第二十九景【ジャム】表
感謝の気持ちを。
「まだ残っていたのですか?」
かけられた声に若い男は顔を上げて振り返った。
いつの間にか開いていた入り口に、彼の上司が立っている。
「あ、お疲れ様ですっ!」
椅子から立ち上がり駆け寄った男は、上司が向ける少し困ったような表情に首を傾げた。
「あの、僕、何かご迷惑を…?」
「そうではなく。あまり遅くならないようにと言っておいたと思うのですが」
眉を寄せながらの上司の言葉に、男はほっと息をつく。
「てっきり何か失敗をしてしまったのかと思いました」
よかった、と続けた男に、今度こそ上司ははっきりと溜息をついて男の名を呼んだ。
「先程私が言った言葉を覚えていますか?」
まっすぐ目を見て言われ、はっとした男。
「……あまり遅くならないように、と…」
しゅんとうなだれて答えるその様子に、上司はぽんと肩に手を置いた。
「急ぎの仕事はないはずです。今日はもう帰りなさい」
「わかりました…」
素直に答えた男に、上司はもう一度労うように肩を叩いた。
片付けて部屋を出る。建物内はすっかり人気がなく、静まり返っていた。
(そんなつもりじゃなかったんだけどな…)
とぼとぼ出口に向かいながら、男は嘆息した。
尊敬する上司のいる、この憧れの部署に移ることができて数ヶ月。ここで働けることが嬉しくて、できるだけ役に立ちたいと思っているのだが、自分ができることは知れていて。せいぜい時間をかけてやるしかない。
前の部署でも同じように、日々遅くまで働くことでようやく終わらせることができていた。見兼ねた同僚がやるべきことを次々教えてくれているのに、いつまで経っても効率よくこなせるようになれないままで。当時の上司からはもっと早く仕上げろと言われ続けていた。
色々と良くしてくれた恩人に、必要以上の仕事を請け負い過ぎだと注意されて。それからは自分の手に余りそうな時は断るようになったものの、遅くまで働くことには変わりなく。
そんな中で得られたここへの推薦。
嬉しい反面、推薦してくれた恩人の顔に泥を塗らないように、そして何よりずっと憧れだった上司のために、がんばらねばと思っている。
幸い身体は丈夫であり、憧れの部署の仕事は楽しく。遅くまで働くことになんの苦痛も感じていないのだが。
(上手くいかないなぁ……)
不器用な自分に肩を落とし、男は帰路に就いた。
翌日、いつものように本来の出勤時間より早くやってきた男。上司も朝早くに来ているので怒られることはないだろう。
「おはようございます。いつも早いですね」
案の定穏やかに返ってきた朝の挨拶に、大丈夫と思ってはいたもののほっとする。
「疲れていませんか?」
「大丈夫です! 僕、丈夫なだけが取り柄なんです!」
「それとこれとは別ですよ」
苦笑しながらそう返され、更に無理はしないようにと念を押された。
振られた仕事を受け取り、上司の部屋をあとにする男。
自分とは比べ物にならないくらい忙しいはずなのに、そんなことを顔にも出さずに自分を労ってくれる上司。
(本当にいい人だな…)
少しでも彼の負担を減らせるように今日も一日がんばろう、と意気込んで駆け出した。
バタバタと日中を過ごすうちに日も暮れ、急ぎの用がないのなら帰っていいと言われている時間となった。
手元には纏めておくように頼まれた書類。明日でいいと言われたが、特に急いで帰る必要もない。やってしまってから帰ればいいかと思い、資料室に向かった。
扉の開く音に、はっと顔を上げる。
振り返ると渋面の上司が立っていた。
「……あなたは本当にもう…」
低く呟かれ、思っていたより時間が過ぎていたのだと知る。
「す、すみませんっ! すぐ終わるかと…」
「どれだけかかりそうか、それを正確に読むことも必要ですよ」
言い切る前に尤もな意見で言い訳を潰され、何も言えなくなった男は口を噤んで視線を落とした。
上司の口調はいつも通りだったが、眼差しは厳しく。その場をあとにしてから、呆れられたのではないだろうかと心配になる。
若くして異例の抜擢をされ、そこから更に今の立場を任されるようになった上司。
年齢を知って、自分と数歳しか違わないのにと驚いて。それから憧れるようになった。
こうして傍で働けるようになってからは、その落ち着きと仕事振りにますます憧れを深めていたのだが。
浮き彫りになる、自分との差。
自分はどうあってもああはなれない。
近付けば近付くほど、憧れの存在は遠く思えた。
翌日も上司の様子は変わらなかったが、その日を境に日をまたぐ仕事が回されることはなくなった。
とうとう見限られたのかもしれない。
そんな言葉が脳裏を掠めて落ち込むが、自分の行動の結果なのだから仕方ないと言い聞かせる。
それでもせめて、と与えられた仕事は今まで以上に真剣に向き合おうと心に決めた。
そのうち上司からは、この時間までに仕上げてくるようにと時間を決められるようになった。
それに慣れた頃、今度はどのくらいかかりそうかと聞かれるようになった。
もしかしたら自分は見限られたのではないのかもしれない。
半信半疑ながら、そう思い始めたある日のことだった。
「今日、このあと少し残れますか?」
帰る挨拶をしに行くと、上司にそう言われた。
「え?」
「少し話をしたいと思いまして」
わかりましたと頷いて、場所を変えると言う上司についていく。
連れてこられたのは食堂。座っているようにと告げ、上司はカウンターの方へと行ってしまった。
(なんだろう……)
仕事の話なら、わざわざ食堂に来る必要もなく。かといってほかになんの話があるというのだろうか。
少々居心地悪く待っていると、上司は二人分のお茶を持ってきてくれた。
「あと、これを」
礼を言う自分の前に、向かいに座った上司が鞄から取り出した小さな瓶を置いた。
掌に収まる小さな瓶は鮮やかな赤に満ちている。
「ジャム、ですか…?」
「はい。砂糖の代わりにどうぞ」
にこやかに言われ、男は瓶を手に取った。
蓋を開け、一匙掬う。ベリーのジャムなのだろう、透き通る真紅が明かりを映り込んできらりと輝きを孕む。
白く湯気の上がる琥珀に混ぜ込むと、僅かに濁るお茶から甘い香りが立ち上った。
「いただきます…」
口に含むと感じる甘味と酸味、飲むと熱とともにお茶の香りが喉と鼻を抜けていく。
ほっと自然に息をついて、男は揺らめくお茶に視線を落とした。
こうしてゆっくりとお茶を飲むのは久し振りで。熱と甘さに温められた身体から、知らぬ間に溜まっていたものが抜け落ちていくように感じる。
自分で思っていたよりも、自分は疲れていたのかもしれない。
そう思いながらもうひと口飲んだところで、こちらを見ている上司に気付いた。
「無理をする必要のない時は、ちゃんと休息も取るようにしてくださいね」
心中を覗かれていたかのようなその言葉に、男は驚き見返す。
上司の眼差しはいつになく優しく穏やかで。その奥に見える安堵に、ようやく心配されていたのだと知った。
「まだまだあなたには手伝ってもらいたいことがたくさんあります。長い付き合いとなるでしょうから、急がずゆっくりとお願いしますね」
続けられた言葉は、自分を見限るどころか認めるもので。
礼を言おうと口を開くが声が出ず。
男はカップを持ったまま、ただ上司を見つめていた。
尊敬するこの人のようにはどうあってもなれない自分。しかしそんな自分を、ほかでもないこの人が必要としてくれている。
湧き上がる喜びに、思わずカップの持ち手を握る手に力を込めて。
「……がんばりますっっ」
「がんばりすぎるなと言っているのですよ」
溢れた言葉に、上司は仕方なさそうに笑って応えてくれた。




