にならず、それでも特別な。
自分だから、返せるもの。
あまり日数はないが、やってみるかと奮起して。
連は冷凍チェリーを籠に入れた。
家に帰って暫く調べてから、連はまずチェリーのコンポートを作ることにした。
菓子作りなどしない自分だが、目指すべきものはわかっている。
レシピは鍋にあけたチェリーに砂糖をまぶして煮るだけ。レモンもさくらんぼの蒸留酒であるキルシュワッサーもないので、代わりに父正治のブランデーをこっそり拝借して少しだけ入れた。
冷凍した野菜は火が通りやすいというが、どうやら果物も同じようで。さほど煮ずとも凍ったチェリーから出た水分は重いワインを思わせるような深いバーガンディ色のシロップに変わり、果肉は少しへしゃげて浸っていた。ヘラと箸を使いなんとか種を抜き、そうこうしている間に冷めたそれを味見用に数個残して保存容器に詰める。
初めて作ったチェリーコンポートは、煮ている間も特に果物らしいいい香りがするわけでもなく。これで本当に美味しいのだろうかと疑いながら口に入れた。
まず感じるのは爽やかな酸味。噛むとチェリーらしい風味と甘みが広がる。
以前食べたチェリーデニッシュを思い出しながら、手間の割には近いものができたのではないかと安堵した。
家でできることはそれだけだったので、あとは手持ちの本やネットでデニッシュ生地の作り方を確認する。
店での扱いはないとはいえ知識として生地の作り方は知っているので、見るのは材料や注意事項。頭に叩き込んでから、あとは明日を待つことにした。
翌日から、仕事の合間にデニッシュ生地の試作を始めた連。
あくまで試作という体で作る以上、あまり凝ったこともできず。一から生地は作らずに、店で使っている菓子生地にバターを折り込むことにした。
とはいっても、さすがに麦のいる前では作れない。
生地を作るのは麦が帰ったあとでもできるが、窯の電源は落とすので焼成作業ができず。麦の休みの前日に生地を仕込み、翌朝早く店に来て焼くしかなかった。
その日も麦が帰ってから、翌朝に向けて成形までの作業を進める連。
デニッシュ生地もパイ生地も、生地にイーストが入るかどうかの違いはあるが、作業的には変わらない。間に油分が入ることで生地がくっつかず、それを薄く重ねることで層を作り、程よく焼けるとサクサクとした食感を生む。生地とバターを切れぬように均一に伸ばすのは気を遣うが、何度も作って折り込み作業にも慣れた。
今なら折り込みパイも余裕で作れそうな気がするなとひとり笑いながら、日中隙を見て作業を進めていた生地を取り出す。
ふたつに畳んでいた生地を広げ、軽く伸ばして正方形に切り分ける。半分の三角に折り、輪になった方から頂点に向け、切り離さないよう左右から切込みをいれた。開いた生地を切込みの内側と反対の外側を合わせるように互い違いに開いて水で貼り付けると、真ん中に窪みのある、角張った紙包みのキャンディーのような形になる。
丸い形も定番だが、これなら抜き型もいらず深さが出るのでフィリングも入れやすい。
生地すべてを成形し、乾かぬよう袋をかけて冷蔵庫へとしまった。
翌朝に早朝作業をする正治を手伝いながら二次発酵を待ち、焼成前の仕上げにかかる。
あのチェリーデニッシュと同じくカスタードを敷いても作ってみたが、そのまま真似をするのもどうかと思い、今日はいくつか代案を用意していた。
チェリーコンポートも甘みを加えて炊き直してある。
日程的にこれでレシピを決めてしまわねばならないため、作業も自ずと慎重になっていた。
せっかくの層を潰さぬように艶出しを塗り、フィリングとチェリーを載せる。
焼き時間は十数分。
今まで試作など数え切れないほどしてきたというのに、今までにない期待と不安に襲われる。
出来云々ではない。
その向こうの人を笑顔にできるのだろうかと思い、湧き上がるもの。
そんないたたまれない時間を過ごした。
「おはようございます」
「おはよう、熱田さん。バレンタインのお返し、バックヤードにあるからひとつ持っていってね」
三月十四日のホワイトデー。
出勤してきた麦に、連はそう声をかけた。
ありがとうございますと返ってくる明るい声に少し笑い、麦が着替えている間に天板を窯に放り込んだ。
コックコートに着替えて降りてきた麦は、いつも通り店内を確認したあと、焼き上がっているパンとホイロで二次発酵中の生地とを確認し始める。
毎日同じ順番で作業をすると、まだ商品数の少ない朝はいつも同じものしか並ばなくなる。それを避けるために、ある程度の定番以外は日替わりで作る順番を変えていた。
麦がひと通り見終わったところで、ちょうど窯のブザーが鳴った。
「出しますね」
連が指示を出す前に動いた麦であったが、窯から出てきた天板を見て一瞬動きを止めた。
「焼けてそうなら出して」
声をかけると我に返ったように、麦は天板を叩き台に打ちつける。
「いい色に焼けてるね」
連が麺台から見に行くと、叩き台の上の天板には濃いめに焼き色のついたチェリーデニッシュが四つ並んでいた。
「店長、これ……」
チェリーデニッシュを見つめたままの麦がぽつりと呟く。
「ちょっと作ってみたんだけど。参考にするから、食べたら意見ちょうだいね」
「えっ?」
振り返った麦の慌てた様子に、やはり気付いてなどないかと改めて思いながら。
「お礼のお返しを兼ねて。ついでみたいで悪いけどさ」
それでも正直に、お返しなのだとは言えなかった。




