第二十七景【色】表
映る色と気持ち。
文化祭初日、結菜は友人の明日香と廊下を歩いていた。
あちこち飾り付けられ、どこの教室も店や展示の看板がかけられている。毎日通っている学校なのにまるで別の場所にいるような高揚感を覚えながら、ふたりはきょろきょろと周りを見ては、午後に来ようと盛り上がった。
「じゃあ行ってくる〜」
「あとで行くからね」
今から昼までの一時間半、明日香は所属する書道部の解説員として展示室に待機することになっている。書道室へ行く明日香と別れ、結菜が向かうのは美術室。今からそこで、彰良と会う約束をしていた。
本屋で彰良と会って以来、教室でもよく話すようになった。とはいっても、以前よりはというだけで、話す内容は挨拶やちょっとしたことばかり。今日明日の文化祭に向け忙しかった彰良と下校のタイミングが合うこともなく、ゆっくり話すのはあれ以来だった。
美術室前の廊下に立つ彰良を見つけて浮足立つ気持ちそのままに駆け寄ると、急がなくていいよと微笑まれる。
「じゃあお願いします」
「案内するほどじゃないけどね」
お互い顔を見て笑い合ってから、ふたりは美術室へと入った。
美術室では美術部の展示が行われていた。広い部屋はホワイトボードで仕切られているようで、いつもの半分ほどの広さになっている。壁とホワイトボードには絵が掛けられ、カーテンの閉められた窓沿いにはイーゼルに置かれた絵が並んでいた。中央の机には、数は少ないが立体の像や仕掛け絵本のようなポップアップの作品が置かれている。
「絵だけじゃないんだ…」
呟く結菜に、彰良は入口脇にいた部員から渡されたリーフレットを手渡した。
「俺は絵しか描けないけど。皆好きにやってたよ」
一枚目の絵の前で立ち止まり、好きに見て、と言われる。絵と彰良とリーフレットを見比べてから、結菜は少し緊張した面持ちで頷いた。
壁沿いを歩きながら、一枚一枚絵を見ていく。結菜からすればどれも素晴らしく、そして同時に、それぞれの絵の下に貼られた名に尊敬を覚えた。
こうして堂々とこれは自分の創ったものだと言える勇気は、まだ自分にはない。
彰良の名が目に留まり、その上の絵へと視線を移す。
描かれているのは室内にいる見慣れた服の人々。皆あちこちを向いているが、どの人の前にもイーゼルに置かれたキャンバスがある。左にはうしろ姿の肩までの髪の女生徒が緑色と灰色と水色の絵に向かい、右では思案げな横顔の男子生徒がキャンバスに向かっている。中央奥の男子生徒とはキャンバス越しに目が合うように思えた。
「美術室…?」
「うん。部活中」
覚えある部屋の様子に尋ねると、少し苦笑して頷かれる。
「人物画をって言われてたんだけど、苦手で。これで許してもらったんだ」
苦手、と彰良は言うが、結菜からすれば十分すぎるほどに上手い。
おそらく、どれだけ描けても満足することなどないのだろうな、と。己と周りの人を思い出して納得する。
創り出す者とは、きっとそういうものなのだろう。
だからこそ飽かずに求め続け。
だからこそ諦められず創り続ける。
自分はまだ、その入口に立ったばかりではあるが。
己の絵を説明してくれる彰良を時々こっそり見上げながら、結菜はその声を聞いていた。
草むらを走る猫。葉脈や雄しべまで細かく描き込まれた花。彰良の絵はとても丁寧で、どこか温かく感じた。
最後の展示は風景画。彰良の絵はほかの三枚よりも大きなサイズだということを除いても、一番力を入れていたのだとわかる。
オレンジに染まる、夕暮れの海辺。
夜に落ちる寸前の暗い赤だった『N』の絵とは違い、明るく鮮やかで。圧倒されるようなことはないが、どこか懐かしくて温かな気持ちになった。
(…これ、なんだか……)
ふと浮かんだ思いに、なんだか嬉しくなる。
(うん…。この絵が一番好きかも…)
彰良の描いた四枚はどれも優しい印象であったが、この一枚はそれに加えて塗り込められた彰良の思いが伝わるようで。迷い模索しながら、それでも堂々と描ききられたこの絵には、あの暗い赤ではなく明るく煌めくオレンジ色がよく似合うと思った。
「どうしても海が描きたかったんだけど。やっぱりあんな風には描けなかった」
そんな結菜の思いとはまるで真逆のように、彰良の声はどこか悔しそうに聞こえて。
「…私はこの絵…いいと思うけど…」
思わず口を挟んでしまい慌てるが、彰良にはありがとうと返された。
「まだまだだって。そう思うよ」
呟き、隣にある絵を一瞥した彰良。その視線を追った結菜は、その絵が人物画に描かれていた女生徒の描いていたものと同じ色合いであることに気付く。
緑に縁取られた岩肌を流れ落ちる滝。白い飛沫を上げて跳ねる水は、手前に来るほど川底が見えるほど透き通る。
おそらくという予想は、その絵の右下に書き込まれた『N』の文字に確信へと変わった。
この絵が、そしてあの人が『N』
隣で彰良が浮かべる憧れに、結菜は視線を逸らす。
憧れの対象は絵なのか。
それとも、あの人なのか。
そう考えると、胸が苦しくなった。
ひと通り見終わり、結菜と彰良は美術室を出た。
「ありがとう」
「こっちこそ。来てくれてありがとう」
向かい合い礼を言うと、柔和な笑顔を返された。
「あっ、あのね、これ…」
跳ねた鼓動をごまかすように、肩に下げていたトートバッグを覗き込んで手を入れる。取り出したものをひとつずつ、彰良に渡した。
調理部で作ったパウンドケーキとクッキー、そして、文芸部の冊子。
「載ってるの?」
彰良の言葉に小さく頷く。
―――あの日の彰良の言葉に考え、勇気をもらい。文芸部に入った。
『痕跡』に憧れたと言うと『N』が名乗り出てくれた。三年生の成海天哉。今回の冊子では本名で明るいお祭りの話を書いている。本人曰く『文化祭はお祭りだからね』ということらしい。
名を知らぬままこれを読んでもわからなかったかもしれない。思い至ったその可能性に、勇気を出して本当によかったと思った。
書くのかと聞かれ、頷くことができた。夏休み中に書いたものを見せると、その中のひとつを冊子に入れようと言ってくれた。
手直しをして部のパソコンで打ち直し、印刷されたもの。『藍』の名で載る手書きでない物語は、なんだか自分の書いたものではないように思えてくすぐったかった。
「こっちは調理部のだよね。もらっちゃっていいの?」
菓子の袋を見ながらの彰良の言葉に、結菜はもちろんと頷く。
パウンドケーキは売っているものを朝のうちに買わせてもらったが、クッキーは家でひとりで焼いたものを持ってきた。売っているものとは中身も量も違うが、基本のレシピも、袋もワイヤータイも余ったものをもらったので同じもの、一見はわからないだろう。
「白石くんのお陰だから。これじゃお礼にならないけど」
そう言い笑うと、彰良は手元から結菜へと視線を移した。和やかだった眼差しが、すっと引き締まる。
「…じゃあ、今度描かせて」
「え?」
「人物画、苦手だから練習したくて。モデルになってくれる?」
何を言われたのかがわからずきょとんと彰良を見つめる結菜。
「向き合ってじゃなくて。遠目でもいいから」
少し恥ずかしそうに笑みを浮かべてつけ足す彰良。
混乱しながらもわかったと頷いてしまった結菜は、彰良がほっとしたように表情を緩めたことに更に動揺する。
彰良は『N』に憧れているのではないのか。あの人のことが好きなのではないのか。
口に出せない問いに答えはなく。彰良はひとりで、部活中に来てもらうのはからかわれそうだし、と呟いている。
入口でリーフレットをもらう時もどこか含みのある眼差しを向けられていたが、彰良は自分とのことを誤解されからかわれてもいいのかとは、やはり聞けず。
惚けて見返す結菜を、彰良が覚悟を決めたように見つめ返した。
「…休みの日。海でもいい?」
緊張の伝わるその声に、結菜はようやく己の勘違いに気付く。
一気に熱の上がる顔に、おそらく赤くなってしまっていることはわかったのだが。それでも目を逸らせずに、結菜はこくこくと頷いた。
「う、うん。いいよ」
瞬間、嬉しそうに緩む彰良の表情。抱いていた問いに全て答えてもらえたようなその笑みに、結菜はきゅっと手を握りしめる。
初めての気持ちに胸を締めつけられながら。それでもこの気持ちを言葉にするなら、嬉しい、なのだろう。
「代休の月曜は?」
「だっ、大丈夫っ」
よかった、と笑み崩れる彰良。
恥ずかしくて見ていられなくなって、結菜はそっとうつむいた。
表しかなくて驚かれたならすみません。
カレンダー連動として、裏は11/6の月曜日に投稿されます。
いつもの後書きはまた裏で書きますね。
代わりというわけではないのですが。
自分でもどんなのかなぁと思い、『痕跡』を書いてみました。
よくわからない出来になってしまいましたが。ここに載せておきますね。
・・・・・・・・・・
『痕跡』
N
傾く陽が遠くビルの裏側へと身を隠し始めた。海岸堤防の向こうに並ぶ家々は夕陽を背負い、その正面に一段濃くなる影を纏う。
道の向こうからまっすぐに続いている堤防の上を、ひとりの少女が歩いていた。まだ冷たい風に靡く見るからに薄手の白いワンピースはどこか薄ら寒さを感じさせるものでありながら、染まる色のお陰か、少女の浮かべる柔らかな笑みのせいか、少女自体は凍えているようには見えない。
夕陽色のワンピースを翻して歩く少女。時折歩を緩めては、次第に大きくなる夕陽や赤く染まる海を見る。見上げる顔は夕陽を受け明日への希望を映すように輝き、見下ろす顔は逆光で明日への不安を表すように暗く沈む。
希望と不安を半々に前を向き進む少女は、やがて堤防の切れ目に辿り着いた。躊躇いもせず飛び降り、広がる裾を払うように押さえてから、海岸への階段を降りていく。
堤防真下の砂浜は暗く沈んでいた。影の届かぬ波打ち際はまだ少し明るさが残り、赤く煌めく波頭がその輝きを届けようとするように、飽きもせず打ち寄せ続ける。
動く度にキラキラと増すように見える光の際へと向かう途中、少女は履いていた靴を脱いだ。点々と跡をつけながら、波を追い、波に追われて歩く。波打ち際に沿う足跡は所々波に浚われ形を失っても、なお少女の痕跡を残していた。
夕陽はすっかり街に落ち、ビルの合間から赤い斜光が差すのみとなった。光源を見失った海からは闇が立ち昇り、僅かな名残も呑まれていく。
波打ち際を歩いていた少女がふと立ち止まり、街を見上げた。ビルの後ろに徐々に消えゆく光の帯を見届け、まだ赤みの残る空に背を向ける。
空と海との境目は闇に溶け、水平線は紛れて消えた。少女の背負っていた僅かな赤は急速に失われていき、それに取り縋ろうとするように闇が空を渡る。海に染み出した闇は波頭の光を呑み込み、少女の足下へと広がっていく。
空からも海からも手を伸ばす闇を見据えるように、少女はじっと一点を見つめていた。
頭から覆い被さり、足元から這い上がるそれにも怯えた様子は微塵も見せないまま。闇色のワンピースを纏った少女は、ここまで刻んだその足跡ごと闇に沈んでいく。
黒い闇が寄せては返す波打ち際には。
今はもう、何の痕跡もない。




