第二十九景【ジャム】裏
これからも。
とうに日も暮れた頃。いつまでも終業を伝えに来ない部下を探していた男は、部屋でひとり一心に書類に向かうその姿を見つけた。
(また…)
扉を開けても気付かぬほどの集中振りは、ほめていいのか悪いのか。
そんなことを思いながら、まだ残っていたのかと声をかけると、部下はぱっと振り返る。
「あ、お疲れ様ですっ!」
ばつ悪そうな様子もなく椅子から立ち上がり駆け寄ってくる若い男に、男は内心嘆息した。
「あの、僕、何かご迷惑を…?」
さすがにおかしいと感じたようで不安気に聞いてくる部下に、男は声が強くならないよう気をつけながら、そうではなく、と返す。
「あまり遅くならないようにと言っておいたと思うのですが」
何度も言い続けた言葉にはっとした部下だが、すぐに安堵の表情に変わった。
「てっきり何か失敗をしてしまったのかと思いました。よかったです…」
この部下らしい反応ではあるが、問題はそこではないのだと。今度ははっきりと嘆息を示してから、男は改めて部下の名を呼ぶ。
「先程私が言った言葉を覚えていますか?」
まっすぐ目を見て言うと、ようやく何を言いたいのかをわかってくれた。
自分の言葉を繰り返して、申し訳なさそうにうなだれる部下。
怒ってはいないのだと示すために肩を叩き、その日はそこで帰らせた。
とぼとぼと肩を落として帰る部下を見届けてから、男は改めて息をつく。
数ヶ月前に新しく配属されたこの部下は、根っから真面目で一生懸命で。放っておくといつまでもどこまでも働き続けるのだ。
当たり前のように動き続けるその姿が、我武者羅に働き続けた己の姿と重なる。
周りに舐められないために、そして周りを拒絶するために休もうとしなかった自分。休まぬ理由は違えど、このままでは行き着く先は似たようなもの。
忙しさを理由に家族との縁を手放しかけた。そんな自分のようになってほしくはなかった。
翌朝もいつも通り少し早めにやってきた部下。変わらぬ様子に、これではまた同じかと考える。
終業時刻間近にわざと明日までの仕事を頼んだ。試すようなことをする申し訳なさを感じつつも、彼のために、そして自分のために、罪悪感には目を瞑る。
案の定明日には回さず渡された仕事に手をつけた部下。時刻を過ぎても一向に帰ろうとしないことを確かめてから、男は部下のいる部屋に踏み込んだ。
「……あなたは本当にもう…」
すぐ終わるかと思ったと言いかけた部下に、かかる時間を正確に読むことも必要だと告げる。
黙り込んでしまった部下がこちらの意図を正確に把握していないことはわかっていたが、今ここで訂正するわけにはいかない。
「残りの仕事は預かります。また明日の朝取りに来るように」
せめてもといつもの声音で続けるが、部下はうなだれて小さく頷くだけだった。
昨日に続き落ち込んだ様子で帰っていく部下。彼の性格では、間違いなく自身のせいだと責めるだろう。
自分の伝えたいことをきちんと受け取ってもらえるように。心苦しいが、今は黙って見送るしかなかった。
新しく部下となったこの男は、どうにも人が良すぎて。前の部署では同僚にいいように使われていたと聞いた。
そのせいで今まで自身の働きに対して正当な評価を受けておらず、己を過小評価する傾向にある。
実際の彼の仕事振りは真面目なだけではなく、機転も利き先を見越す目もあった。それを自覚してくれれば、もっと効率よく己を活かすこともできるはず。
そうして空いた時間を自分のために使ってほしい。
そう思っていた。
翌日からは、終わればすぐに知らせるように告げ、数時間で終わる仕事を回した。徐々にかかる時間を増やしていくと同時に、今度は無理のない時間設定で締め切りを決める。
部下がそれに慣れた頃、今度は彼自身に仕上がり時間を聞いた。初めは戸惑いつつも、部下が示す時間は大方こちらの想定通りで。やはり見込み通りだと嬉しく思う。
あとは少し意識を変えてもらうだけ。
上手く伝えられるかはわからない。
それでも少しでも何かが届けばと思い、話がしたいと部下を誘った。
食堂でお茶を淹れてもらい、突然の誘いに緊張した様子の部下が待つテーブルへと戻る。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございますっ」
「あと、これを」
持ってきていたジャムの小瓶を続けて置くと、部下はきょとんとした顔で男を見返した。
「ジャム、ですか…?」
「はい。砂糖の代わりにどうぞ」
赤く透き通るベリーのジャム。少し酸味を残して作られたそれは、お茶にも良く合った。
怪訝そうにしながらも、部下はジャムを一匙お茶に入れ、いただきます、と口にする。
こくりと飲んだ部下からほぅっと息が洩れ、カップへと落とされた眼差しからは張り詰めていたものが緩められていくのが見て取れた。
ここ数日緊張状態であったのはこちらのせいでもあるのだが、少し和らいだ表情に安堵する。
「無理をする必要のない時は、ちゃんと休息も取るようにしてくださいね」
お茶をもう一口飲んだ部下が視線を上げてまっすぐ自分を見る様子に、もう大丈夫かと思い本題を告げた。
今まで何度も伝えてきた言葉であるのだが、部下はまるで初めて聞いたかのように驚いた顔をしたあと、くしゃりと歪める。
「まだまだあなたには手伝ってもらいたいことがたくさんあります。長い付き合いとなるでしょうから、急がずゆっくりとお願いしますね」
続けた言葉は、取り繕うものでも、慰めるものでもない。
心からの言葉だった。
ずっと肩肘を張って生きてきた。
張り詰めていることを悟られないように。必死に立っていることを気付かれないように。
だから誰にも頼れなかった。頼ろうとしなかった。
伸ばされていた手も取らず。強情なまでにひとりで在り続けた。
そんな自分が、ひとつの出逢いをきっかけに変わることができた。
甘いお茶を飲む、穏やかな時間。それを教えてくれた人。
自分は周りに支えられて立つことができているのだと言いながらも、その凛とした立ち姿は美しく強く。
その在り方に己の弱さと至らなさを知り、素直に人の助けを受け入れられるようになった。
そうして緩められ、見えてきたのは疎遠になっていた家族の存在。
離れていてもずっと自分を心配してくれていたのだと、手遅れになる前に気付くことができたのだ。
今の自分は以前とは違い、人を頼り、人に助けられている。
しかしそれを、弱くなったからだとは思わない。
伸ばされる手があること。手を伸ばす先があること。その喜びとそこから得られる強さを、自分はもう知っているのだから。
目の前のことに一生懸命なこの若者が、自分と同じ轍を踏まないように。
こんな自分を慕ってくれる部下が、自分と同じ思いをしないように。
かつて自分が教えられたことを、伝えていければと思う。
部下はカップを持ったまま、じっと男を見ていた。何かを言おうと口を開くが、言葉が出ないのかすぐに閉じる。
暫くしてようやく気持ちが落ち着いたのか、カップの持ち手をぎゅっと握り直した。
「……がんばりますっっ」
部下らしいまっすぐな言葉。変わらぬ懸命な姿勢は嬉しく、しかしまたすぐ行き過ぎそうな勢いに心中苦笑する。
「がんばりすぎるなと言っているのですよ」
この先も、ほかでもない彼に手伝ってほしいと思う自分がいるから。
この先も、彼の手本となれるように在りたいと思っている。
笑って返した言葉に、部下はそうでしたと恥ずかしそうに微笑んで。
「これからも、よろしくお願いします!」
希望に満ちた明るい声で、そう告げた。
大晦日にジャム(笑)。まぁ去年に続いて、ということで。
ここ数ヶ月、ダイエットと時短のために朝ご飯を置き換え食としているので、食パンを食べる機会が減りまして。ジャムもあまり食べていなかったりします。
パンに塗るのもいいですが、ヨーグルトに入れるのも好きです。
昨シーズンは節分に作った柚子ジャム、今シーズンは冬至の際に柚子がたくさん手に入ったので、また作りました。
パンに塗るよりも、お茶に入れたりパウンドに焼き込んだりしてそうです。
昔ジャムサンドをひとつ作るのに一瓶挟み込んでえらい目にあったなぁ……。たくさん挟んであるほうが美味しいと思ったのですよね……。
今年最後の投稿です。
この一年、お読みくださった皆様には心からのお礼を。
本当にありがとうございました。
来年も細々書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
そして。色々とお世話になった皆様には、心からの感謝も。
本当にありがとうございました。
来年も変わらず仲良くしてくださると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
新年最初の投稿は明日(笑)。
また【池淵】でお待ちしております。




