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第三十二景【ひなあられ】表

 ここにはないもの。

 スーパーの入口を入ってすぐに設置されているイベントコーナー。ひなまつり目前の今は、造花の桃の花が飾られ、ひな人形の絵が描かれたパッケージの商品が並んでいる。

 その前で足を止めた萌々花(ももか)は、端から端までひとつずつ商品を確かめてから、きゅっとその小さな手を握りしめた。

 桃色を基調とした商品の中には、やはり萌々花の求めるものはない。

 節分が終わってひなまつりの商品が扱われるようになってからずっと探しているのだが、未だに見つけられないでいた。

「萌々花? 行くわよ?」

「はぁい」

 母親の優花(ゆうか)に声をかけられ、萌々花はもう一度棚を見てからその場を離れた。

 その日のみならず、コンビニでもほかのスーパーでも、ひなまつりの商品をじっと見ている萌々花。

 その様子に気付いた優花が、今日もまた棚を見上げていた萌々花の隣に屈み込む。

「ひなまつりのお菓子、ほしいの?」

 そう聞かれるが、萌々花は下を向いて首を振った。

「ももかのほしいのないもん」

「萌々花のほしいのって?」

 覗き込んで尋ねる優花に、萌々花はちらりと棚を見上げる。

「…ひなあられ」

 小さな萌々花の声に、優花は棚に並ぶひなあられを見て少し視線を落とした。

「……買ってみる?」

 ひなあられと優花を見比べた萌々花は、何も言わずにただ頷いた。



 家に帰った萌々花は、買ってもらったひなあられを皿にあけた。

 袋からはサラサラと米の形の小さな粒が出てくる。

 白と淡いピンクと緑の粒を見つめてから、萌々花は数粒つまんで手のひらに乗せた。

 じっとそれを見つめてから、白い粒を口に入れる。ほんのり甘い粒は軽く、口の中ですぐにふやけた。

 次はピンクの粒を口に入れて。その次は緑の粒を食べる。

 ひと粒ずつ食べたあと、また暫く手のひらのひなあられを見ていた萌々花は、そっとそれを皿に戻した。

「萌々花?」

 全く減った様子のないひなあられに気付いた優花が声をかける。

「ひなあられ食べないの?」

 皿の前に座ったままの萌々花は、うつむき目の前の皿を見ようとしなかった。

「食べへん」

 視線を逸らしたままの、小さな呟き。

「あれひなあられちゃうもん」

 膝の上の手をぎゅっと握って、少し視線を上げる。

 皿の中の小さな粒は、萌々花にとってはポン菓子で。

「あれ、ももかの食べたいひなあられとちゃうもん」

 記憶にあるひなあられとは全く異なるものだった。



 父親の仕事の都合でここへ引っ越して、もうすぐ一年。

 何もかも違うわけでもなく。違っていてもそうなのかと思う程度。しかしそれでも、日々の暮らしの中には様々な違いがあった。

「なんでないん?」

 睨みつけるようにひなあられを見る萌々花の瞳に、じわりと涙が滲み出す。

「ひなあられ、なんでないん?」

 視線の先の米の形の小さな粒が、零れる雫にぼやけていく。

「ももかの食べたいのこれやないのに、なんでこれしかないん?」

「萌々花……」

 困った声の母親の顔は、どこか悲しそうで。自分がそんな顔をさせてしまったとわかっているのに、涙も言葉も止まらなかった。

「おでんのおだんごも売ってへんし、お店のおうどんもももかのすきなんとちゃうもん」

 ひとつひとつはたいした違いでないことはわかっている。それでも積み重なったものに、自分は今までと違うところにいるのだと嫌でも実感させられた。

「まいちゃんとももうあそばれへん」

 仲のよかった幼稚園の友達を思い出し、ますます悲しくなる。

 好きなものが傍にない。ただそれだけのことなのに、広い世界にぽつりとひとり置き去りにされたような寂しさと心細さを感じて。

「なんでももかはここにおるん?」

 小さな心に少しずつ溜まっていたものが、溢れてしまった。



 しゃくりあげながら泣く萌々花を、優花が優しく抱きしめた。

「……ごめんね萌々花。萌々花の好きなもの、いっぱい向こうに置いてきちゃったね」

 頭の上から降ってくる優花の声は今までに聞いたことのない暗さを含み、萌々花ははっとして思わず優花に抱きついた。

 好きな食べ物も、好きな友達も、確かにここにはない。

 しかし、それでも―――。

 涙は止まらず、しゃくりあげているのでちゃんと声も出ない。それでも萌々花は必死に優花にしがみついた。

「ママぁ」

 ―――一番大好きなものは、ここにあった。

 何も言わずにただぎゅっと抱きしめ返してくれる優花。

 その温もりに包まれながら、萌々花は声にならないごめんなさいを繰り返す。

 ここの何が嫌いなわけでもない。

 すべてが違うわけでもなく、違うけど美味しいものもあると知っている。

 小学校も楽しく、仲のいい友達もいる。

 ただ。きっと、ただ少しだけ。

 懐かしくなっただけなのだ。



 数日後、萌々花が学校から帰ってくると、テーブルの上に小振りの段ボール箱が置いてあった。

「おじいちゃんとおばあちゃんから萌々花にだって」

 開けてごらん、と優花に言われ。貼られているガムテープを剥がして開けた萌々花が大きく目を見開いた。

「ひなあられ! ママ! ひなあられ!!」

 袋を掴み出して見せる萌々花に、優花も嬉しそうに微笑み頷く。

 箱の中にはひなあられとお菓子、そして父方の祖父母からの手紙が入っていた。

 ひなまつりのお祝いを送ると書かれた手紙を読み、嬉しそうにひなあられの袋をテーブルに並べる。

「今日食べてもいい?」

 五つ並んだ袋の前で、満面の笑みで萌々花が尋ねた。



 カラカラ、とお皿に一センチほどの丸い粒が転がり出る。

 白、ピンク、緑、そして茶色と黄色、チョコレートでコーティングされたもの。

 萌々花にとってのひなあられは、餅を揚げたこの小粒のあられであった。

 白い粒をつまみあげて口に入れる。塩味のあられは噛むとカリッと砕けた。

 海老、海苔、醤油と順に食べ、一番好きな甘い黄色のあと、最後にチョコレートのあられを食べる。

 ひと通り食べてから、萌々花は自分の向かいに座る優花を見た。

 にこにこと嬉しそうな優花と目が合う。

「よかったね」

「うん! ママも食べて」

 お皿を優花の方へ押しやって、萌々花はまたひと粒ずつ食べ始めた。

 懐かしい味は楽しかった記憶と優しい気持ちを思い出させてくれて、次々と変わる風味に合わせて様々に浮かんでは消える。

 ひと袋は多いからと、去年は二日に分けて食べていた。二日目のひなあられは黄色とチョコレートが少なくて、甘いひなあられがもっと入っていてもいいなと思っていた。

 ふと、萌々花の手が止まる。

 目の前の丸いひなあられ。

 そして、小さな粒の、優しい甘さのひなあられ。

 皿に残ったままだったそれを思い出し、萌々花は唇を引き結んだ。

「萌々花?」

 急に手を止めた萌々花に、優花が怪訝そうに名を呼んだ。少しびくりとしてから、うつむいた萌々花の瞳からぽろぽろと雫が落ちていく。

 あの時優花が悲しそうな声で何度も謝っていたことを思い出し、萌々花はどうしようもなく苦しくなった。

「……こないだのひなあられ、買ってくれたのに食べんでごめん…」

 食べられないわけでも嫌いでもないのに、ただ違うというだけで食べなかったひなあられ。

 あのあといつの間にか寝てしまった自分。起きた時にはひなあられは片付けられていて、どうなったのかはわからない。

 それでも食べもせず泣いた自分が優花を悲しませたことだけは、萌々花にとって紛うことない事実であった。



 優花が萌々花の頭を撫でた。

「ちょっと待っててね」

 そう言って席を離れた優花は、暫くしてから小さな皿を手に戻ってきた。

「…一緒に食べる?」

 テーブルに置かれた皿の中には、小さな粒のひなあられが載っていた。

「ママ、これ…」

「ちょっと湿気てるかもしれないけど」

 笑う優花からひなあられに視線を移し、萌々花はひと粒つまむ。

「もう少し多めに食べたらいいかも」

 そう言いながら、優花は一度に数粒つまんで口に入れた。

「そうなん?」

「ママは子どもの頃そうやって食べてたわよ」

 懐かしむようなその声に、萌々花は全部の指を使ってひなあられをつまみ直して食べる。口の中の粒々は、噛むと柔らかな甘さとともに軽く潰れた。

 もぐもぐと噛んで飲み込んで。

 自分の思うひなあられではないけれど。口に残る優しい甘さを、今は素直に美味しいと思える。

 そろりと見上げた優花の顔にはあの時の悲哀も暗さもなく。自分を見守るいつもの母の顔だった。

「ママ」

「なぁに」

「おいしいね!」

 明るい萌々花の言葉に、優花も嬉しそうに微笑んで頷き返してくれた。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  引っ越しは子どもにとって一大事ですよね!  大人にとってもそうですが、まあ、大人はなんとかなる。笑 学校も友だちも変わるというのは大変なことだなぁと思います。冬野は転校したことはないです…
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