第三十一景【アーモンドバター】裏
わかっていても思うこと。
「店長。これ、従業員一同からです」
二月十四日の朝一番。成形中の連は、出勤してきた麦から紙袋を見せられ、そういえば今日はバレンタインデーだったと改めて思い出した。
昔からパートで来てくれているのは女性の方が多く、中には連が子どもの頃から働く人もいる。そんな人たちが、いつの間にか毎年恒例でバレンタインデーにチョコレートをくれるようになった。
多分今年もとは思っていたが、まさか麦から渡されるとは考えておらず。
「あっ、ありがとう…」
「棚に置いておきます。正治さんの分は冷蔵庫に入れさせてくださいね」
驚いて返した声を気にした様子もなく、自分の分だというものは棚に、父親の分は冷蔵庫に入れてから、朝の作業に取り掛かる麦。
ちらりと棚の紙袋を見てから、連は成形中でなければ手渡しでもらえていたのだろうかと内心思う。
もちろんあれは従業員一同からで、麦は持ってきてくれただけだということはわかっているのだが。
なんとなく過る感情は溜息で逃し、連は成形の手を早めた。
先日麦と一緒に新作のヒントを得るべくパンフェアへ一緒に行った時のこと。
お気に入りの店だと案内されたのは、都会のパン屋らしい洗練された佇まいの店で、いかにも町のパン屋なここ丸川ベーカリーとは全く違っていた。
麦のような若い女性が働くならああいった洒落た店の方がいいだろうと思った時に覚えた感情。あれからどうにもそれを引きずってしまっているようで、時々こうして従業員に抱くには過ぎたことを考える自分がいる。
自分はここの店長で。
麦は従業員で仕事仲間。
それ以上でもそれ以下でもないのだと、もう何度も言い聞かせているというのに―――。
幸い忙しくなればそんなことを考えるどころではなくなる。
今日も精々仕事に励もうと、連はこっそり嘆息した。
一次発酵あとの生地の分割作業はひとりよりもふたりでやる方が早く済み、生地の乾燥を少しでも防ぐことができる。
ホイロの中の二次発酵中のものや窯で焼成中のものなどに呼ばれぬ限り、分割作業が始まると麦も手伝いに来てくれた。
「店長はナッツ平気でしたよね?」
前を向いて丸めながらの唐突すぎる質問に、連はすぐに返事ができず隣の麦を見る。
「大丈夫だけど…それがどうかした?」
「チョコレートを買いに行った時に、珍しい店を見つけたんですよ」
(…てことは、買いにも熱田さんが……)
パンフェアをやっていたショッピングモールだと説明されながら、内心そんなことを考える。
麦が持ってきてくれたのなら確かにそうかと思いつつ、こうして本人の口から聞くとなんだか嬉しい。
「聞いてます?」
いつの間にか麦がこちらを見ていた。
「えっ、うん、聞いてる」
思考が逸れたことを気付かれ慌てて取り繕うと、少し疑わしそうな目を向けられる。
「……そこで、ピーナッツバターとアーモンドバターを作ってくれるんですよね」
見逃してくれるつもりらしく、また前を向いて話し出す麦。
「作る?」
「その場でペーストにしてくれました」
ピーナッツバターを思い浮かべ、ナッツをミルにでもかけてくれるのかと納得する。
「アーモンドバターってのは初めて聞いたかな」
「たまに売ってるんですけどね」
「そうなんだ? 詳しいね」
食材店を覗くのも好きなんです、と麦が笑う。
「面白いので、少しですけどお裾分けしますね」
そこでようやく麦の最初の言葉に繋がり、連は驚いて麦を見た。
「店長も食べてみてください」
麦に他意はない、ただパンに関係するものだからだ、と心中念を押してから。
「…じゃあ遠慮なく。ありがとう」
動揺を外へは出さぬよう、努めて普通にそう返す。
「アーモンドバターって、ピーナッツバターのアーモンド版だよね?」
自身が落ち着くための続けての問いに、麦は明らかに含みある笑みを見せた。
「…と思いますよね」
人使いが荒いとからかわれる時と同じ顔をしているなと思いながら。
「違うの?」
「まぁ食べてみてください」
平静を装った声には、楽しそうなそれが返ってきた。
昼休憩から戻ってきた麦が渡した小さな蓋付き容器。中にはピーナッツバターよりもう少し濃い茶色のペーストが入っていた。
昼食後、連は小さめに切った食パンを用意してアーモンドバターの蓋を開けた。
まずはとスプーンですくってみると、見た目の通り滑らかで粒もなく、傾けるとゆっくりと流れ落ちる。そのくせパンに塗るにはなかなかに重く、伸びにくい。
ピーナッツバターとは勝手が違うようだと思いながら口に入れた瞬間、連はそのまま固まった。
べっとりと上顎に張りつく感触。脂ではなく油なのだとわかっているのに、どうしても冷えた脂を思い起こさせる。
(濃っ…いな……)
口いっぱいに広がるアーモンドの香ばしい香りと、ほんのりとした上品な甘さ。
間違いなく味はいいが、そちらに意識を向けられないほどの物理的な濃厚さ、とでもいうのだろうか。
楽しそうな麦の笑顔を思い出す。
どうなるかわかってて渡したな、と。
そう苦笑しながらも、もちろん怒る気にはなれなかった。
店に戻ってからは、ひと通り現状を確かめ、最後に休憩の間に何もなかったかと麦に聞くまでが一連の流れとなっていた。見る限りでは滞りなく作業は進んでいても、その間に気付いた材料不足や客の様子など、裏では報告が必要なこともある。
今日はないと言われたので、連は事前に考えてきていた言葉を口にした。
「父さんから、チョコありがとうって。喜んでた」
食べようとして、日中はやめておけと母千春に取り上げられていたと話す。
喜んでもらえてよかったと微笑む様子に、やはり麦が選んだチョコレートなのだと確信した。
「俺の分もありがとう。あと、アーモンドバターも食べてみたけど……」
「どうでした?」
「口の中、くっついたかと思った」
そう返すと笑われて、やはりこちらも確信犯かとジト目で見る。
「美味しいけど、かなり食べにくいよね」
「ですよね。調べたんですけど、油を足さずにペーストにしてたからかもしれません」
「あれに更に油入れるのもどうかと思うけど」
油分は十二分にあるような気がするのだが、確かにあれでは濃く、そのまま塗って食べようと思えない。
「トーストに塗るか、塗ってから焼くと全然気にならないんですけどね」
麦自身も色々と試してみたのだろう。あっさりと示された解決法に、それならそうと、と思わないこともない。
「先に言ってよ」
「言っても店長なら絶対そのままで食べてみますよね?」
思わずぼやくが、反論のしようがない理由を返された。
仕方なくまた前を向くが、じわじわと広がる喜びに内心苦笑う。
理解されている嬉しさは、何も特別なものではないけれど―――。
そのあとは、生生地に塗って焼いたら美味しそうだという話になり、その場合の生地や成形はと話が弾んだ。
「お菓子も合うと思うんですよね。クッキーとかパウンドとか」
「でもうち焼菓子売ってないからなぁ。メロン皮くらいしか作ったことない」
「確かにあれもビス生地ですね」
店長ならすぐ作れそうですけど、と麦が笑う。
「私もお菓子はあんまり作りませんけど。もし作ったら持ってきますね」
さらりと続けられた思ってもない言葉に、いちいち反応してしまう自分にはもう呆れるしかない。
それでもただの世間話の延長で、社交辞令だとわかってはいるから。
「ありがとう」
待ってる、とは言えなかった。
「お先に失礼します」
閉店後、最後の確認をしていた連に、着替えて降りてきた麦が声をかけた。
「お疲れ様」
「店長、これ」
言葉とともに差し出された袋をつい受け取ってしまってから、連はそれと麦とを見比べる。
「え?」
「パンフェアの時のお礼です」
端的に答え、麦はお疲れ様でしたといつも通りの様子で小さく頭を下げて店を出ていった。
ひとりきりになった店で暫く呆然と突っ立っていた連は、我に返って改めて手にしたそれを見る。
袋に入った小さな箱は、バレンタインらしく華やかなパッケージで。取り出し眺めるうちに、洋酒漬けチェリー入りのチョコレートとの表記を見つけた。
パンフェアのお礼だと言う、麦の声が蘇る。
他意がないのはこれも同じ。言葉通り、麦にとってはただのお礼でしかないとわかってはいるのだが。
箱を見つめていた連が、小さく息をつく。
でも、これはきっと、麦本人の好みのチョコレート。
皆を代表して選んだのではなく、麦本人が選んだ、麦の好みのチョコレート。
―――だからこそ、嬉しかった。
本当に美味しいのかと思われるような内容ですみません。
衝撃だったのですよ。ホントに。
というわけで。小池も色々と混ぜて食べてみました。
バニラアイス。ホワイトチョコ。カスタード。生クリーム。
結論。どれも美味しい…。
濃いし、アーモンドと黒糖だけなので余計な味がしない。製菓材料としてとっても優秀でした。
焼き菓子は作っていないので。もしかしたらまた買ってしまうかもしれません(笑)。




