第二十八景【コーヒー】
続き重なる日々の軌跡。
いつも通り朝七時に店に到着した爽香。今日もいつものように軽く店内と店の前を掃除することから始める。
冬晴れの空は冷えはするが高く晴れ、見上げていると僅かに残っていた眠気も吹き飛ぶようで。
空にまで祝われているような気持ちになりながら掃除を終え、続いてモーニングセットに出すサラダと、食器や道具の準備をする。
カウンター席四席、四人がけとふたりがけのテーブル席がふたつずつ。そんな小さな店内も、準備が終わる頃には程よく暖まった。
八時を待ち、ドアプレートをオープンに変える。
今日も喫茶せせらぎが開店した。
カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。おはようございます!」
見慣れた顔に微笑む爽香に、入ってきた老夫婦がにこやかに笑みを返す。
「おはよう、爽香さん」
「今日も元気ね」
「それが取り柄ですから!」
カウンターに並んで座ったふたりに水を出しながら、いつものでいいですかと確認をして湯を沸かし始めた。
トースターにパンを一枚入れ、皿にサラダとヨーグルトの入った器を置く。本当は一枚ずつ添えられるトーストだが、食べきれないからパンはふたりで一枚でいいと言われ、代わりにふたりの好きなヨーグルトを定量より多めに入れるようになった。
やがて沸いた湯でふたり分のコーヒーをドリップしていく。
カウンター内のスペースに限りがありサイフォンだと手狭になるので、コーヒーはネルドリップで淹れている。扱いに手間のかかるところもあるが、どうせなら店ならではの味を楽しんでほしいと思っていた。
ネルフィルターに二杯分の粉を入れ、丁寧に淹れていく。ふわりと粉が膨れて香りが立ち始めるこの瞬間は、いつも緊張と幸福の狭間にあった。
ドリップし終えたコーヒーを軽く混ぜ、ふたつのカップへ注ぎわける。
「お待たせしました」
「ありがとう」
いつものように礼を言ってくれるふたり。仕上げたトーストを半分ずつ載せたプレートも渡すと、今日はさらに待ちかねたように声をかけられた。
「今日で一年ね」
「おめでとう」
オープン一周年の感謝として来店した人にはおかわり無料のチケットを配ると告知はしていたが、まさか直接祝いの言葉をかけてもらえるとは思っておらず。
驚く爽香に、夫婦は顔を見合わせて嬉しそうに笑う。
「いい店ができて本当に嬉しいわ」
「これからもこうして寄らせてもらうよ」
開店してまもなく来てくれるようになったふたり。仲睦まじいその様子と気遣いに溢れる温かな言葉に、幾度となく励まされてきた。
「ありがとうございます…!」
湯気の向こうの優しい笑顔。
万感の思いを胸に、爽香は礼を返した。
「ごめん、遅くなった」
ドアベルと同時に店内に足早に入ってきた女性に、爽香は騒々しいと苦笑いする。
「大丈夫だから」
まっすぐバックヤードに入ったその女性は、やがてエプロンをつけて出てきた。
歳は離れているもののどこか似た顔立ちに、すぐに姉妹だと気付かれる。
「忙しかったんじゃない?」
「ううん。そんなことないわよ」
忙しいくらいじゃないとダメじゃない、と屈託なく笑う姉。
ほかに人を雇う余裕もなく、ひとりで始めたこの喫茶店。これでは昼食も食べられないだろうと、近くに住む姉と高校生の甥が手伝いに来てくれるようになった。
店も軌道に乗り、今ではようやく給料も払えるようになったが、このまま続けるとの言葉に甘えて新たに人は雇わないままだ。
気心がしれた相手という安心感ももちろんあるが、実はそれだけではない。
元々コーヒー好きは姉の方で。幼くまだ飲めない自分は、美味しそうにコーヒーを飲む姉が羨ましかった。
そして一緒に飲めるようになってからは、自分が淹れたコーヒーを美味しいと言ってもらえるのが嬉しかった。
そんな気持ちが高じて、いつの間にか飲むだけでは飽き足らず、こうして喫茶店を開くまでとなった自分。
仕事上がりのコーヒーを変わらず嬉しそうに飲む姉を見るたびに、ここを始めてよかったなと感じている。
食事メニューはトーストだけ、スイーツも袋に入ったドーナツだけ。
そんなせせらぎは、お昼時よりその少しあとの方が客が多い。
来店したスーツ姿の中年男性に、爽香はいらっしゃいませと明るく告げた。
「一周年おめでとう」
「ありがとうございます!」
常連の北崎の祝いの言葉に礼を返しながら、爽香はカウンター席を勧めた。
「それにしても、もう一年なんだねぇ」
しみじみと呟く北崎に、そうですね、と爽香が笑う。
「来てくださる皆さんのお陰ですよ」
「いやいや、そこは店主の人柄でしょ」
冗談めかして告げられるが、食後のコーヒーを昼食を取った店で頼まずに、わざわざここへ飲みに来てくれていることを知っている。
「嬉しいことを言ってくれますね」
もちろんコーヒーそのものの味も気に入ってもらえているのだろうが、こうした会話も楽しんでくれているからだと思っていた。
食事もできたらいいのにと言われたこともあるが、カウンター内が狭く調理には不向きで。
食事メニューもカフェのようにスイーツを用意するのも元から諦めているが、せめてそのうちに焼菓子くらい自家製のものを置ければと。試作どころか何ひとつ具体案のない、まだ絵空事の未来を夢見ている。
四時頃にやってきたのは制服姿の男女だった。高校生くらいの少年と少女は、まっすぐカウンターに近付くとひとつずつ手にした袋を差し出す。
「仕事前に、これ」
「一周年おめでとうございます」
ひとつは爽香に、そしてひとつは。
「私?」
「母さんだって従業員だろ」
押し付けるように渡し、少年は着替えてくると奥へと入った。
「照れてる照れてる」
逃げた息子と呆然と立つ母親。その姿に爽香と少女が笑い合う。
「いい息子でよかったね、お姉ちゃん」
からかうような爽香の声に我に返り、戸惑いと間違いなく嬉しさの滲む顔で、ほうっと息をつく姉。
「…あの子ったら……」
珍しい姉の様子にもう一度笑ってから、爽香は改めて自分にも渡されたプレゼントを見やった。
思いがけない贈り物。その気持ちが何よりも嬉しい。
「ありがとう。さ、座って」
「はい」
爽香に勧められてカウンター席に座った少女は、持っていたトートバッグからもうひとつラッピングされた包みを取り出した。
やがて着替えて出てきた少年に渡されたそれ。
自分が母親へと渡した理由と同じそれを告げられて。彼女からの思いがけない贈り物に真っ赤になって再びバックヤードに引っ込んだ少年を、爽香たちはもちろん、居合わせた客たちも微笑ましげに見送った。
閉店の七時を目前に客が途切れたので、少し早いが閉めようかとしていた時だった。
ガラン、と慌てた様子でドアが開けられる。
「よかった、間に合ったぁ」
飛び込んできた若い女性は、そうほっとしたように零した。
「沢村さん」
慌てた様子に驚く爽香に、沢村はカウンター越しに手にしたケーキ箱を渡した。
「一周年、おめでとうございます」
「ちょっと待って。せっかく来たんだから、よければ飲んでいって」
それだけ言って帰ろうとする沢村を止めると、もう閉店なのにと申し訳なさそうな顔をされる。
「私も今日は最後に飲むつもりだったの。時間があるならつきあってもらえたら嬉しいんだけど」
そう重ねると、迷っていた沢村も嬉しそうに頷いてくれた。
ドアプレートをクローズに変え、二杯分のコーヒーを淹れてカウンターに並んで座る。もらったケーキは半分ずつにした。
「引き止めてごめんなさいね」
「いえ! 嬉しいです」
コーヒーを一口飲んだ沢村は、カップを持ったままふっと息をつく。
「仕事で疲れても、ここに来ると元気をもらえるんです。…美味しいコーヒーと、爽香さんに会えるから」
初めての来店時、どこか落ち込むような表情が気になり声をかけた。仕事での悩みを少し聞いただけで何ができたわけでもないが、それ以来こうして時々来てくれるようになった。
「この店があって。爽香さんがいてくれて。本当によかったって思うんです」
しみじみと呟くその様子に、爽香の胸にも喜びが湧き上がる。
「…私の方こそ、来てもらえて嬉しいわ」
目の前のコーヒーを見つめながら。
爽香も心からそう返した。
最後まで礼を言う沢村を見送って。
残る片付けをしながら、爽香は今日一日を振り返る。
オープン一周年。感謝をするのは自分の方なのに、朝からたくさん祝われてきた。
この先また一年、頑張ろうと思う気持ちをもらえた。
店内を見回し、笑みを浮かべる。
描く未来はたくさんある。しかしそれでも変わらずにいられたらと思うこともある。
行列のできるような店でなくていい。
訪れた人がほっと息をつける、そんな場所であれればと。
一日を、一月を、一年を、丁寧に積み重ねながら。
この先も、ずっと―――。
【コーヒー】です。ほぼ毎日飲んでいます。
ずっとお伝えしてきているように、小池は残念な味覚しかなく。とりあえずコーヒーの味と香りがするならいいや、という程度です。普段はインスタント。
そんな小池ですが、缶コーヒーは一切飲みません。
昔の缶コーヒーって、独特な風味がしませんでしたか? あれ? そう思ってたの小池だけですか??
なんだか玉ねぎっぽい風味がして。それを消そうと牛乳をドバドバ入れていたら母親に怒られました。
最近のはそんなこともない…のでしょうけど。未だにどうしても手が出ません。
ちなみにペットボトルのは平気です。
紅茶もそうなのですけど。
ペットボトルのはフレーバーものが多くて。好みのフレーバーだとつい手が出てしまいます。
ただ、コーヒー紅茶ではなく、ジュースとして飲むような感覚ですけどね…。




