第三十一景【アーモンドバター】表
知っているようで知らないこと。
最寄り駅から五駅離れたショッピングモールは、平日の午前中だというのにそれなりに賑わっていた。
よし、と気合を入れて、麦はモール内を進んでいく。
バレンタインデーを目前に、モール内はあちこち赤やピンクやハートの装飾に溢れていた。食品以外の店でも、ここぞとばかりにプレゼント用の品々を並べている。
華やぐ店頭を横目で見ながら進んだ先は、モール内のイベントスペース。ずらりと並んだショーケースには、所狭しとチョコレートが並んでいた。
麦の勤める丸川ベーカリーに、男性は店長の連とその父親の正治だけ。毎年ふたりに有志といいつつ従業員一同でバレンタインのチョコレートを贈っていた。
どうせここへ父親用のチョコレートを買いに来るつもりだった麦は、ついでに買ってくると申し出た。一緒に行こうかと言ってくれた人もいたが、自分以外は皆家庭を持っている。身軽な自分につきあわせるのは忍びなく、任せてくださいと請け負った。
あまり流行り物に詳しいわけでもないのに、どうせだったら若い子が選んでくれた方がいいものね、と言われてしまい、冗談だとわかりつつも少々ハードルが上がってしまっているが。
元々こうして店を巡って歩くのは好きな自分。カラフルでおしゃれな品々を見ているだけで楽しく、美味しそうなお菓子が並ぶ空間はもはや至福の場所であり。もし惹かれるものがあれば自分用にも買ってしまおうなどと目論んでいる。
まずは視察と、店舗一覧と地図の載ったチラシを片手に会場をゆっくりと見て回る麦。
半分ほど回ったところで、お酒が好きな正治にはお酒入りのボンボンショコラがいいかと見当をつける。メーカー違いで数種類あるので、ショーケースを覗いて候補を絞ることにした。中には要冷蔵のものもあるが、店にはもちろん冷蔵庫があるので気にせずに済む。
続いて連の分を考えようと思い、麦はふと動きを止めた。
(店長って、何が好きなんだろう…?)
お酒も飲むと聞いたことがある。
甘いものも食べると知っている。
だが、特に何が好きかは聞いたことがないと気がついた。
バイトとして働きだしてから五年。店では仕事以外の話もしているというのに、改めて考えてみると何ひとつ思いつかない。
とりあえず見てみれば何かぴんとくるかもしれないと思い、麦は意識を商品に戻して再び歩き出す。
去年のこの時期には既に丸川ベーカリーに就職することが決まっていた麦。時間に余裕があったので、買いに行くというパートの有原についていった。連が店長になる前から店で働く有原が「連くんの好きそうなのは」と楽しそうに選んでいた姿は覚えているのだが、肝心の好きそうなものの候補が何であったのかを覚えていない。
その時の帰り際、有原から就職祝いといって小さな袋を渡された。中に入っていた小さな缶入りのチョコレートは、買い物の途中にかわいいと思って見ていた物で、嬉しくも驚いた。今も自室の机の上には小物入れになったその缶が置かれてある。
ここへ連とパンフェアを見に来た時も、チェリーデニッシュを見ていることに気付かれていた。
そんなに自分は物欲しそうに見ているのだろうかと恥ずかしく思うとともに、それだけ気遣えるふたりをすごいと思う。
五年も一緒に働いているのに連が好きなものを何も思いつかない自分。
いつも店で作業と人員と客入りに合わせて指示を出している連。
連に指示をされる前に動けるようになりたいと思うものの。自分には連ほど周りを見ることができないのだと改めて思う。
敵わなくて当然だと。
浮かんだ言葉に、心が少し痛んだ。
そのあと暫く会場を見て回り、どうにか麦はそれぞれへのチョコレートを決めた。
正治には様々な銘柄のお酒入りのボンボンショコラ。お酒がそのまま入っているものもあれば、中のガナッシュに練り込まれているものもあるという。
連にはお菓子メーカーが出していた、見覚えあるお菓子の高級版を選んだ。これなら大きく外すこともないだろうし、コーティングのチョコと中のクリームが色々と違うので楽しんでもらえるかもしれない。
ボンボンショコラが要冷蔵なので帰り際に買うことにして、折角ここまで来たのだからモール内を見ることにした。
今日はモール外のパン屋には寄らずにまっすぐ帰るつもりなので、お気に入りのキャラメルアップルデニッシュは買えない。代わりにモール内のパン屋で何か買おうかと考えてから、ふと思い出す。
パンフェアの時に、連に参考にするからいいと言われて買ってもらったデニッシュ。試食を合わせると四分の三は自分が食べているというのに、休日出勤代の代わりだからお礼はいらないと言われ、結局未だに何も返せていないままだった。
麦は暫くイベント会場を見つめてから、軽く息をつき、その場を離れた。
歩き疲れた足を休めがてら昼食を食べてから、麦はモール内を見て回る。
モール内のテナントは入れ替わりもよくあることで、気付いたら知らない店になっていることもある。
この店も見覚えがないなと足を止めたのは、ナッツの専門店。素焼きやおつまみ用の味付きのもの、その場でピーナッツバターとアーモンドバターを作ってくれるコーナーもあった。
ピーナッツバターはよく見かけるが、アーモンドバターはスーパーでは見たことがなく。食材店や通販でたまに見る程度。
昔一度瓶入りのものを買ったことがあるなと思いながら、懐かしさから店内へと入る。
見本としてだろうか、既に作り済みのアーモンドバターも置いてあった。プラスチックのカップには、濃い茶色の滑らかそうなペーストが入っている。もっと白っぽいクリーム状のものに荒微塵のアーモンドが混ざったものもあるが、どうやらこの店のものは粒のないペーストタイプのようだ。
見ていたらなんだか無性に食べたくなってしまい、麦は店員に購入を伝える。
にこやかに受けてくれた店員が、コーナーに置かれている機械にアーモンドと黒糖の欠片を入れる。スイッチを入れて暫く、どろりとしたペーストが流れ出てくるのを、麦は興味深く見守った。
カップに詰められた皮の斑点の混ざる茶色いペースト。
そのまま塗るか、焼いてから塗るか、塗ってから焼くか。辺りに漂うアーモンドの香りに、とりあえず食パンは買って帰ろうと決めた。
気の済むまでモールを回り、食パンと新作のパンも買ってから。もう一度イベント会場に戻った麦は、まず既に決めていた正治と連のチョコレートを買った。
父親の分もいくつか目星をつけていたものの中からひとつを選び、購入する。
あとは自分用だと、気になっていたものを改めて見て回るが、並ぶチョコレートはどれもこれも美味しそうで。自分用となるとますます候補が増える始末。
紅茶の生チョコレートも捨てがたく。ピスタチオのトリュフチョコレートはアーモンドバターがあるので断念し。マロンのケーキバーは小分けで食べられないので諦めて。目に止まった洋酒漬けのチェリーが入ったチョコレートは保留にする。
自分用だと思いながら、つい考えてしまうもうひとつの渡し先。
あの時のパンのお礼として連に渡すことができればと。そんな思いが胸にあり。
しかしもちろん先程と同じく何がいいかはわからない。
ボンボンショコラには保冷剤を入れてくれているが、早く冷蔵庫に入れた方がいいからこそ帰る間際に買うことにしたというのに。ここで時間をかけてしまっては意味がなくなってしまう。
もう自分の分だけ買って帰ろうかと思うのだが、どうしても気持ちが落ち着かず、麦は考えを纏めようと一度会場の隅に移動した。
ぼんやりと並ぶ店を見るともなしに眺めながら、麦は考えていた。
きっとこの機会を逃すと、もう何も渡せない。
しかし、自分は連の好きなものを知らない。
何がいいのか、何を喜んでくれるのかがわからない。
―――否、連はきっと何を渡しても喜んで受け取ってくれると知っている。
だからこそ、何がいいのかわからなかった。
ただのお礼なのだから気負わず選べばいいと思う気持ちより、どうせだったら本当に喜んでもらいたいと思う気持ちが勝っていて。
一緒にここへ来たあの日、自分に向けられた気遣いの数々に報いたくて。
どうしても、気軽に選ぶことができなかった。
パンフェアの時は自分の好きなものを選ぶだけなので気楽なものだったなと苦笑してから、はたと気付く。
店ではデニッシュ系のパンを出していないので、普段はこの系は買わないなと連が言っていたこと、そして休憩室で試食をした時の連の様子―――。
暫くそのまま考え込んでいた麦は、やがて顔を上げ、再び会場へと足を踏み入れた。




